弥生時代の日本への渡海は中国のジャンク船だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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日本の古代船に帆があったかどうか、まだ検討している。古墳時代には帆船があったことは証明されている。弥生時代の絵にも帆船らしき絵はあるが、はっきりし無い。今まで国内で出土した準構造船は内航船であり、外航船としては矢張り帆の存在を検討する必要がある。

中国では弥生時代後期には確実に帆船(ジャンク船)があった。日本の渡来系弥生人は中国から渡来しており、ジャンク船で渡来したはずとの検討もした。確かに帆を足せばジャンク船に近い埴輪の船も存在する。また、日本の古墳時代の埴輪の形状に基づく古代船の原状のままの復元・走行実験で対馬海峡横断には使い物にならないことが証明されている。遣唐使でも8世紀からジャンク船を技術導入して使った。ジャンク船が残らなかった理由は船体材に適した木材の調達問題があり、さらに海外渡海の要求もなかったからであろう。

すなわち、外海の渡海には帆を持ったジャンク船が適していた!従い、古代弥生人がジャンク船で日本にやって来た可能性は極めて強い。参考⑨によると、中国において「紀元前三世紀頃になると、船底には竜骨を使い、横隔壁を設け、木甲板を張って船全体を水密・強固にした渡海船が建造された。推進には櫂と帆を併用するようにしている。」により、日本まで渡海したと指摘している。


注: 冬場の北風の荒波に乗った航海は論外との意見があるが、冬場の北風(対馬海峡あたりは北西)と対馬海流に上手く乗れば、サーフィンと同じように波頭に乗ってスーッと対馬海峡を越える事が出来、これを証明する事例はある(対馬から山口方向遣渤海使)。


徐福が秦の始皇帝から資金援助を受けて童男童女3000人に工人、道具を船に乗せて日本に渡った話は、渡海にジャンク船を使ったことを暗示している(参考)。


参考

① 既に古墳時代には確実に帆船があったことを論証した(参考)。以下、はっきり分かる例を追加する。

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熊本県不知火町桂原古墳玄室線刻画

どうみても帆船である。

昭和の発掘報告などを読むと若王子遺跡の舟形木槨発見時に学者がこう書いてある。

「平面形は細長く、横断面は半円形を成し、一見割竹形みえるのに対し、棺端部の小口板は認められず、純粋な刳抜棺で、しかもその一端が舟のように尖るものであった。(中略)我々も初めて出合った例なので当初はあり得べからざるものと考えていた。」
「何度もの調査で、認めないわけにはいかなくなった」(磯部武男「古代日本の舟葬について」1983『信濃第三十五巻第十二号』)(
参考)


② 弥生時代後期(2000年前)、既に中国では帆船(ジャンク船)があった(参考)。


③ 中国ジャンク船

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帆を畳んだ状態

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開いて帆走


④-1 古代船埴輪(参考)

芸術的に変形させているが、形状は中国のジャンク船に似ている!

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④-2 防水区画が付いたジャンク船をうかがわせる埴輪の例

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宮崎県総合博物館蔵


⑤ 古代船の復元

実際には不安定で、重く、ほとんど進まなかったとの報告がある。

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大阪市のなみはや号プロジェクト(引用元)
大阪市、大阪市教育委員会、(財)大阪市文化財協会は、大阪市制100周年・協会創立10周年記念行事として舟形埴輪のモデルとなった古代船を復元し、「倭の五王」時代の航海を再現する事にした。大阪から・韓国釜山まで700kmの航海実験であった。

そこで10年前、大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、実際に木造船として作ってみました。現在の船の構造設計者によると、とても構造的に船にならない、ということでしたが、直径2mの丸太をカナダから輸入し、埴輪を忠実に模することにより、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現したのです。この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、そのうえなかなか進みません。50cmの高さの波がきただけでもバランスを失ってひっくり返りそうです。1mもの波がこようものなら漕ぎ出すのは到底無理なことです。また喫水が浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部の学生に、古代の人が渡ったであろうと思われるコースで、玄界灘を越えて韓国に向けて漕いでもらったわけですが、これが殆ど進みません。そのまま漕いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当がつかないほど進みません。10年たった今だから言えるのですが、韓国の港では、学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかのように振る舞ってもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に牽引してもらっていたのです。

【財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎氏】
全長:   12.0m
幅:     1.93m
高さ:    3.00m(船底より)
深さ:    0.72m
重量:  約5.0t(丸木船部分)
漕手:    8名
使用丸太材 :アメリカ合衆国オレゴン州カスケード山脈エイブリ山の標高700m山中の松。(樹齢推定650年、樹高推定45m)USA Maison Bluse & Jirard社他による寄付。

命名      :一般公募。なにわ古名で日本書紀に登場する浪速国(なみはやのくに)から。平成元年6月19日(月)から23日(金)まで大阪市役所前で一般公開された。船名揮毫は当時の西尾大阪市長。

設計建造    :船の復元は、古代船研究の権威・松本哲神戸商船大学教授が設計を担当、岡山県邑久郡牛窓 町の船大工、草井格氏が指揮して建造を担当。平成元年1月19日起工式、5月末完成。6月2日に進水

注:

記事の中にもありますが、船底に丸木舟を使っているため船が非常に重く通常のこぎ方では動かすことができません。なみはや号はボート部員を動員したようですのでオールで漕いだと思えるのですが、オールで船が動かせるのは杉材で作った軽い小さな船に限られます。

古代の東アジアにおける航海の方法についてはほとんど研究発表がありませんが、こんな重い船を使って人の力だけで何日もかけて外洋を航海できるはずがありません。日本近海の海は、冬場は北風が吹き荒れて航海は論外ですが、春や秋は低気圧と高気圧が交互に通過するため一定方向の風を期待できませんし、比較的気候が安定している夏場でも台風による風の影響は非常に広い範囲にまで風向きを変えるため、日本近海での帆による航海はほとんどなかったものと考えられます。一方で、黒潮とその支流の対馬海流は常に一定した方向と速度を保って流れており、これを利用した航海があったと推定されます。空気の流れである風と水の流れである海流は、流体力学的にはまったく同じ効果があることを考えると、帆の役割に代わりうる板状の櫂(かい)が注目されるのです。この写真は現在も沖縄でつかわれている櫂です。

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古代船は準構造船とよばれるように丸木舟の周囲に板を張ったいますが、これは船の大きさを確保すると同時に船の喫水を下げるためではなかったかと思われるのです。丸木舟は非常に安定が悪くてそのままで外洋を航海できたとは思えません。現在の小さくて軽いヨットが安定しているのは船底に錘をつけて重心を下げているからですが、その知恵は古代にはまだなかったようです。なみはや号に数百キロの石を積んで喫水を下げたのはおそらく正解ではなかったでしょうか、古代の航海でも人や荷物を積んで喫水を下げて船を安定させたものと思えます。


⑥ おおざっぱにいって、日本に外国船が導入されたことは過去に三度あります(参考)。

最初は遣唐使用の中国のジャンクです。遣唐使は7世紀から9世紀にかけて、200年の間に15回派遣されています。8世紀に入って新羅関係が悪化したため朝鮮半島西岸沿いの北路をとれず、東シナ海を横断する南路をとらざるをえなくなったのがジャンク導入の理由とされています。

建造は安芸国で行われていますので、大陸系の技術を身につけた集団がいたことは確実ですが、その技術は遣唐使の中止とともに途絶えました。絵巻物には遣唐使船としてジャンクがしばしば登場します。けれども、これを2~3世紀前の遣唐使船と同一視してよい保証はどこにもなく、現状では実体は不明とせざるをえません。

二度目は17世紀前期の朱印貿易用のジャンクです。絵画資料から判断すると、朱印船は帆装・舵などに洋式技術を取り入れたシャム船系統のジャンクで、輸入されたほか九州でも建造されました。鎖国下でも小数ながらジャンクの建造例がありますが、国内海運用の船としての経済性に問題があったのか、結局、その技術は定着せずに終わります。

三度目が洋式船です。幕府と明治政府によって洋式船の導入は積極的に推進され、政府の意図通りの近代的造船業の移殖と同時に、政府の帆船の西欧化政策に反した帆船の和洋折衷化をもたらしました。折衷の度合いは実に多種多様で、いわば在来形を改良した船から和洋の船体構造を折衷して、スクーナー式の帆を揚げたスクーナーもどきの船まで出現します。こうした折衷船は、昭和の初めに機帆船に取って代わられるまで国内海運の主役として活躍しました。<2002.04>

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⑦ 春秋戦国時代の秦にはジャンク船があった(参考)

船の話しが中国古書に取り上げられるのは司馬遷の「史記 巻七十」の張儀列伝第十に縦横家の張儀(?~BC309年)が、蘇秦の「合従策」に対抗して「連衡策」を説きました。秦の使者として楚王に秦の強さを話したくだりがあります。「秦は一舫に五十人と三ヶ月の食を載せ、一日三百里進むことができます。十日もすれば楚に着くことが出来ます」とあることから、その当時の秦は四川省岷江上流域に戦闘用の船をもっていたと思われます。張儀がうそを語ったとしても、この戦国時代(BC403~BC221年)には大型の船があったことは張儀の話しからわかります。船室を区画し防水壁を設け大型ジャンクを造船する技術が戦国時代の秦にはあったことがわかります。


⑧ 「長江を下って東シナ海に出れば、偏西風と黒潮に乗ることができる。黒潮の流速は、本州南方で最も速く3~5ノットに達し、この流れに乗れば容易に日本に到達する。舟山列島を春から夏に出た船は、南西風と対馬海流に乗って五島列島につく」

春から夏には「南西風と黒潮に乗る」、秋から冬の間は「寒流と西北風に乗る」という条件が揃えば、長江河口から日本列島にやってくることができたというわけである。

「昭和19年3月、ジャンクで日本に帰った山手元枝氏の経験によると、20日夜半、舟山島を櫓で漕ぎ出したジャンクが、舟山島沖合で潮に乗ると同時に帆をあげると、一路、東に向かって走り出し、翌日昼ごろ五島列島を横切り、日暮れに唐津港に投錨したという。わずか20時間ほどで東シナ海を横断できる。秋から冬の間に出た船は、舟山群島沖を南下する寒流と西北風によって黒潮に乗り、九州南端の野間岬とか紀州南端の潮岬などにつく」。(『四川と長江文明』古賀登・東方書店) (参考)


⑨ 渡来人の航海、渡航用具(参考)

古くから使われてきた渡航用具には、竹筏舟・笹舟・樹皮舟・皮舟・丸木舟・木造船等があり、推進方法は人力による櫂を使用した。ときに植物繊維製(竹の繊維を編んだもの、竹べらを繋ぎ合わせたもの、薄い蓆(むしろ)、麻布など)の帆を用いた。

中国の長江流域・北部沿岸では、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船(させん)があった。

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この木造船はいわゆる箱船で、船首・船尾は方形、船底は平底、横方向に防水用の隔壁がある。喫水(きっすい)が浅いので水深の浅い水域の航海船として使用された。南部沿岸では、同じくらい古くに丸木舟から進化したという福船があり、船底は竜骨(キール)のついたV字型で、横方向の強度を保つための梁(はり・ビーム)を持った船であった。この船は船体が頑丈で波きりもよく、外洋の航海に適していた。

それが紀元前三世紀頃になると、この両船の長所を取り入れて、船底には竜骨を使い、横隔壁を設け、木甲板を張って船全体を水蜜・強固にした渡海船が建造された。推進には櫂と帆を併用するようにしている。この船の出現によって、人や物資の大量輸送ができるようになった。(橋本 進 元「日本丸」船長・元東京商船大学教授)


10 現代のハロン湾のジャンク船(参考)

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正面(背面?)から見ると埴輪の舟に良く似ている。さらに、中央に帆走用のマストが付いている。また、参考⑥に掲載した「吉備大臣を乗せた遣唐使船」にも似ている。