なんだか誤解を与えそうなタイトルですが、辛抱強くお読みください。

 

「無条件の愛」に関して、たくさんのコメントを読ませていただく中で気になったのが、無条件の愛を体現したいのに、それができないからもどかしいといった、焦りのような感情をお持ちの方がちらほらいらっしゃるということです。

 

前も書いたように、「愛そう」と思って「愛せる」ものではありませんから、まずは愛せない自分も受け入れること。認めること。評価しないこと、ですね。だって人間ですから、好き嫌いはあって当たり前だし、愛せる相手と愛せない相手がいるのは当然のことなのです。

 

先ずは自分を愛する。自分を見つめなおすうちに、自分をどんどん愛せるようになるんじゃないかなと思います。

そもそも自分が愛するようにしか、他から愛されない。

世の中を見ても、多くの人から愛される人というのは、自分をちゃんと愛せてます。

こちらの記事も参考になさってください。

 

「自分を愛していますか?」

「愛されることをゆるす」

 

その段階を越えると、少しずつ分離の感覚から遠ざかっていきます。

 

「自分」と「相手」がいるうちはまだ分離の世界なんですね。もちろんそこからのスタートではあるけれど、最終的には分離がなくなるところを目指しているはずなんです。

 

愛する⇔愛される もしくは 愛し合う という関係にネガティブな要素はないように見えますが、このエネルギーのやり取りが成立するには、いろんな条件が入り込みます。片方が「愛することをやめた」場合はどうなるのか? それでも愛し続けるのか、恨むのか、悲しむのか……。

 

そうした要素があるからこそ、愛する⇔愛される が滞りなく成立しているときの幸せ感をより味わえる、ということなのでしょう。この関係は分離が前提になってますね。

 

本来愛はひとつの存在です。与えたり奪ったりするものでもありません。愛は宇宙のエネルギーで、無限なのです。私たちが作り出すものではないのですね。

 

ところが分離の段階にいるのに、身体を宇宙に(つまり愛のエネルギー)あわせようとしても、無理がある。肉体には限界があるんです。「愛したい」とか「愛そう」という気持ちがいくらあっても、体現するには限界があります。

 

だからこそ、宇宙に自分の身体に入ってもらうのです。私がいつもお話しする、宇宙エネルギーを自分の身体に流すというのはそういうことなんです。

 

タイトルのバディは愛を与え合う存在ではない、ということを補足しますと、バディの間にある愛は、愛を与える⇔愛を受ける という相互関係ではないのですね。愛を与え合う、というのとも違うのです。

 

ソウルバディは「一緒に愛を体現する存在」だと私は考えています。

 

つまり「愛」はすでにそこにあるもの。自分で生み出すものでも、与えたり奪ったりするものでもなく、ただそこにある。私たちはみんな「愛」の中に生きているのに、それに十分気付けないのは、いつもいうように地球の荒い波動のせいですね。わざわざ分離だとか二元性を楽しむ環境に身をおいているからです。

 

愛という、たったひとつの存在が身体中を巡るとき、「愛が流れ込むのを感じる」「愛が溢れる」「愛が満ちる」というような感覚になるかと思います。

 

はじめは一瞬だけかもしれない、でもやがて荒い波動の肉体も、宇宙エネルギーを受け入れるようになっていくと、愛が滞りなく流れるようになるのです。愛で充満されたバディのふたりに、愛を与えたり、与えてもらったりする必要はもうないですね。

 

ただ一緒に愛を楽しむ。味わう。膨らませる。それだけなんです!

 

……と偉そうなことを書いてますが、私自身がいつも無条件の愛を体現できているかといえば、まったくそんなことはなく、ただそうありたいという願いも込めて、自分自身にも向けてこんな記事を書いてみました!

 

With Love xoxoxo
May

 

こちらもよろしくお願いします!三作目です。

 

 

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