日本男児伝 明石元二郎大将 | 中杉 弘の徒然日記

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日本史上最大の謀略戦を成功に導いた男 明石元二郎 なぜ昭和の日本は情報を軽視してしまったのか

 

 

日本男児伝 明石元二郎大将

 

 明石元二郎さんは、明治・大正の陸軍軍人です。天才であり、日本の英雄です。

明石元二郎さんは、福岡藩士の明石助九郎貞儀の次男として、1864年に福岡藩の福岡城下の大名町に生まれました。明石家の家格は「大組」(福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格)であり、1300石の大身であったのです。

 1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となり、1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられました。1899年(明治22年)には、陸軍大学校(5期)を卒業しています。

最終的な階級は、陸軍大将正三位勲一等功三級男爵であり、第7代台湾総督になった人です。ものすごく出世した人です。

 明石元二郎さんのお孫さんは、明石元紹さんです。この人は、学習院で上皇陛下とご学友だったのです。上皇陛下とご学友だったので、M子さんが婚約した時に注意をしたのです。「友達だからいうけれども、今の皇室の在り方はおかしい」と言ったのです。

 明石元紹さんの忠告を受けても、上皇陛下は返事もよこさなかったのです。「では、絶交だ」と言って、上皇陛下に絶交をつきつけた人です。明石元紹さんは、「皇室とは、どのようなものか」ということを理解していたのです。

 上皇后陛下は、キリスト教徒です。皇居の中で賛美歌を歌い、ミサなどやっていたのです。何をやっているのでしょうか? 天皇は神道の体現者です。キリスト教徒など受け入れてはいけない立場です。明石元紹さんは、ご学友だから上皇陛下に申し上げたのです。

 「明石元紹さんのお爺さんは、どのような人だったのか?」というと、ロシア革命の前のヨーロッパに渡った人です。その時に莫大な資金を持っていったのです。軍服を脱いで、民衆と同じような恰好をして、一人で活動をしたのです。

 ロシアには皇帝がいました。その皇帝を倒すために莫大な資金を使ったのです。皇帝を倒したのは、共産党です。共産党が天下を取ることができるように、明石元二郎さんが資金を提供したのです。

 明治時代、ロシアは日本にとって脅威の国だったのです。明石元二郎さんが、ロシア革命の工作につかった資金は、当時の国家予算約2億3千万円の内、百万円(今の価値では、四百億円以上)でした。参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断により、参謀本部から支給されたのです。

莫大なお金でロシア革命の工作をしたのですが、朝鮮という国が買えてしまうぐらいの金額です。ロシア皇帝派を切り崩すために、莫大な資金を共産党に使ったのです。

 その資金があったから、ロシア革命が行われて、共産党が天下を取ることができたのです。当時のロマノフ王朝を、お金で切り崩したのです。

参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と言って称えたと紹介する文献もあります。たった一人でやったのです。

 明石元二郎さんは、「よくやったな」と功績をたたえられたのです。一人で20万人の軍隊に匹敵する働きをしたのです。その功績が認められて、陸軍大将になり、男爵という位をもらったのです。男爵というと、貴族ということです。

 当時の公侯伯子男という貴族階級は、政府からお金をもらっていたのです。貴族は大名と同じです。大名家は貴族になったのです。徳川家は、公爵家です。勝海舟は、伯爵になったのです。地方の大名は、男爵の位をもらったのです。

 明治新政府ができて、幕府が崩壊すると、旧幕臣はお金がなくなってしまいます。「どうしたのか?」というと、貴族制度をつくって、貴族にしたのです。それは階級だけもらったのではありません。お金ももらったのです。貴族になると、子供たちは学習院に通わせたのです。

公爵になった徳川慶喜は優れた人物だったのです。大政奉還をして、一切新政府軍に逆らうことはしなかったのです。それは、水戸学をしっかりと勉強していたおかげだと言われています。

 水戸黄門様がつくった、「水戸学」という学問があります。『大日本史』という歴史書をつくって、天皇が発言する時には、一段上げて発言します。『日本外史』もそうです。それを読むと天皇の発言は、一段高いところから書かれています。

 それを読むと「天皇は偉い人だな」とわかるのです。武士たちは、それを勉強したのです。「徳川家よりも偉いのは、天皇なのだ」ということを骨身にしみてわかっていたのです。

 だから、徳川慶喜は、天皇には絶対に逆らわなかったのです。幕末の志士たちが、懐に入れて読んでいたのは、『日本外史』だったのです。『日本外史』という本があり、その要所を切り抜いてつくられた小雑誌があったのです。それを革命の志士たちは、もっていて、「天皇は偉いのだ」ということを知っていたのです。

 大政奉還をして、幕府が滅びた後は、徳川慶喜は何もしなかったのです。明治時代になると、徳川慶喜は静岡県の浜松城に入れられて、70万石をもらっていたのですから、お金には困らなかったのです。

 「軍隊の要職にいてくれ」とか、「東京都知事になってくれ」と言われたのですが、要職には、一切就かなかったのです。幕府は大政奉還したのです。それなのに要職に就くと、あらぬことを言われるから、そのようなことはしなかったのです。趣味は狩猟と、写真で、大正時代まで長生きしたのです。

 貴族になるということは、生活も安定するし、待遇は全て変わってしまうのです。貴族になると禄をもらうことになるのです。陸軍大将で辞めたら、普通の人になってしまいます。もちろん、恩給はつきますが、そのほかのお金はもらえません。

 「男爵」という爵位がつくと、待遇が違います。子供は学習院に入ることができて、天皇をお守りする立場になるのです。昔は、国家には貴族院議員がありました。参議院は貴族院だったのです。

 爵位をもった人が貴族院議員になったのです。一番下の位は男爵です。公侯伯子男ですから、公爵になった徳川慶喜は最高の位です。そのような人達が守ってきたのが学習院ですから、皇族が私立の学校に行く必要はありません。

 本当にやっていることがくだらないのです。どうして秋篠宮の二人の娘はICUへ入りなおしたのでしょうか? 皇族が通う学校が学習院です。それを辞めて、キリスト教の牧師を養成するICUへ入学したのです。おかしな話です。

 愛子さんは、ちゃんと学習院大学を卒業しています。秋篠宮の二人の娘は、わざわざ学習院大学を中退して、ICUへ入りなおしたのです。ICUへ入学しているのは、ほとんどが朝鮮人です。ICUは、受験しないで推薦入学で入ることができるのです。だから、帰国子女が80%いるのです。推薦で入学できるのですから、ロクな人間がいないのです。

 学習院を辞めて、わざわざそのような大学に入ったのですから、皇族としての自覚が全くないのです。それはどこに原因があるのでしょうか?

 上皇陛下が悪いのです。どうして、キリスト教徒を奥さんにしたのでしょうか? そのおかげで皇室にキリスト教が入ってきたのです。上皇后陛下は、皇居の中で賛美歌を歌い、ミサをやっているというのです。何という愚かなことをやっているのでしょうか?

 明石元紹さんのお爺さんは、明石元二郎大将です。愛国者ですから、当然そのように言うでしょう。明石元紹さんがご忠告すると、上皇陛下は一言も言わなかったのです。返事もしないのですから、「絶交だ」と言ったのです。学習院のご学友である明石元紹さんは、上皇陛下に絶交状を叩きつけたのです。すごく勇気のある人です。

 明石元二郎大将は、たった一人でロマノフ王朝を倒したのです。それは、莫大な資金をロシアの共産党につぎ込んだからできたのです。結局、世の中はお金で動くのです。人間は、お金をくれる人のことを聞くのです。

 ロシアの共産党員は、お金をもらってロシア皇帝を倒したのです。戦前には、このような働きがしっかりとあったのです。その功績をわかっていたから、昭和になって陸軍は陸軍中野学校を創ったのです。

 小野田少尉も、陸軍中野学校の二俣分校の出身です。当時の金額で5千万円もっていたのです。小野田少尉は、フィリピンの密林の中を逃げ回っていたのではありません。部下も20人くらいいたのです。

 お金は、5千万円持っていたのです。日本が戦争に負けたことも、フィリピンの上空で米軍のジェット機が飛んでいることも、性能のよい無線を持っていたので、全て知っていたのです。部下は20人いたのですが、だんだん死んでしまい、最後の小塚一等兵が死んでしまい、小野田少尉は一人になってしまったのです。

 残置諜者の人達は現地に残って現地人として、独立を支援してきたのです。明石元二郎さんに習って、陸軍中野学校を創ったのです。明石元二郎さんは、日ロ戦争で、大変な功績を残した英雄です。

 一人で20万人の軍人の仕事をしたのです。「明石元二郎大将に学べ、明石元二郎大将に続け!」という合言葉で残置諜者を養成してきたのです。

 明石元二郎大将のおかげで帝政ロシアが滅びて、共産主義のソ連が生まれたのです。共産主義のソ連は、戦争をしても弱いから体力がありません。だから、スターリンは、自国民の統制をやって2千万人も殺したのです。

 明石元二郎大将は、(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は台湾電力を設立し、水力発電事業を推進したほか、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いたのです。

大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務しました。

台湾総督の次は総理大臣にと周囲からは期待されていましたが、総督在任1年4か月の大正8年(1919年)10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を患て郷里の福岡で死去しました。満55歳。

「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言によって、遺骸は福岡から台湾にわざわざ移され、台北市の三板橋墓地に埋葬されたのです。今回は、日本の英雄である、明石元二郎大将の話でした。

 

 

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