To spread the pride of Japan

To spread the pride of Japan

日本の陰ばかりではなく
光輝く本当の姿を多くの人々に広めていきたい

Amebaでブログを始めよう!

今から100年ほど前


シベリアで死にかけていた

ポーランドの孤児達を救おうと

多くの日本人が動いた事があります。



以下転載、一部省略


今から100年前
ポーランドは、ロシアの支配下におかれ、祖国ポーランドの独立を図ろうとするポーランドの愛国者たちは、シベリアに強制的に流刑となりました。




極寒の凍土と食料配給が来ない事で、多くの愛国者たちが、病や飢えに倒れていきました。

生き残った愛国者たちの子供達は、さらに悲惨な状態に置かれました。

「せめて、せめてこの子供達だけでも生きて祖国に送り届けたい」

1919年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは「ポーランド救済委員会」を組織し、子供達をなんとかして祖国に送り返そうとします。

けれど、全員が流刑者でお金がない。

会員を募り、資金をカンパするけれど、子供達を飢えから救い、祖国に送り返すだけの資金が足りませんでした。

1920年の春になると、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まります。

孤児たちをロシアのシベリア鉄道でポーランドに送り返すことは、完全に不可能になりました。

そこでポーランド救済委員会のメンバーは、欧米諸国に、子供達を救いたいと援助を求めます。

けれど、ポーランドの孤児たちを支援することは、ロシアを敵に回すことになる。

ロシアとの紛争を避けたい欧州の諸国は、ことごとく救済委員会の申し出を拒否。

シベリアにいるポーランドの孤児たちは、ヨーロッパ中の国々から、見捨てられてしまったのです。



最後に救済委員会のメンバーは、まだ国交が無かった日本に援助を要請しました。

救済委員会の会長は、満州にいた日本軍の協力を得て、1920年6月に来日します。

そして外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴えました。

外務省は即座に日本赤十字に連絡。

そして日赤はシベリア孤児の救済事業を行なうことを決定。

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て、決定からわずか2週間後には動き出しました。

シベリアから船で合計765名のポーランド孤児達が日本に到着。






日本に到着したポーランド孤児たちの話

「ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されました。そのあと、支給された浴衣の袖に、飴や菓子類をたっぷ入れてもらいました。とっても感激しました」

「特別に痩せていた女の子は、日本人のお医者さんが心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれました」

到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。

この孤児達の為にと、無料で歯科治療や散髪を申し出る人達もいました。

学生の音楽隊も、演奏に来てくれました。

他にも個人で慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々が後を絶ちせんでした。


腸チフスにかかっていた子供を、ある日本人の若い看護婦さんが、必死に看病してくれましたが、その看護婦さんは、チフスが伝染して亡くなりました。


その亡くなった看護婦、松澤フミさんはその後ポーランドから栄誉賞を贈られています。


そのような悲劇もありましたが、人々の好意は、変わらずに続きました。


1921年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた大正天皇の皇后陛下も、日赤本社病院で孤児たちを親しく接見されました。

皇后陛下は、可憐な女の子を抱いて、その頭を幾度も撫でながら「健やかに育ってね」とおっしゃられました。

こうして、日本の手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で痩せこけていた孤児達は、急速に元気を取り戻しました。


約2年が経ち、帰国の時

日本出発前には各自に洋服が新調されました。

さらに航海中の寒さも考慮されて、全員に毛糸のチョッキが支給されました。

さらに多くの人々が、子供達に衣類やおもちゃの贈り物をしてくれました。

横浜港から祖国へ向けて出発する際、幼い孤児達は、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がったといいます。

孤児達は「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表しました。

神戸港からの出発では、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送人たちは、子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振りました。


ポーランド孤児の話

「子供達をポーランドに送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめていた。その手の温かさが忘れられない」

こうして祖国に戻った孤児の中に「イエジ・ストシャウコフスキ」という少年がいました。

彼は、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長に就任します。


1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定。

彼の組織には、シベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児達、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちが参加し、やがて1万数千名を数える巨大レジスタンス組織になります。

彼は、ワルシャワを拠点として地下活動を展開したのですが、当然、これにナチスドイツが目をつけます。

ある日、イエジが隠れ家として使っていた孤児院に、多数のドイツ兵が押し入ってきて強制捜査を始めたのです。

この時、駆けつけたのが日本大使館の書記官でした。

日本人書記官は、武装したナチスの兵士達を前に「この孤児院は日本帝国大使館が保護している」と強調。

そして、孤児院院長を兼ねていたイエジ青年に向かって、「君達、このドイツ人達に日本の歌を聞かせてやってくれ」と言います。

イエジ達は日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱した。

ドイツ兵たちは「大変失礼しました」といって引き上げ、イエジ青年たちは一命をとりとめています。

日本大使館は、このドイツとの三国同盟を最大限に活用して、イエジ青年たちを幾度となく庇護したのです。





月日は流れ…………



1983年


第2次大戦で祖国の為に戦ったイエジ・ストシャスコフスキ氏は、再度シベリアに送られましたが、76歳の時に念願の日本訪問を果たしました。

そして日本赤十字社を訪れ

「64年前、私達孤児が日本の皆様や日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたく訪れました。ありがとうございます」 

と、大粒の涙を払おうともせずに、感謝の気持ちを伝えました。









1995年、ポーランドにて

ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、8名の元ポーランド孤児を招待しました。

全員が80歳以上のご高齢です。

一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつきました。

そのご婦人のお話

「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。

だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、這ってでも伺いたいと思いました。

なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞いたからです。

今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません」

老婆達は70年以上昔の日本での出来事を、細かなところまでよく覚えておいででした。

別の一人の老婆は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、いまでも肌身離さずに持っていると、みんなに見せてくれました。

同様に日本を離れる際に送られた布でできた帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物として、いまも大切にたいせつに持っているものを、互いに見せあいました。





同じ頃、阪神淡路大震災で被災して心に傷を負った子供達50人が、ポーランド駐日大使館の厚意によってポーランドに招待されました。ポーランドでの反響は大きく、多くの企業や人々から支援の申し出がありました。

その時にもかつての孤児が集まり、子供達を励ましたそうです。


震災で被災した子供達に囲まれる

アントニナ・リロさん(右から4番目)


彼女は日本からポーランドに帰国後、戦時下でも自身の命を顧みず、ユダヤ人の子供をナチス・ドイツからの迫害から守った事で、イスラエル政府から杉原千畝氏と同様の「諸国民の中の正義の人賞」を授与された人です。








2002年7月

天皇皇后両陛下がポーランドを訪問した際、高齢となった3人の元孤児達が「是非ともお礼を伝えたい」と駆けつけた。






「私は大阪におりました。人生最大の感謝を抱いております。日本での生活は人生で一番の良い時間でした」



その3人の中には

大正天皇の皇后陛下にお会い出来た

ハリーナ・ノヴェツカさんもいました





元孤児として最後の一人となった

アントニナ・リロさんは


「日本はまるで天国のようなところでした」という言葉を遺し、2006年7月に90歳の生涯を閉じました。




生き証人は、もう誰もいなくなりましたが


今から約100年前の日本人が

異国の子供達を救おうとした想いが


今も、ポーランドと日本を、繋いでいます。










記事の記載には

国際派日本人養成講座「地球史探訪: 大和心とポーランド魂」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog142.html

 

ねずさんのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1525.html

 

ぼやきくっきり

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1546.html

 

以上を参照させて頂きました

 
日本とベルギーの話は
1873年(明治6年)から始まる
 
欧州を訪問していた岩倉使節団は
日本より小国でありながら産業を発展させ、
国防を充実させていたベルギーの国王
レオポルド2世と謁見する。
 
 
 
それから20年後
 
1893年(明治26年)
 
岩倉使節団を出迎えた一人
ベルギーのアルべール・ダネタン男爵は
その経歴を買われて日本の特命全権公使に任命された。
 
 
1894年(明治27年)日清戦争が勃発
 
日清戦争に関して、諸外国の新聞は
「日本軍は住民を殺害した」と報じて非難した。
 
しかし、ダネタン公使はこの事件を自ら調査し、
記事が捏造で誤報である事を証明する。
 
「殺された者は軍服を脱いだ兵士達で、住民が殺された事実はない」
 
さらに「日本の赤十字は皇后陛下の支援の下、見事に機能し、
捕虜に対してジュネーブ協定を守っている」と広く世界に広めた。
 
 
ダネタン公使は日露戦争の時にも、
「ロシア兵捕虜が日本軍に虐待されている」という捏造記事を修正し、
公平な情報を発信して欧州列国の誤った対日観を正した。
 
当時の日本人はそのような彼に対し
「日本の名誉を守ってくれたベルギー人」として記憶したのだろう。
 
 
1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発
 
ロシア・フランスと戦う事になったドイツは
フランスを攻撃する為にべルギー領を横切って侵攻しようとした。
 
 
当時、永世中立国を標榜するベルギー国王アルべール1世は
「ベルギーは道ではない、国だ」とドイツの無法な態度に反発。
 
連合国側からの参戦要請も拒否し、終戦まで自国軍だけで戦うも、
国王はフランスに亡命せざるを得なくなる。
 
結果的にドイツ軍により国内は占領されるが、
 
ベルギーが大国の不当に立ち向かい、
果敢に戦う姿勢に日本人は武士道精神を感じ、
かつて日本の名誉を守ってくれたベルギー公使の恩にも報いるべく、
支援の声が沸き上がった。
 
特に大阪朝日新聞(当時はまともだった)は
国王アルベール1世に武士道精神の証である日本刀を献上し、
その後もベルギーの惨状を紹介する記事を連載し、義援金を募った。
 
 
1921年(大正10年)
 
昭和天皇が皇太子だった時、皇室史上初の欧州訪問が実現した。
 
予定は英仏2カ国だったが、
皇太子殿下の希望でベルギー、オランダ、イタリアを追加訪問。
 
ベルギーに到着した皇太子殿下は第一次世界大戦の戦跡を訪れ、戦死者の墓に献花を行った。
訪問が単なる見学ではなく、
第一次世界大戦で祖国を守った兵士達への弔問の意味があるのを知ったベルギー国民は感激し、熱烈的に歓迎したという。
 
当時皇太子だった昭和天皇のイギリス訪問時の写真
 
 
1923年(大正12年)関東大震災が発生
 
死者行方不明者10万人という大惨事となる。
 
関東大震災のニュースは世界を駆け巡り、各国は日本支援に乗り出した。
 
米国が2000万円、英国が400万円の支援。
続いて3番目がベルギーだった。
 
第一次世界大戦でドイツに占領され、独立直後で国がまだ疲弊している状態。
国土面積は日本の12分の1。
 
そのような中、ベルギーの総意として35万円が支援された。
その心意気は日本中を驚かせた。
 
その支援に奔走してくれたのは
ダネタン公使の後任を努めた
アルベール・ド・バッソンピエール大使
 
 
東京都復興記念館にある震災を描いた絵画
 
白い軍服姿は山本権兵衛首相
隣の紳士が震災支援に奔走してくれた
アルベール・ド・バッソンピエール大使の姿
 
実際にこのような場面は無かったらしいが
ベルギーへの敬意と感謝の念を込めて描かれたという
 
 
バッソンピエール大使は大の日本好きだったが、
第二次世界大戦で仇敵であるドイツと日本が
同盟を結んだ事によって国交断絶となり、
失意の中、ベルギーに帰国する事になる。
 
 
 
それから月日が流れ
 
1971年(昭和46年)
昭和天皇が天皇として歴史上初めて外国を公式訪問
 
それはベルギーだった
きっかけとなったのはベルギー国王ボードワン1世からの招待だったという。
 
 
1989年(昭和64年)昭和天皇が崩御
 
164もの国や地域から元首や代表が弔問に訪れた。
 
その筆頭格の弔問客として、葬儀で最上席に着いたのが
ベルギーのボードワン国王だった。
 
ボードワン国王は即位の礼まで参列した。
 
 
 
1993年(平成5年)ボードワン国王が急逝
 
葬儀には天皇皇后両陛下が御参列された。
歴代天皇で外国王室の葬儀に出席したのは初めての事だった。
 
 
その1ヶ月後に、異例中の異例で再度ベルギーを訪問。
両陛下はアルベール国王の即位を直接祝福なされた。
 
 
 
2016年にもベルギー国王夫妻は訪日された
 
 

二人の外交官が日本を愛し、
守ってくれた事で始まった両国の友好は、
それぞれの皇室と王室の絶え間ない交流に繋がった。
 

 



敢然として明治日本の名誉を守った
べルギー特命全権公使アルべ-ル・ダネタン男爵
 
彼は特命全権公使の在任中
1910年7月に東京で死去。
日本とベルギー両国の友好を見守りつつ
雑司ケ谷墓地で眠っている。
 
 
 
その遺志を継いだ
アルベール・ド・バッソンピエール大使
 
 
 
彼の曾孫は駐日ベルギー大使館の
公使参事官として任務を遂行しているという。
 
リストフ・ド・バッソンピエール公使参事官
 
 
 
 

 


 
 
 
以下のサイトの内容を
一部省略し転載させて頂きました
 
ねづさんのひとりごと
 
まぐまぐニュース
 

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.mag2.com/p/news/162826/amp%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoATgB

 
 
以下引用
 
 
 
第一波、第二波と攻撃を受けるうち、
 
大和の後部が白煙を上げているのが
私にも分かりました。
 
なおも攻撃が続けられ、
魚雷が的中した時は震度5にも
感じられるほど激しく揺れました。
 
次第に船は傾いていきます。
 
砲術学校では、
戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。
 
それでも、戦闘中は命令がない限り 
持ち場を離れることはできません。
 
その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
 
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。
 
すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
 
それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
 
もう海に飛び込むしかない。
 
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
 
私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
自分の腹を掻っ捌いたのです。
 
噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
 
船はますます傾斜がきつくなっていきました。
 
90度近く傾いた時、
私はようやく海へ飛び込みました。
 
 
 
飛び込んだのも束の間、
 
沈む大和が生み出す渦の中へ
巻き込まれてしまいました。
 
その時、私の頭に過ったのは
海軍で教わった「生きるための数々の方策」です。
 
海軍に入ってからというもの、
私たちが教わったのは、
ひたすら「生きる」ことでした。
 
海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
 
漂流した時は体力を消耗してしまうから
 
泳いではならない……。
 
陸軍は違ったのかもしれませんが、
 
海軍では
「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」
などと言われたことは一度もありません。
 
ひたすら
「生きること、生き延びること」を教わったのです。
 
だから、
この時も海の渦に巻き込まれた時の
対処法を思い返し、実践しました。
 
しかし、どんどん巻き込まれ、
あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
 
その時、ドーンという轟音とともに
オレンジ色の閃光が走りました。
 
戦艦大和が大爆破したのです。
 
そこで私の記憶はなくなりました。
 
 
 
 
気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
 
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
 
しかし、一所懸命泳ぐものの、
次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
 
「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
 
この期に及んで情けない、
誰にも聞かれてなければいいが……。
 
すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長が
いらっしゃいました。
 
「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。
 
そう思って身構える私に、
彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
 
そして、なおもこう言ったのです。
 
「もう大丈夫だ」
「おまえは若いんだから、頑張って生きろ」
 
4時間に及ぶ地獄の漂流後、
 
駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、
大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
 
高射長は大和を空から守る
最高責任者でした。
 
大和を守れなかったという思いから、
死を以て責任を取られたのでしょう。
 
高射長が私にくださったのは、
浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。
 
……………………………………………………………………………
 
昭和60年のことです。
 
いつもピアノの発表会などで
お会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。
 
彼女は辺見さんが書かれた
『男たちの大和』を取り出し、
こう言ったのです。
 
「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
 
驚いたなんていうものじゃありません。
 
戦後、何とかしてお墓参りをしたい
と思い、厚生省など方々に問い合わせても
何の手がかりもなかったのに、
 
前から知っていたこの人が
高射長のお嬢さんだったなんて……。
 
念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
手を合わせることができましたが、
墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
 
もっとずっと年上の人だと
思い込んでいたからです。
 
その時私は50歳を超えていましたが、
 
自分が31歳だった時を思い返すと
ただただ恥ずかしい思いがしました。
 
そして、
不思議なことに、それまでの晴天が
急に曇天となったかと思うと、
 
突然の雷雨となり
まるで「17歳のあの日」が
巡ってきたかのようでした。
 
天皇も国家も関係ない、
自分の愛する福山を、
そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
 
不沈戦艦といわれた大和の沈没、
 
原爆投下によって被爆者になる、
 
そして、敗戦。
 
 
そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
 
17歳といえば、
いまの高校2年生にあたります。
 
……………………………………………………………………………
 
最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
現在の学生の姿を見ると
明らかに戦後の教育が間違ったと
思わざるを得ません。
 
いや、生徒たちだけではない。
 
間違った教育を受けた人が
先生となり、親となって、地域社会を
動かしているのです。 
 
その元凶は昭和史を学ばないことに
あるような気がしてなりません。
 
自分の両親、祖父母、曾祖父母が
どれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
 
いくら石器時代を学んだところで、
真の日本人にはなれるはずがない。
 
現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
真顔で聞き返すのですから。
 
よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
毎日のように親と子が殺し合うこの日本の
どこが平和ですか?
 
確かに昔も殺しはありました。
 
しかし、「殺してみたかった」などと、
意味もなく殺すことは考えられませんでした。 
 
真の平和とは、歴史から学び、
つくり上げていくほかありません。
 
鶴を折ったり、徒党を組んで
デモをすれば天から降ってくるものではないのです。
 
しかし、1流の国立大学の大学院生ですら、
「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」
と平気で言います。
 
ならば自分で学べと私は言いたい。
 
自分で学び、考えることなしに、
自分の生きる意味が分かるはずがないのです。
 
……………………………………………………………………………
 
人として生きたなら、
その証を残さなければなりません。
 
大きくなくてもいいのです。
 
小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
 
戦友たちは若くして
戦艦大和と運命をともにしましたが、
 
いまなお未来へ生きる我々に
大きな示唆を与え続けています。
 
復員後、長く私の中に渦巻いていた
「生き残ってしまった」という罪悪感。
 
それはいま使命感へと変わりました。
 
私の一生は私だけの人生ではなく、
生きたくても生きられなかった
 
戦友たちの人生でもあるのです。
 
うかうかと老年を過ごし、
死んでいくわけにはいきません。
 
未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
真の日本人になってくれるよう
 
私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、
「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」
と胸を張りたいと思います。
 
……………………………………………………………………………
 
若者よ、
 
君たちが生きるきょうという日は
 
死んだ戦友たちが生きたかった未来だ
 
 
 
 
八杉康夫(やすぎ・やすお)
戦艦大和語り部 
 
『致知』2006年7月号
特集「人学ばざれば道を知らず」より
 
 
引用終わり
 
 
 
 
 
 
実は小渕総理の頃から
 
日本は水面下で中国に押し潰されてきました
 
 
 
だけど、
元中韓人だらけの民主党政権で
支離滅裂な政治をされた国民が怒り始め
 
マスコミが報じない
危機的な状況に気付いた人々が
 
奇跡的に安倍政権を蘇らせて
劇的に経済力、防衛力を強化し
 
今こうして中国と北朝鮮の脅威に
日米が連携して立ち向かう体制を
作る事が出来ました
 
自衛隊だけで、今の憲法で
日本を守る事は不可能です
 
 
日本人が
元中韓人だらけの民主党に一度負けたからこそ
 
間違いに気付き
目が覚めた人々が増えているものだと思います
 
----------------------
 
敗れて目覚める。
 
それ以外に、どうして日本は救われるか。
 
今、目覚めずしていつ救われるか。
 
俺たちは、その先導になるのだ。
 
日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか
 
 
 
この言葉は
 
今の日本人に向けて込められた
 
遺言でもあると思います
 
 
 
自分の興味のある事以外は目を背け
 
この世の中に不平不満がある人達は
 
その元凶である敵は何なのか
 
なぜ「日本を取り戻す」のか
 
その裏に隠された意味を考えるべきです
 
 
 
今こそ
自分の近い将来に繋がる政治に
関心を持ってほしい
 
 
 

以下転載


昭和20年8月18日から行われた
千島列島最北端の島、占守島の戦い




株式会社ニチロの従業員2,500人が
昭和20年8月の終戦のとき
カムチャッカ半島のすぐ手前にある
占守島にいました。

ニチロの缶詰工場があったからです。


その工場には
約400人の若い女子工員がいました。



8月18日の午前1時のことです。

突然ソ連軍がこの島に
対岸のカムチャッカ半島から猛烈な砲撃をしかけ
奇襲部隊を上陸させてきました。

宣戦布告もなしに攻め込んできました。

この島を守るのは
日本軍の第91師団です。

師団では、終戦を受け
その数時間前にはみんなで別れの盃を交し
武装解除の準備をすすめていました。

すでに戦車からは
車載銃砲や無線機が取り外され
様々な機材も爆砕し

もう使わなくなった車両などは
海に没げ捨てる準備まで進めていたのです。

そして17日の夜、
つまり戦いがはじまる数時間前まで
みんなで酒を酌み交わして、別れの挨拶をし
ようやく解散して各自布団にはいって
就寝についたところでした。

寝床にはいって
そろそろ眠りについたかな、という午前1時

突然対岸のロパトカ岬から
ソ連軍が猛烈な長射程重砲砲撃をしかけてきたのです。

さらに追い打ちをかけるように
占守島国端崎の監視所から
「海上にエンジン音聞ゆ」と急電がはいました。

降伏に関する軍使なら
夜中に来ることはありえません。

「これは危ない」と判断した日本軍は
島一面が濃霧に包まれた中で
急いで戦闘配備につきました。

その間にも、
「敵輸送船団らしきもの発見!」
「敵上陸用舟艇発見!」
「敵上陸、兵力数千人!」
等と、相次いで急報が入ります。

戦争は終わったはずなのです。

当初、応戦を逡巡していた日本側も
ここまでくれば、放置したら皆殺しとなってしまう。

とりわけ占守島には
2500人の民間人のニチロの社員たちがいるのです。

しかもそのうち400人は、女子工員たちです。


午前2時10分、第91師団長は決断します。
「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」


やむなく第91師団では
国端崎の砲兵、竹田岬と
小泊崎の速射砲・大隊砲が
協力して反撃を開始しました。

さらに陸海軍航空機による決死の反撃を行い
重砲によって敵部隊への砲撃も行いました。

激戦の中、第91師団の参謀長と世話役の大尉は、ニチロの女子工員のことを気遣います。

「このままでは、女子行員たちは必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。」

二人はそう申し合わせると
すぐに部隊に命じ、体制をとりました。


ソ連航空機による爆撃が続く中
第91師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして
爆撃機を追い払いました。

敵上陸部隊にも集中砲撃を行いました。

海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けにしたのです。

そしてこの隙に、島にあった20数隻の漁船に
ニチロの女子工員たち約400名を分乗させ、
霧に覆われた港から北海道に向けて出港させたのです。


一方

戦車連隊は、武装を分解中で
すぐには出撃できない状態にあったのです。

それでも総員必死で武装を取り付け
直ちに出撃しました。

濃霧の中、途中の位置で部隊は集結します。


そこで精鋭な「士魂戦車隊」の池田隊長は
全戦車部隊隊員に訓示しました。


諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、
後日に再起を期するか。

白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。

このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れたのです。
そして、その場にいた全員が見たのです。

それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たちが
全員が挙手している姿でした。

士魂部隊は、全員
白虎隊となることを選択したのです。



池田連隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。

そして
「上陸軍を一人残さず、海に叩き落とすまで奮闘せよ!」
と大声で訓示しました。

士魂戦車隊は、速射砲で敵を撃破しつつ
山の南斜面を駆け上がりました。

7時30分、山頂に到達。

山頂から見下ろすと
敵歩兵の大軍がそこにいました。


池田連隊長は、師団、旅団の両司令部に打電します。

「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。
 祖国の弥栄と平和を祈る」

7時50分、池田連隊長は
戦車から裸の上体を晒したまま、
身を乗り出して日章旗を打ち振り
攻撃前進を命じました。

約40両の戦車隊が、池田隊長の指揮のもと
一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。

その姿は、さながら運用教範の実演の如く
見事な隊形だったそうです。

さすがは戦車隊の神様。
さすがは士魂部隊。

士魂部隊は、南斜面より上ってくる
ソ連兵の群れにと接触します。

視界約20mの濃霧です。

戦車は、死角が多いのです。
ですから濃霧は戦車にとって不利です。

本来なら、戦車は歩兵と協力して
初めて実力を発揮できるのです。

しかし急な出動です。
協力できる歩兵はいません。

戦車隊と、ソ連歩兵の肉弾戦は
およそ40分にわたり繰り広げられました。

これは、その戦いが
実にすさまじい戦いであったことを示しています。

なぜなら、近代戦においては、
銃撃戦というのは、普通1〜2分のものだからです。

5分も続けば「今日の戦いは長かったな」となる。


いったんは混乱し、潰走しかけたソ連兵は、
前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、
約100挺の13㎜対戦車ライフルと、
4門の45㎜対戦車砲を士魂部隊正面に結集させ
激しい反撃をはじめました。


装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、次々沈黙していきます。

濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け
友軍の戦車が炎上する。

それでも士魂部隊は前進します。

キャタピラで、備砲で、敵兵を叩き続けました。

やがて日本軍の四嶺山南東の高射砲が
応撃を開始しました。

さらに南麓から駆け付けてきた
日本の歩兵大隊も参戦してくれました。

士魂部隊の獅子奮迅の戦いで
ソ連軍は遺棄死体を残して
ついに撤退したのです。

この戦いで、士魂部隊の損傷は
戦車27両が大破。

そして池田隊長以下、96名が戦死されました。

士魂部隊の突撃のとき
敵は稜線いっぱい展開していたそうです。

隊長の指揮する戦車隊を見て
彼らは自動小銃をめちゃくちゃに撃ってきました。

砲塔に雨あられと弾がはねて
顔を出していれないくらいだったといいます。

そんな中を池田隊長は突撃されました。

戦車から裸の上半身を露出し
鉄カブトもかぶらず
日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で
1m80cmぐらいの大きな日章旗を振って
戦車の上から「前進!前進!」と
突撃の合図をしながら戦い続けたのです。

そんな隊長の姿は、いやでも敵の目につきます。

やがて銃弾が、隊長車に集中する。

搭乗していた指揮班長の丹生少佐が
まず先に撃たれたそうです。

そのとき、池田隊長は
丹生少佐の遺体を落としてはならぬと
にわかに縄を出して丹生少佐の死体を
自分の戦車の砲塔に自分で縛りつけたそうです。

そして今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり
例の日章旗を振り振り
なおも全軍に前進を命じられていました。

戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ
だいぶやられたました。

池田隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、
敵をさんざん踏みにじったあと
対戦車銃を横腹に受け
それで中に積んであった弾薬が誘爆し
擱坐炎上しました。

池田隊長の乗車した戦車は
炎上したのちも、しばらく前進したそうです。

その姿は、まるで
死しても前進を止めない隊長の魂が
戦車に乗り移ったかのようだったそうです。


当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は
占守島の戦いについて、次のように書いています。


占守島の戦いは
大陸におけるどの戦闘より
はるかに損害が甚大であった。

8月19日はソ連人民の悲しみの日であり
喪の日である。


ソ連側司令官は後に
「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」
回顧録を残しました。


戦闘の結果

日本軍の死傷者約600名
ソ連軍の死傷者約3,000名

第91師団は、敵ソ連軍を圧迫し
海岸付近に釘付けしました。

ソ連兵を一歩も内陸に前進させなかったのです。

それどころか、あと一歩で
ソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めました。

ところが、8月21日
島に第五方面軍司令部から
停戦命令が届きました。

第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いている中で軍使を派遣しました。

そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させたのです。

第91師団のもとに、女子工員たちが
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が
島に届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。

第91師団のみなさんの
この報を受けたときの喜びは
いかばかりだったでしょう。

しかし、占守島にいた日本人約25,000人は
武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって
民間人を含めて全員逮捕されました。

その25000人は
シベリアに到着した時点で
人数が5000人に減っていました。

途中で、理由なく殺されたのです。

生き残り、シベリアに抑留された人々も
寒さと飢えと栄養失調のために
約1割がお亡くなりになっています。


ソ連は、占守島の占領を1日と計画していました。

ところが占守島の第91師団は
そうした彼らの目論見を
見事に粉砕しました。

敵を殲滅しかけただけでなく
彼らを「一週間にわたり」
島に釘づけにしたのです。

実は、この「一週間」が
北海道の命運を決定付けました。

ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に
米軍が、北海道進駐を完了させたのです。

米軍の北海道進駐によって北海道は
ソ連軍の侵攻を免れました。

そのために、ドイツや朝鮮半島のように
北海道が米ソによる分割統治になるという
事態が避けられたのです。

逆にいえば
占守島第91師団の勇敢な戦いがなかったら
北海道は千島や樺太の南半分と同様
日本国は「帳面上」の領有権を持つだけで
いまごろはまだロシアによって
実効支配されていたかもしれません。


占守島に上陸してきたソ連兵は日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。

が、あとの祭りでした。

もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったら・・・


占守島の第91師団

彼らは、終戦を迎えた後にも
身を持って卑劣なソ連の進行を妨げてくれました。

彼らは、ソ連軍占領予定地点の
北海道中部まで本土上陸を阻止ししてくれました。

彼らは、多くの婦女子を占守島より脱出させて
ソ連兵による陵辱から守り通してくれました。

彼らは、上陸しようとするソ連軍を
水際から一歩も踏み入れさせず
勇敢に戦ってくれました。

彼らは、占守島の第91師団は
私たちに北海道を残してくれました。

彼らのおかげで、北海道は
いまも日本の北海道です。

私達は、北海道産のおいしい食品を
食べることができます。

私達は、占守島の第91師団の戦いを
勇気を、恩を
決して忘れてはならないと思います。

転載終わり



戦後、

🌑神風特攻隊が米海軍に与えた甚大な被害

🌑硫黄島の戦いでの米軍との死闘

🌑終戦後の占守島での日本軍の戦い

まだまだあります

これらの話は「無かった事」にされました

それは相手が本当に苦しめられ
もう2度と思い出したくない
屈辱の歴史だという事でもあります


逆に

南京虐殺、従軍慰安婦などの嘘の歴史を
繰り返しすりこまれてきました


それは日本人があの戦争を
もう2度と繰り返したくない
非道な日本軍の歴史とさせたい為です


ですが、日本の救世主が現れました

インターネットです

ネットによって
隠されてきた真の歴史が明るみになってきました。

真実の情報を拡散し続ければ
今では反日左翼的な考えの人々も

いつの日か目を覚まし
心強い仲間となるはずです










あの時
まだ見ぬ私達の為に
戦ってくれた多くの日本人がいました


彼らは今、靖国神社にいて
私達を見守ってくれています








元北千島海軍部隊の方の話


こうした声をあげてきた方々は
既に多くの方々がお亡くなりになりました

あとは私達が引き継ぎましょう





以下のサイトの内容を
一部省略し転載させて頂きました
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1986.html

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1987.html?sp
 

以下転載


長崎に原爆が投下されたのは
1945年8月9日、午前11時2分です



この原爆投下時

「空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」とか

「大本営はB29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置した」とかいう妄言があります。

これは戦後流布された大嘘です。

当時の長崎市の人口は24万人でした。

原爆は、このうちの14万9千人の命を奪いました。

実は被害はもっと大きくなった可能性があったことは、あまり知られていません。

どういうことかというと
長崎への原爆投下の、当初目標地点は福岡県小倉市(現:北九州市)だったのです。

この日、原爆投下のために米軍が飛ばせた飛行機(B29)は6機です。

6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。

ところが4機にエンジントラブルが発生し、2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達したのです。

ところがその2機は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を、第二目標の長崎市に切り替えました。

これによって、長崎が被災地となったのです。

なぜ、突然、投下目標地点が変わったのでしょうか。

理由は簡単です。

飛来したB29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊が、果敢に高射砲で応戦したのです。


そのあまりに激しい応射によって空中には煙幕ができ、B29は原爆投下目標地点の目視ができなくなってしまったのです。

それでもB29は、45分かけて目標地点補足を3度やり直しました。

その3度目が失敗したとき、陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、

同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進やってきたのです。


このためB29は、小倉への原爆投下を断念し、

目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて小倉の空から去り、

結果として長崎に原爆が投下されたのです。

このことは、三つの点で、たいへん重要な意味を持ちます。

1 当初の目標地点が小倉市
2 抵抗の重要性
3 情報の重要性

です。

1つ目の「当初の目標地点が小倉市」であったということは、重要な事実です。

当時の小倉市の人口は30万人です。

そして小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。

つまり遮蔽物となる山がないのです。

そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域、

および関門海峡を越えて対岸にある下関市までに及びます。

ということは、被害規模は推定で瞬間の死者だけで30万人以上、

その後の被爆による死者が10万人以上、

合わせて40万人という途方もない被害者が発生した可能性があったのです。

2つめは、日本側の「抵抗の重要性」です。

先日、広島の原爆についての記事の中で、

日本に何故原爆が投下されたのかという設問に対して、

当時の日本側に米国への反撃能力がなかったことを挙げさせていただきました。

それでも、実際に原爆を投下しようとするB29に対し、

陸軍小倉守備隊が、猛然と必死の高射砲での応戦をしたために、

B29は原爆投下のために必要な高さに高度を下げられなくなり、

また猛烈な弾幕とそれによる煙幕で目標地点を目視しようにもできなくなりました。

日本の軍隊は、戦時中であっても、物資が不足する中で、

めくら撃ちのような速射はほとんどの場合しません。

それが弾幕と煙幕で、上空からの目標地点捕捉ができなくなったほどの応射をしたというのは、

当時の陸軍が、どれだけ広島への原爆投下から、強い危機感を持っていたのかということです。

さらにそこに陸海軍の戦闘機が飛来しました。

おかげでB29は、小倉を去り、小倉から下関一帯は被爆被害に遭わずに済んでいます。

軍事的脅威に対して「抵抗力を持つ」ということが、いかに国を護り国民の命を守ることになるのか。

このことは私たちは、原爆による実際の被害を受けた経験を持つ国民として、

しっかりと認識すべきことですし、学校でもしっかりと子供たちに教育すべきことです。

3つめは、情報の重要さです。

長崎ではたいへん不幸な事態が重なり、結果として十分な抵抗ができないまま原爆被害を受けています。

長崎への原爆投下について、戦後宣伝されたデタラメの中に、

「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」というものや、

「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものがあります。

まったくの妄言です。

どちらも、日本の無能、もしくは大本営の無能として形容され宣伝されたものですが、

残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多いです。

けれど、それが妄言であり嘘であることは、ちょっと調べたらすぐにわかることです。

小倉上空を離脱したB29が長崎上空に達したのは、

小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後、午前10時50分のことです。

 

この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。

積雲は分厚い「夏の雲」です。

これがあると上空を飛ぶ飛行機の姿を地上から見ることができません。

つまりB29は地上からは発見されないまま、長崎上空に達しています。

発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。

ところがB29の側も困っていたのです。

B29は、第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、

積雲のため原爆投下の目標地点の目視ができません。

つまり、そのままでは、原爆の投下ができない状況にありました。

ところが空を分厚く覆っていた積雲に、突然切れ目が生じ、そこから地上の様子が見えたのです。

眼下に長崎の街並が見えました。

そこでB29は「手動操作で」原爆を投下しました。

それが午前11時1分のことで、
放物線を描いて落下した原爆は、約1分後の午前11時2分に炸裂しています。

炸裂した場所は、長崎市街中心部から3kmそれていました。

雲の切れ間からの手動操作による投下であったためです。

原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました


この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、

一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。

広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、

爆心地が市街中心部から多少それたことと、長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。

それでも約15万にものぼる死者が出ました。

では、長崎では、なぜ空襲警報や応射が間に合わなかったのでしょうか。

硫黄島を出たB29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来しました。

わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりでしたから、長崎でも危機感を持っていて、

B29の飛来に午前9時には警戒警報を鳴らして市民への警戒を呼びかけていたのです。

ところがそのB29は、9時44分に小倉に現れました。

そのため長崎では午前10時過ぎには、警戒警報の解除を行っていたのです。

そのためいったんは防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻っていました。

ところが小倉での爆弾投下に失敗したB29は、次の目標地点である長崎に進路を変えています。

この日、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っていました。

ご存知の通り、積雲は真夏の雲です。たいへん厚みがあります。

高高度を飛行するB29は積雲の上を飛んでいるので地上からその姿は見えません。

B29の側も、ぶ厚い雲で地上の目視ができません。



そこで乗員のひとりが航法士に「現在地はどの辺りか」と尋ねました。

このとき、答えようとした航法士が、

誤って内線用のインタホンのスイッチと無線スイッチを取り違えて返事をしてしまったのです。

このため、無線通信が外に洩れました。

よほど慌てたのでしょう。

これに慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB29と空中で衝突しそうになっています。

その無線を、鹿児島沖で、作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB29がキャッチしました。

そのB29は、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に

「チャック、いまどこにいる?」と音声無線を返しました。

 

これが午前10時50分頃の出来事です。

この無線通信を、日本側も傍受しました。


ほんの一瞬の無線漏洩ですが、その一瞬のやり取りで、日本側通信傍受隊は、

ひとつが鹿児島沖からのもの、もうひとつが長崎方面と場所を特定しました。

そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけたのです。

知らせを受けた長崎市は、すぐに空襲警報を鳴り響かせました。

これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。

いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。

軍と市は一緒になって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも長崎市民への緊急避難を呼びかけました。

ラジオからは
「長崎市民は全員退避せよ。繰り返す。長崎市民は全員退避せよ」という声が繰り返し流されました。

そしてその臨時ニュースの声が「総退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂し、ラジオの音声は無変調になりました。

午前11時2分の出来事です。

アナウンサーの声は、原爆が光ったその瞬間で途切れています。

すくなくとも、長崎の放送局では総退避をよびかけたアナウンサーがいたのです。

「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」

というのは、大事な点を抜いた妄言であることがおわかりいただけたと思います。

無責任な「なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」という言葉が、

どれだけ御霊を傷つけているのか。

また「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものも、大嘘です。

ほんの一瞬の無線を傍受したからこそ、緊急で空襲警報を鳴らし、市民に避難を求めたのです。


転載終わり



なぜ、このような話が消え去り
「日本軍は国民を助けなかった」という嘘が広まったのか

それは
「日本軍は残酷で無能だった」という印象を後世の日本人に広め

「だから原爆によって戦争を終わらせたのだ」という

戦勝国による考えを正当化させる為です。

そんな嘘が日本には多く残ります。

そんな嘘に惑わされないで、真実を信じて欲しいと思います。

 

 

 

 

「あの日、必死に国民を守ろうとした日本軍の人々がいたんです」 と

 

 



以下のブログ内容を転載、省略させて頂きました

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2727.html