本年も、どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m


(いきなりですが、続きです)


前回書きましたが、「研究」は続いていました

Rさんは質問をたくさんして下さり、ご自身の考えを色々話して下さいましたので、資料は一度にたくさんの節は進めず、ちょっとずつ...ちょっとずつ...という感じでした

かと言って、全然進まないからどうしようということはなく、その時はそれで量はこなせなくとも十分充実していました

Rさんはいつも「私はこう思うんだけど...」と深く考えられた黙想の結果を披露して下さいました

私は、Rさんが聖書の教え(※実際はエホバの証人の教え)を納得し受け入れられるのは、その時の「Rさんの発想の自由度」からして(少なくともすぐには)難しいと感じました

そして、それで良いんじゃないか...と思っていました

本当に愛を求める人であるなら、エホバが必ず最終的に引き寄せられると信じていました

同時に、かと言ってRさんは果たしてエホバの証人の枠に収まる人だろうか?とも感じるようになっていました

...私はRさんの独創性や深い愛を、「突飛な事を言う変わった人」と誤解されたくなかったので、研究参加に誰かを誘いたいと思った事はありませんでした



...ちょっと脱線ですが、エホバの証人の宣教は、結局のところ「バプテスマを受けさせてナンボ」です



巡回訪問・大会などの際、

「終わりが近いです!研究生が進歩出来るよう効果的に司会しましょう!バプテスマを先延ばしにする理由は何ですか?命がかかっているのです!」

その様に、一見親切なもっともらしい言い方で、進歩的でないとされる研究生をさっさと切るよう教えられることさえあるのがエホバの証人です

この方針、会衆単位では「終わりが来る前に人を助けたい!だから急ごう!」との誠実な思いで当てはめようとしている方が殆どだと思います

エホバの証人としてバプテスマを受け幸福になる人々も確かにおられるでしょうが、同時にこの宗教団体には、不幸な境遇の人々を量産し続けているという「歴史上の不動の負の事実」が抱き合わせで存在する事を無視する事は出来ません

その「黒歴史積み上げ真っ最中」のものみの塔組織が、司会者に研究・バプテスマへの早めの進歩を促している動機は、研究生に人生の幸福を得て貰いたいと「純粋に」願うものではなく、短期間に司会者の生産性を上げさせるのに効果的かつ必要だったからだと今更ながら気付くのです

生物には成長する過程の「生理」というものがあり、上層部からのこの手の「煽る励まし」は、それを無視して個々人を見ない、機械的で本当に愚かしい、哀しい手法だと私は感じます


(本題に戻ります)


...さて、そんなこんなで月日が経ち、季節は春から秋になっていました


研究するようになってから、Rさんにはそれまで有ったという「導きの声」が聴こえなくなっていましたが、その「聴こえない状態」は持続していました


ところが


ある平日の夜の研究の日...こんなことがありました

私は夜7時頃Rさん宅に到着しました

玄関扉のところから「こんばんは」と中に向かって挨拶したところ

「はーい、上がって!」

いつもの居間からRさんの声が聴こえて来ます

(手が離せないのかな)

そう思い、上がらせて頂き、居間に入ると...



(ワッ!ゲッ!)




Rさんが、超大作と言える程の凄い「デカイ」絵を、手足やその辺り一帯を絵の具だらけに汚しながら描いておられるのです!

抽象画の様で、黒や青、赤も使われていて、下から上に炎が燃え上がってトグロ?を巻いている様な、黒っぽい、もの凄く激しいものでした

しかも、描いておられる大きな大きな縦長の“キャンバス”...よく見ると、扉...⁉︎

部屋の入り口の襖扉(ふすまとびら)を外したものだと言われるではありませんか!



(芸術が...!)



(爆発している...!)



(※私関西人ですから)内心そう思いましたが、そうでも思わないと、ハッキリ言って、無茶苦茶「怖かった」です

「凄い...岡本太郎かと思った!どうされたんですか⁉︎」

とにかく聴いてみました

Rさん「描くように、って言うのがいきなり来てね」


(うわ...)


ちなみに、漫画家さんシリーズで書いている「インスピレーション」がどういうものなのか、本当にそういう「声」が全て外部から降って来るという意味なのか、それともクリエイターの方々や他の幾人かの方々に内在する「その人自身の声」なのか、分かりません


(聴こえるのが戻って来たのか...⁉︎)


その時は当然サタンだと思いましたので、その日の「研究」は頭の中で必死に祈りながらでした


...それからです、次の研究の日、更にこんな出来事が


Rさんが、私が伺うなりすぐ、数日前にあったというある出来事を話し始められました

数日前のその日、Rさんの子どもさん(小さな男の子の方)が急に見当たらなくなってしまったとのこと

さっきまで一緒に歩いていたのに急にいなくなり、慌てて大声で名前を呼んで探し始めたところ、エホバを思い出し、必死でエホバにお願いしたが、子どもは一向に出てこない

泣きながら、お願いしながら何十分も歩き回ったそうです

そうしていると、フッと

(〇〇(※仏教の...)を唱えたら、子どもは出て来る)

と聴こえてきたので、それを唱えたら子どもが瞬時に現われたと...

子どもにこのまま会えなかったら、気が狂うかと思ったと...

そして、私にこう言われたのです

「〇〇さん、エホバは、絵を描くときも、子どもがいなくなった時も、私を助けてくれなかった。〇〇さんと出会う前も、本当に辛い事があった時に助けてくれたのは全部別のものだった。」

...結局、自分が必要とした時に、「エホバは居なかった」と言われるのです

そして突然の発表

「エホバじゃない方が良い事をしてくれるから、エホバじゃない方へ行く」

...そうなんです、Rさんはここでいきなり、研究をやめられる宣言をされたのです!



...本当にショックでした



ですが、研究を続けるように説得する事を、その時の私はしようとは思いませんでした



記事の前の方で書きましたが、最終的にRさんはエホバの証人の枠内に収まるような人ではないかも、とどこかで感じていました

ただ、『神によってはすべての事が可能』という事があるので、何でもそうですが、Rさんの最終結果は自分には「絶対に」予測は出来ないとは思っていました

聖書の事を愛情深く知らせ続けて行けば、必ず最後はどうにかなると信じていましたが、どうにかなる前に研究そのものが終わってしまいました


「大事なのは、愛」


...この日、Rさんと最後の話を終えてからお宅を出、自分の車を停めていた離れた場所まで歩いて戻る道中、最初の頃言われたRさんのこの綺麗な言葉を思い出し、涙が出て来て止まりませんでした


...『しあわせを求めて“研究をやめた”元漫画家』の方のお話...

これで終わったら、普通の話です

続きがあります


研究をやめられ、Rさん宅にお訪ねしなくなってしばらく後、ある時気付くとRさん宅は取り壊されていて、どなたかの新築のお宅に建て替わっていました


それから5〜6年くらい経った頃です


ある日、私は家で新聞を読んでいました

子どもの作文や詩が数点、選ばれて載せられているページに目が行きました



(......)



(あ!)



(◎ちゃんか⁉︎)



(そうや!)



珍しい姓名、そして年齢...Rさんの娘さんの名前が!あの子で間違いありません!住んでいる市町村名も載っています

(今〇〇市にいるのか...!)

隣の、そのまた隣の市です、遠くはありません

作文が掲載されていましたので、急いで読み始めます

ご家族の事が書かれています!

お父さんの仕事の事も書いてあり、当時お聴きしていたままのようです

...お父さんが優しいと書いてあり、家族のために頑張って働いてくれていると感謝しています

家族でみんな仲良くしている様子が書かれていました!


(...良かった!嬉しいな!)


その日の奉仕の時に、組んでいた姉妹に新聞記事の事を話しました


...『しあわせを求めて“研究をやめた”元漫画家』の方のお話...

ここで終わっても普通の話です

続きがあります!


それから更に数年後のある日、私は「同じ」新聞をめくっていました

読者のお便りのページを読もうとした時です


(...あ!)


(Rさんやっ!!)


なんと今度はRさんの名前での投稿です!珍しい姓名、年齢、数年前に作文の載ってたRさんの子どもさんと同じ〇〇市との記載!

はやる気持ちで読み始めます!

内容は、Rさんが、子どもさんの成長を喜んでおられるというもの

私の知る、研究中走り回っていたあの小さな男の子が、その記事によると、もう中学生になっていました...!

Rさんのその記事には

「息子が自分を墓参りに行こうと誘ってくれた...先祖を思う気持ちを持つ子どもに成長してくれて、本当に嬉しい...」

そんな事が書かれていました

(御墓参りって事は、エホバの事はやってないんやな!)

(みんな仲良く暮らしてるんやな!)

ご家族がお元気そうであったことが本当に嬉しく、一気に懐かしく、楽しい思い出でいっぱいになりました

(ちなみにその新聞記事の件も、その日の奉仕の友である主婦の姉妹にお話ししてみましたが、「反応薄」で拍子抜けでした)


さて


...私たちが協会から“植え込まれる”認識通り、

エホバの証人以外の家族は一致せず、最終的に不幸になるというのなら...

研究をやめた人はエホバに見放され、将来的に祝福されないというのなら...

エホバを退けたRさんご一家がこのまま幸せに行く事は絶対にあり得ず、この後とてつもなく恐ろしい不幸に次々見舞われ、最後、牛にでも食われて生涯を終えなければ「つじつま」が合わないことになりますが、いかがざんしょ?





また書きます