親日国ポーランドと日本の絆 | To spread the pride of Japan

To spread the pride of Japan

日本の陰ばかりではなく
光輝く本当の姿を多くの人々に広めていきたい

今から100年ほど前


シベリアで死にかけていた

ポーランドの孤児達を救おうと

多くの日本人が動いた事があります。



以下転載、一部省略


今から100年前
ポーランドは、ロシアの支配下におかれ、祖国ポーランドの独立を図ろうとするポーランドの愛国者たちは、シベリアに強制的に流刑となりました。




極寒の凍土と食料配給が来ない事で、多くの愛国者たちが、病や飢えに倒れていきました。

生き残った愛国者たちの子供達は、さらに悲惨な状態に置かれました。

「せめて、せめてこの子供達だけでも生きて祖国に送り届けたい」

1919年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは「ポーランド救済委員会」を組織し、子供達をなんとかして祖国に送り返そうとします。

けれど、全員が流刑者でお金がない。

会員を募り、資金をカンパするけれど、子供達を飢えから救い、祖国に送り返すだけの資金が足りませんでした。

1920年の春になると、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まります。

孤児たちをロシアのシベリア鉄道でポーランドに送り返すことは、完全に不可能になりました。

そこでポーランド救済委員会のメンバーは、欧米諸国に、子供達を救いたいと援助を求めます。

けれど、ポーランドの孤児たちを支援することは、ロシアを敵に回すことになる。

ロシアとの紛争を避けたい欧州の諸国は、ことごとく救済委員会の申し出を拒否。

シベリアにいるポーランドの孤児たちは、ヨーロッパ中の国々から、見捨てられてしまったのです。



最後に救済委員会のメンバーは、まだ国交が無かった日本に援助を要請しました。

救済委員会の会長は、満州にいた日本軍の協力を得て、1920年6月に来日します。

そして外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴えました。

外務省は即座に日本赤十字に連絡。

そして日赤はシベリア孤児の救済事業を行なうことを決定。

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て、決定からわずか2週間後には動き出しました。

シベリアから船で合計765名のポーランド孤児達が日本に到着。






日本に到着したポーランド孤児たちの話

「ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されました。そのあと、支給された浴衣の袖に、飴や菓子類をたっぷ入れてもらいました。とっても感激しました」

「特別に痩せていた女の子は、日本人のお医者さんが心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれました」

到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。

この孤児達の為にと、無料で歯科治療や散髪を申し出る人達もいました。

学生の音楽隊も、演奏に来てくれました。

他にも個人で慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々が後を絶ちせんでした。


腸チフスにかかっていた子供を、ある日本人の若い看護婦さんが、必死に看病してくれましたが、その看護婦さんは、チフスが伝染して亡くなりました。


その亡くなった看護婦、松澤フミさんはその後ポーランドから栄誉賞を贈られています。


そのような悲劇もありましたが、人々の好意は、変わらずに続きました。


1921年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた大正天皇の皇后陛下も、日赤本社病院で孤児たちを親しく接見されました。

皇后陛下は、可憐な女の子を抱いて、その頭を幾度も撫でながら「健やかに育ってね」とおっしゃられました。

こうして、日本の手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で痩せこけていた孤児達は、急速に元気を取り戻しました。


約2年が経ち、帰国の時

日本出発前には各自に洋服が新調されました。

さらに航海中の寒さも考慮されて、全員に毛糸のチョッキが支給されました。

さらに多くの人々が、子供達に衣類やおもちゃの贈り物をしてくれました。

横浜港から祖国へ向けて出発する際、幼い孤児達は、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がったといいます。

孤児達は「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表しました。

神戸港からの出発では、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送人たちは、子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振りました。


ポーランド孤児の話

「子供達をポーランドに送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめていた。その手の温かさが忘れられない」

こうして祖国に戻った孤児の中に「イエジ・ストシャウコフスキ」という少年がいました。

彼は、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長に就任します。


1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定。

彼の組織には、シベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児達、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちが参加し、やがて1万数千名を数える巨大レジスタンス組織になります。

彼は、ワルシャワを拠点として地下活動を展開したのですが、当然、これにナチスドイツが目をつけます。

ある日、イエジが隠れ家として使っていた孤児院に、多数のドイツ兵が押し入ってきて強制捜査を始めたのです。

この時、駆けつけたのが日本大使館の書記官でした。

日本人書記官は、武装したナチスの兵士達を前に「この孤児院は日本帝国大使館が保護している」と強調。

そして、孤児院院長を兼ねていたイエジ青年に向かって、「君達、このドイツ人達に日本の歌を聞かせてやってくれ」と言います。

イエジ達は日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱した。

ドイツ兵たちは「大変失礼しました」といって引き上げ、イエジ青年たちは一命をとりとめています。

日本大使館は、このドイツとの三国同盟を最大限に活用して、イエジ青年たちを幾度となく庇護したのです。





月日は流れ…………



1983年


第2次大戦で祖国の為に戦ったイエジ・ストシャスコフスキ氏は、再度シベリアに送られましたが、76歳の時に念願の日本訪問を果たしました。

そして日本赤十字社を訪れ

「64年前、私達孤児が日本の皆様や日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたく訪れました。ありがとうございます」 

と、大粒の涙を払おうともせずに、感謝の気持ちを伝えました。









1995年、ポーランドにて

ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、8名の元ポーランド孤児を招待しました。

全員が80歳以上のご高齢です。

一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつきました。

そのご婦人のお話

「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。

だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、這ってでも伺いたいと思いました。

なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞いたからです。

今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません」

老婆達は70年以上昔の日本での出来事を、細かなところまでよく覚えておいででした。

別の一人の老婆は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、いまでも肌身離さずに持っていると、みんなに見せてくれました。

同様に日本を離れる際に送られた布でできた帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物として、いまも大切にたいせつに持っているものを、互いに見せあいました。





同じ頃、阪神淡路大震災で被災して心に傷を負った子供達50人が、ポーランド駐日大使館の厚意によってポーランドに招待されました。ポーランドでの反響は大きく、多くの企業や人々から支援の申し出がありました。

その時にもかつての孤児が集まり、子供達を励ましたそうです。


震災で被災した子供達に囲まれる

アントニナ・リロさん(右から4番目)


彼女は日本からポーランドに帰国後、戦時下でも自身の命を顧みず、ユダヤ人の子供をナチス・ドイツからの迫害から守った事で、イスラエル政府から杉原千畝氏と同様の「諸国民の中の正義の人賞」を授与された人です。








2002年7月

天皇皇后両陛下がポーランドを訪問した際、高齢となった3人の元孤児達が「是非ともお礼を伝えたい」と駆けつけた。






「私は大阪におりました。人生最大の感謝を抱いております。日本での生活は人生で一番の良い時間でした」



その3人の中には

大正天皇の皇后陛下にお会い出来た

ハリーナ・ノヴェツカさんもいました





元孤児として最後の一人となった

アントニナ・リロさんは


「日本はまるで天国のようなところでした」という言葉を遺し、2006年7月に90歳の生涯を閉じました。




生き証人は、もう誰もいなくなりましたが


今から約100年前の日本人が

異国の子供達を救おうとした想いが


今も、ポーランドと日本を、繋いでいます。










記事の記載には

国際派日本人養成講座「地球史探訪: 大和心とポーランド魂」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog142.html

 

ねずさんのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1525.html

 

ぼやきくっきり

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1546.html

 

以上を参照させて頂きました