終戦後に始まった「占守島の戦い」 | To spread the pride of Japan

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以下転載


昭和20年8月18日から行われた
千島列島最北端の島、占守島の戦い




株式会社ニチロの従業員2,500人が
昭和20年8月の終戦のとき
カムチャッカ半島のすぐ手前にある
占守島にいました。

ニチロの缶詰工場があったからです。


その工場には
約400人の若い女子工員がいました。



8月18日の午前1時のことです。

突然ソ連軍がこの島に
対岸のカムチャッカ半島から猛烈な砲撃をしかけ
奇襲部隊を上陸させてきました。

宣戦布告もなしに攻め込んできました。

この島を守るのは
日本軍の第91師団です。

師団では、終戦を受け
その数時間前にはみんなで別れの盃を交し
武装解除の準備をすすめていました。

すでに戦車からは
車載銃砲や無線機が取り外され
様々な機材も爆砕し

もう使わなくなった車両などは
海に没げ捨てる準備まで進めていたのです。

そして17日の夜、
つまり戦いがはじまる数時間前まで
みんなで酒を酌み交わして、別れの挨拶をし
ようやく解散して各自布団にはいって
就寝についたところでした。

寝床にはいって
そろそろ眠りについたかな、という午前1時

突然対岸のロパトカ岬から
ソ連軍が猛烈な長射程重砲砲撃をしかけてきたのです。

さらに追い打ちをかけるように
占守島国端崎の監視所から
「海上にエンジン音聞ゆ」と急電がはいました。

降伏に関する軍使なら
夜中に来ることはありえません。

「これは危ない」と判断した日本軍は
島一面が濃霧に包まれた中で
急いで戦闘配備につきました。

その間にも、
「敵輸送船団らしきもの発見!」
「敵上陸用舟艇発見!」
「敵上陸、兵力数千人!」
等と、相次いで急報が入ります。

戦争は終わったはずなのです。

当初、応戦を逡巡していた日本側も
ここまでくれば、放置したら皆殺しとなってしまう。

とりわけ占守島には
2500人の民間人のニチロの社員たちがいるのです。

しかもそのうち400人は、女子工員たちです。


午前2時10分、第91師団長は決断します。
「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」


やむなく第91師団では
国端崎の砲兵、竹田岬と
小泊崎の速射砲・大隊砲が
協力して反撃を開始しました。

さらに陸海軍航空機による決死の反撃を行い
重砲によって敵部隊への砲撃も行いました。

激戦の中、第91師団の参謀長と世話役の大尉は、ニチロの女子工員のことを気遣います。

「このままでは、女子行員たちは必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。」

二人はそう申し合わせると
すぐに部隊に命じ、体制をとりました。


ソ連航空機による爆撃が続く中
第91師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして
爆撃機を追い払いました。

敵上陸部隊にも集中砲撃を行いました。

海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けにしたのです。

そしてこの隙に、島にあった20数隻の漁船に
ニチロの女子工員たち約400名を分乗させ、
霧に覆われた港から北海道に向けて出港させたのです。


一方

戦車連隊は、武装を分解中で
すぐには出撃できない状態にあったのです。

それでも総員必死で武装を取り付け
直ちに出撃しました。

濃霧の中、途中の位置で部隊は集結します。


そこで精鋭な「士魂戦車隊」の池田隊長は
全戦車部隊隊員に訓示しました。


諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、
後日に再起を期するか。

白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。

このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れたのです。
そして、その場にいた全員が見たのです。

それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たちが
全員が挙手している姿でした。

士魂部隊は、全員
白虎隊となることを選択したのです。



池田連隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。

そして
「上陸軍を一人残さず、海に叩き落とすまで奮闘せよ!」
と大声で訓示しました。

士魂戦車隊は、速射砲で敵を撃破しつつ
山の南斜面を駆け上がりました。

7時30分、山頂に到達。

山頂から見下ろすと
敵歩兵の大軍がそこにいました。


池田連隊長は、師団、旅団の両司令部に打電します。

「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。
 祖国の弥栄と平和を祈る」

7時50分、池田連隊長は
戦車から裸の上体を晒したまま、
身を乗り出して日章旗を打ち振り
攻撃前進を命じました。

約40両の戦車隊が、池田隊長の指揮のもと
一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。

その姿は、さながら運用教範の実演の如く
見事な隊形だったそうです。

さすがは戦車隊の神様。
さすがは士魂部隊。

士魂部隊は、南斜面より上ってくる
ソ連兵の群れにと接触します。

視界約20mの濃霧です。

戦車は、死角が多いのです。
ですから濃霧は戦車にとって不利です。

本来なら、戦車は歩兵と協力して
初めて実力を発揮できるのです。

しかし急な出動です。
協力できる歩兵はいません。

戦車隊と、ソ連歩兵の肉弾戦は
およそ40分にわたり繰り広げられました。

これは、その戦いが
実にすさまじい戦いであったことを示しています。

なぜなら、近代戦においては、
銃撃戦というのは、普通1〜2分のものだからです。

5分も続けば「今日の戦いは長かったな」となる。


いったんは混乱し、潰走しかけたソ連兵は、
前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、
約100挺の13㎜対戦車ライフルと、
4門の45㎜対戦車砲を士魂部隊正面に結集させ
激しい反撃をはじめました。


装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、次々沈黙していきます。

濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け
友軍の戦車が炎上する。

それでも士魂部隊は前進します。

キャタピラで、備砲で、敵兵を叩き続けました。

やがて日本軍の四嶺山南東の高射砲が
応撃を開始しました。

さらに南麓から駆け付けてきた
日本の歩兵大隊も参戦してくれました。

士魂部隊の獅子奮迅の戦いで
ソ連軍は遺棄死体を残して
ついに撤退したのです。

この戦いで、士魂部隊の損傷は
戦車27両が大破。

そして池田隊長以下、96名が戦死されました。

士魂部隊の突撃のとき
敵は稜線いっぱい展開していたそうです。

隊長の指揮する戦車隊を見て
彼らは自動小銃をめちゃくちゃに撃ってきました。

砲塔に雨あられと弾がはねて
顔を出していれないくらいだったといいます。

そんな中を池田隊長は突撃されました。

戦車から裸の上半身を露出し
鉄カブトもかぶらず
日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で
1m80cmぐらいの大きな日章旗を振って
戦車の上から「前進!前進!」と
突撃の合図をしながら戦い続けたのです。

そんな隊長の姿は、いやでも敵の目につきます。

やがて銃弾が、隊長車に集中する。

搭乗していた指揮班長の丹生少佐が
まず先に撃たれたそうです。

そのとき、池田隊長は
丹生少佐の遺体を落としてはならぬと
にわかに縄を出して丹生少佐の死体を
自分の戦車の砲塔に自分で縛りつけたそうです。

そして今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり
例の日章旗を振り振り
なおも全軍に前進を命じられていました。

戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ
だいぶやられたました。

池田隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、
敵をさんざん踏みにじったあと
対戦車銃を横腹に受け
それで中に積んであった弾薬が誘爆し
擱坐炎上しました。

池田隊長の乗車した戦車は
炎上したのちも、しばらく前進したそうです。

その姿は、まるで
死しても前進を止めない隊長の魂が
戦車に乗り移ったかのようだったそうです。


当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は
占守島の戦いについて、次のように書いています。


占守島の戦いは
大陸におけるどの戦闘より
はるかに損害が甚大であった。

8月19日はソ連人民の悲しみの日であり
喪の日である。


ソ連側司令官は後に
「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」
回顧録を残しました。


戦闘の結果

日本軍の死傷者約600名
ソ連軍の死傷者約3,000名

第91師団は、敵ソ連軍を圧迫し
海岸付近に釘付けしました。

ソ連兵を一歩も内陸に前進させなかったのです。

それどころか、あと一歩で
ソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めました。

ところが、8月21日
島に第五方面軍司令部から
停戦命令が届きました。

第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いている中で軍使を派遣しました。

そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させたのです。

第91師団のもとに、女子工員たちが
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が
島に届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。

第91師団のみなさんの
この報を受けたときの喜びは
いかばかりだったでしょう。

しかし、占守島にいた日本人約25,000人は
武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって
民間人を含めて全員逮捕されました。

その25000人は
シベリアに到着した時点で
人数が5000人に減っていました。

途中で、理由なく殺されたのです。

生き残り、シベリアに抑留された人々も
寒さと飢えと栄養失調のために
約1割がお亡くなりになっています。


ソ連は、占守島の占領を1日と計画していました。

ところが占守島の第91師団は
そうした彼らの目論見を
見事に粉砕しました。

敵を殲滅しかけただけでなく
彼らを「一週間にわたり」
島に釘づけにしたのです。

実は、この「一週間」が
北海道の命運を決定付けました。

ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に
米軍が、北海道進駐を完了させたのです。

米軍の北海道進駐によって北海道は
ソ連軍の侵攻を免れました。

そのために、ドイツや朝鮮半島のように
北海道が米ソによる分割統治になるという
事態が避けられたのです。

逆にいえば
占守島第91師団の勇敢な戦いがなかったら
北海道は千島や樺太の南半分と同様
日本国は「帳面上」の領有権を持つだけで
いまごろはまだロシアによって
実効支配されていたかもしれません。


占守島に上陸してきたソ連兵は日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。

が、あとの祭りでした。

もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったら・・・


占守島の第91師団

彼らは、終戦を迎えた後にも
身を持って卑劣なソ連の進行を妨げてくれました。

彼らは、ソ連軍占領予定地点の
北海道中部まで本土上陸を阻止ししてくれました。

彼らは、多くの婦女子を占守島より脱出させて
ソ連兵による陵辱から守り通してくれました。

彼らは、上陸しようとするソ連軍を
水際から一歩も踏み入れさせず
勇敢に戦ってくれました。

彼らは、占守島の第91師団は
私たちに北海道を残してくれました。

彼らのおかげで、北海道は
いまも日本の北海道です。

私達は、北海道産のおいしい食品を
食べることができます。

私達は、占守島の第91師団の戦いを
勇気を、恩を
決して忘れてはならないと思います。

転載終わり



戦後、

🌑神風特攻隊が米海軍に与えた甚大な被害

🌑硫黄島の戦いでの米軍との死闘

🌑終戦後の占守島での日本軍の戦い

まだまだあります

これらの話は「無かった事」にされました

それは相手が本当に苦しめられ
もう2度と思い出したくない
屈辱の歴史だという事でもあります


逆に

南京虐殺、従軍慰安婦などの嘘の歴史を
繰り返しすりこまれてきました


それは日本人があの戦争を
もう2度と繰り返したくない
非道な日本軍の歴史とさせたい為です


ですが、日本の救世主が現れました

インターネットです

ネットによって
隠されてきた真の歴史が明るみになってきました。

真実の情報を拡散し続ければ
今では反日左翼的な考えの人々も

いつの日か目を覚まし
心強い仲間となるはずです










あの時
まだ見ぬ私達の為に
戦ってくれた多くの日本人がいました


彼らは今、靖国神社にいて
私達を見守ってくれています








元北千島海軍部隊の方の話


こうした声をあげてきた方々は
既に多くの方々がお亡くなりになりました

あとは私達が引き継ぎましょう





以下のサイトの内容を
一部省略し転載させて頂きました
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1986.html

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1987.html?sp