「わたし」というものは、実は存在しません!
という、ちょっと信じがたい話が、仏教では当たり前に語られます。
これは「無我」という考え方です。
前回のブログで、瞑想と無常について解説しました。
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12571157771.html
瞑想をすると、それまで意識的には気づいていなかった、自分の思考や感情、感覚などを観察することができるようになります。
瞑想を続けていると、観察力がどんどん上がっていきます。
そうするといつしか、
それらは全て、常に変化し続けている
ということに気づきます。
この、
全てが常に変化している
とうことを無常といいます。
ここまでが前回のお話でした。
今回は、さらにその話を発展させていきます。
※世の中には様々な瞑想がありますが、ここではマインドフルネス瞑想についてお話しします。
さて、瞑想で鍛えた観察力を、「わたし」という対象に向け、徹底的に観察を続けていきます。
するといつしかとんでもない事実に気がつくのです。
普通、「わたし」というものは常に存在していて、その常に存在している「わたし」が、いろんなことを考えたり、感じたりしている、と思っています。
ところが、瞑想を続け「わたし」を観察し続けていると
どうもそれは違うんじゃないか?
と思えてきます。
何かを考えたり、感じたりした瞬間に「わたし」が現れ、終わると消える。
また何かを考えたり感じたりすると、また「わたし」が現れ、終わるとまた消える。
そういうものに見えてくるのです。
同じ「わたし」がずっと存在しているのではなく、「わたし」は現れたり消えたりしている。
前回現れた「わたし」と、次に現れた「わたし」は同じ「わたし」とは限らない。
普通イメージされるような、昔からずっと変わらない「わたし」という安定した存在。
そういうものは、実は幻なのではないか?
「わたし」が現れたり、消えたりするスピードが速すぎて、ずっと「わたし」が存在しているように見えているだけなんじゃないか?
そのことが、理屈ではなく、感覚的に、体験として、わかってしまうのです。
じゃあその現れたり消えたりしている「わたし」を観察しているのは「わたし」じゃないのか?
体は存在し続けているけど、体は「わたし」じゃないのか?
などなど、哲学的な議論はいろいろあるでしょう。
人が普段、「わたし」というものをどう捉えているか、その捉え方によって、話はいろいろ変わってくるでしょう。
しかし、これはどんなに頑張っても、理屈で語れることではありません。
体験でしかわからないことです。
最終的に瞑想とは、
理屈ではなく、体験で、本当の意味で「無我」を知ることで、周りの世界からだけでなく、「わたし」からも解放され、本当の自由を手に入れること
それを目指しているのかもしれません。
つづき↓
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12572396331.html
--------------------------------------
瞑想って何やってるの? 何の意味があるの?~瞑想とは何か①
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12570551231.html
諸行無常の本当の意味~瞑想とは何か②
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12571157771.html
わたしは存在しない? 無我の意味~瞑想とは何か③
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12571866076.html
瞑想を極めると「現実的な人」になる?~瞑想とは何か④
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12572396331.html