今回の記事は土浦市大手町の花蔵院の話ですが、以前書いた記事に文章を追加編集して、写真も新しく変更追加しています。


幕末の時代、土屋氏が治める常陸国土浦藩(現在の茨城県土浦市)に、地理学・天文学を極めて世間に天才学者と言わしめ、日本中にその名を轟かせた沼尻墨僊という町人学者が存在しました。

土浦市大手町郵便局の近くにある花蔵院に、沼尻墨僊のお墓があるという事で、本日花蔵院に再訪してきました。

大手町郵便局↓


大手町郵便局の前を進んで行くと、街中の建物の間に華蔵院への入口があり、普通にこの前の道路を通ると見落としてしまいます。


入口前に華蔵院と沼尻墨僊の説明が書かれた石碑があります。


周りには民家らしい建物が数件立っていて、ど真ん中に華蔵院がポツンと建っています。

花蔵院の宗派は真言宗豊山派で、開山時期は解りません。


御堂の裏手に墨僊とその家族のお墓があるので、裏手に回ると彼のお墓がひっそりと佇んでいました。

正面左側が墨僊の墓です。


墓碑には「静寿庵黙翁墨僊居士」と書かれています。


墨僊の墓の前には、彼の実父の墓が建てられています。


墨僊は元々田宿町(土浦市大手町)の中村家の出身で、彼の実父は中村治助といい、中村家は五香屋と呼ばれており、五香湯という漢方薬を販売をしていて、宿場町の重要な施設であって、人馬や公的な書状や荷物を引き継ぐ問屋業も営んでいたそうです。

文化10年に79歳で没し東崎町の法性院に葬られましたが、中村家は明治以降に絶家になり、無縁仏になっていた所、平成24年法性院の整地に伴い、息子の墨僊とその養父が眠るこの地に移設されたそうです。

中村治助の墓碑。


墨僊の話に戻りますが、多大な業績を残した天才学者・沼尻墨僊は安政3年(1856年)4月26日に82歳で永眠し、2日後の4月28日に土浦田宿町(現在の土浦市大手町)の華蔵院に埋葬されたそうです。

土浦の繁栄と住民の暮らしの安寧を思い、町の発展や子弟の教育に力を尽くし、土浦の町を愛した沼尻墨僊は、今も家族と共に華蔵院に眠り続け、彼が育った土浦の町を見守り続けています。


『追記:以前にも沼尻墨僊の事は「沼尻墨僊 ~土浦市の天才学者~」というタイトルで記事を書いているので、 沼尻墨僊に興味のある方は、上記にリンク先(青色の文字の記事タイトル)を貼ってありますので、其方の記事も併せて読んでみてください』


花蔵院
〒300ー0044
茨城県土浦市大手町8ー17




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