読書「8月の果て」柳美里 | hananoの明日はなにがある?

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今日と違った明日をすごしたいなぁ~。と思いながらの日々の記録です。

柳美里の小説を読むのは初めて。

批評家の東浩紀さんが最近、よく鼎談や著作の中でこの本について言及している。自分自身も朝鮮近代史に興味があったことや、「少女像」に象徴される従軍慰安婦問題をどう考えていいのか迷っていた部分があったので読んでみることにした。



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同時代の朝鮮人に、詩人の尹東柱がいる。
日本統治下の朝鮮に生まれ、日本に留学して獄死するという彼の生涯を描いたノンフィクションを読んだことがあるし、映画も見た。朝鮮語を話すことを禁じられて名前を日本風に変えることを強要され、それでも詩人として名を上げるために日本に留学したのに政治犯とみなされ、獄死するという悲劇に胸が苦しく、痛む思いがした。

尹東柱の映画がドキュメンタリータッチのノンフィクションなのに対してこの本は同じ時代背景の出来事を描きながらも、虚構をつむぎだす小説でありフィクション、戦争下での「悪そのもの」について圧倒的な筆力で訴えかけてくる強い読後感で、読み終わったあとしばらく眠れないほどだった。

東浩紀が負の歴史の継承における虚構の力について、「苦界浄土」をあげながら、当事者でない他者が語ることの意義を評価している。
わたしは以前「苦界浄土」を読んだ時、石牟礼道子を死者の声を憑依によって語りつぐシャーマンのような作家だと感じたのだった。
この「8月の果て」も同列に挙げられる作品で、冒頭と終わりに、犠牲者たちを降霊で呼び出す儀式が描写される。死者の意思をひきついだ柳美里が語りてになり、死者たちの記憶を文字としてきざみつける物語。

死者による語りや伝承による慰霊、鎮魂は、時系列が過去から未来に向かうのではなく、現在と過去が入り混じる東洋的な歴史の記憶の継承のかたちでもあるのかもしれない。

わたし自身も戦時下の犠牲者たちに祈るような気持ちで読書を終えたのだった。

以下、ストーリーを追いながらの感想です。
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物語は、朝鮮籍の柳美里の祖父の生涯や関わった多くの人々の人生をとおして、日本占領下の朝鮮と戦後の内戦の実情を鋭くえぐり出していくもの。小説の終わりには膨大な参考文献が列挙されており、綿密な取材で虚構を構築していったことがわかる。

柳美里の祖父は1945年、幻となった東京オリンピックが開催されていたら、マラソンの日本代表になっていたであろう李雨哲。(…余談になるが彼を韋駄天と呼ぶ表現もあるし、「すっすっはっはっ」という呼吸音が全編を貫いているところを見ると、もしかしてクドカンは大河ドラマ「いだてん」の資料としてこの本を読んで、アイデアを得たのかもしれない)

さておき。

ランナーだった祖父自身は、なかなか強烈な人物、妻のあとに二人の女性と関係を持ち、子を産ませる。読んでいくと儒教からくる家父長制の伝統が強い中で、家事を担い男子を生むために妻になる、女性の弱さも浮き彫りになっていく。
ここに出てくる「アリラン」の歌詞が物悲しい。

李家は不幸ばかりが起こると近隣の人に噂されるいくつかの死のエピソードが続く中、助産婦の日本人女性との交流だけがあたたかく血の通ったドラマになっていた。生死の対比がこの物語の根底にある。いとも簡単に人は生まれ、死んでいくのだ。

後半はその祖父の弟と、彼に恋をした13歳の少女の不幸がえがかれる。

少女が日本の工場で働かないかと誘われて日本人についていくと、そこは中国の慰安所だった。
過酷な環境の中でレイプされ続ける日々。

慰安婦は当時の島原と同じだという議論を聞くこともあるけれど、同列視はできないだろう。
色街には性産業としてのしきたりと女将の差配による秩序があるけれど、慰安場は違う。小林秀雄が戦時中に、中国の慰安所を訪れたという記事を読んだことがある。そこは清潔で秩序だっていたそうだが、もしかすると、広報用にそういう"花街めいた"慰安所もあったかもしれない。

けれどここで描かれるような戦争の最前線においては男性軍人の支配下におかれ不潔で食事もままならず、いちにちに何十人もを相手にして(レイプという言葉が妥当に思われる)、避妊具も洗って使い回し、避妊すらしない男もいるなどなど。
さまざまな体験談を元に綿密な取材をして書いているのだろうけれど、読みすすめるのにショックが大きすぎてつらかった。

わたしは慰安婦問題をどこか避けていたところがあるけれど、こうしてフィクションとして描かれると彼女たちの「声」がリアリティをもって圧倒的に立ち上がる。

ここで考えてしまったのは、慰安婦という言葉、表象が妥当なのかということだ。
利用した男性側からみたら慰安婦、しかし狩り出された女性側からしたら性奴隷なのだ。
この間にある大きな距離に絶望をいだく。

物語を読んで慰安婦と慰安所という戦時下の制度はまぎれもない悪なのだ、と、実感としてわかった。少なくとも性産業と同じ扱いではいけない。「報酬がない」のだから。さらに身体を傷つけられる性暴力は、女性としてのアイデンティティ、その人としての存在そのものまで深く傷つけていく。

そしてもうひとつの柱となるストーリー。祖父の弟は共産主義の組織に賛同し、日本からの解放運動に携わったのち、朝鮮独立運動にも関わるようになる。が、戦後の内戦での赤狩りにより、集団で虐殺される。その描写も悲惨だった。
柳美里、ここまでかくのはやめてくれと言いたいほど。それでも描かずにいられなかったのだろう。同じ民族間の争いの不毛なことよ。それは米ソによる分断なわけだけれども。

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この物語は"国家の悪"を告発するのはもちろんだが、より強く"人間の悪"をえぐりだすものになっている。

凡庸な人間がいとも簡単に罪を犯す構造が、「戦争」という暴力が国家によって正当化、組織化される状況にはある。
平和は尊いというお題目のような反省では拾いきれない、人間の歴史と営みの悲惨さに衝撃を受けたと同時に、フィクションをとおして過去の歴史に生きた人々の流れる血がよみがえり、虚構をとおして痛みや苦しみを、現代を生きる私たちの心にストレートに訴えかける作家の想像力の凄みを感じた。

今は絶版だけれども図書館に置いてあるかもしれない。

この本が再販され、多くの人の朝鮮史のテキストとなることを願う。