奈良の風土:なぜ奈良盆地にヤマト政権が誕生したのか? | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

最初の実地検分先として選んだ奈良県。「なぜ奈良盆地にヤマト政権が誕生したのか?」に関しては、さまざまな仮説がありますが、気象条件や地形、歴史学関連の各種書籍を読んだ限り、私の仮説としては「海に繋がる盆地だから」ではないかと現時点、思っています。

 

「海に繋がる盆地」とは、山に囲まれた盆地でありながら、大和川を通じて海=外に繋がっているからという意味です。更に、琵琶湖や東海地方を通じて日本海や関東地方ともアクセスしやすい交通の要衝としての立地は、列島を支配するにふさわしい場所だったともいえます。

 

このように考えると、列島を支配するにふさわしい立地だからこそ、奈良盆地に位置する権力が、列島を支配することとなったともいえます。

 

■今は湾岸、昔は盆地

現代の列島の大都市は、東京や大阪・名古屋・横浜など、湾岸含む「海に面した平野」が多いですが、歴史的な列島の大都市は「奈良や京都など内陸の平野=盆地」です。

 

東京や大阪・名古屋などの湾岸エリアは元来、陸地に降った雨が海に向かって集積する大湿地帯。大湿地帯は洪水が頻繁に発生し農作物も作れず、湿気も多くて感染も流行しやすくて住みにくい地域。今は高度な土木技術(堤防やダム)と衛生管理(上下水道)によって埋立地含め、広大な平地を自由に活用できますが、古代ではそうもいきません。

 

逆に奈良盆地は内陸のため、湾岸地域ほど川が集中することもないので洪水が起きにくい。盆地で雨は少ないのですが大和川水系を活用して簡単な灌漑用水やため池などを作れば、十分農業用水を確保できます(現代は大滝・大迫などの吉野川水系の巨大ダムと吉野分水によって更に充実)。

 

海に繋がる利

奈良盆地は、吉野川(紀の川)に沿って中央構造線から北方に向かって、西側は生駒・金剛山脈(と断層)、東側は奈良盆地東縁断層帯に挟まれた盆地。四方の山地から流れこむ川が持ち込んだ土砂によって平坦な土地がある程度広がり、耕作にも適した土地。

 

また、大和川を通じて盆地でありながら海にも通じており、他地域との交流もしやすい。つまり、さまざまな情報が集まりやすい海に繋がる盆地。

 

マット・リドレー著「繁栄」によれば「文明は、交換と分業が盛んになればなるほど発展する」というから、列島各地に多くの政治権力が誕生したに違いありませんが、奈良盆地はシルクロードの終着地として、中国大陸を中心とする各地の「情報」を一番かき集められる、という立地。つまり「情報の終着駅」として最も発展しやすい地域だったからではないかと思います。

 

 

 

 

渡来人がもたらす先進的な技術(農工商)や文化(集団をまとめあげる物語=仏教など)を吸収して、勢力を拡大し、列島の四方八方にアクセスしやすい地の利を生かして日本各地を制圧していったのではと思います。

 

私も実体験すべく、自転車で長居スタジアム近隣(標高10m)から大和川をサイクリングロード中心に実際に遡ってみたのですが、走った実感としては、遡っていくにしたがって二上山がみえ、南側には古墳らしき丘が見えてくる、という期待感を盛り上がらせてくる感じ。

 

 

生駒・金剛に挟まれた亀の瀬エリア(標高80m)も

 

 

峠といえるほどの高低差もなく、狭い峡谷をくぐり抜けると視界がパッと開け、昔だったら西方には法隆寺を中心に斑鳩の伽藍がみえたでしょうから、ヤマト政権も、なかなかのプレゼンターだったのではと思います。

 

 

盆地に入れば広大で平坦な土地が現れ、川や灌漑用水路が縦横無尽に流れ、古くからのため池もしばしば見受けられましたので、洪水や水涸も心配不要で政権を維持できたのではないかと容易に想像できます。

 

 

仏教伝来の地は、

 

ヤマト政権のルーツともいえる奈良盆地南東の桜井市の三輪山南麓にありましたが、大和川でここまで川を遡って大陸の文明がやってきたということなのでしょう。

 

 

今、薬師寺で公開中(2022年1月16日まで)の食堂(じきどう)に日本画家の田渕俊夫氏が描いた遣唐使船の壁画を観ると、ゆったりと揺られながら大和川をさかのぼり、奈良盆地にたどり着いた様子が見事に描かれています。

 

 

以上、奈良盆地の地理的な実体験を踏まえて整理すると、この地に列島を支配する政権が生まれたというのも納得です。

 

<薬師寺HPより>