マッハ文珠、マッハもんじゅではありません(笑)
マッハふみあけで、彼女はプロレスラーとして、リング上で初めて歌ったのではないか!
1997年生の木村花さん、その母の1977年生の木村響子さん、知らないだろうなぁ、、、
テラスハウスのフジTVが、めっちゃ売り出していたんですよ!
その経歴をまとめると
1972年、13歳で「スター誕生!」に出場し、決戦大会に山口百恵が出場していたことから「山口百恵に敗れた」として、1974年にプロレスに転身。
1975年3月10日発売された歌手デビューシングルの「花を咲かそう(作詞:千家和也、作曲:平尾昌晃)」は40万枚のヒットになった。マッハの活躍で全日本女子プロレスの隆盛が始まり、後のビューティ・ペアやクラッシュギャルズの雛形的な存在だったと言える。東映の「華麗なる追跡」で映画デビューも果たした。
1976年、「マッハ文朱」を名乗ってからわずか2年8ヵ月でプロレスラーを引退。映画「トラック野郎・天下御免」女ミキサー運転手として出演、菅原文太を投げ飛ばす。
マッハ文珠の女子プロレスラーとしての栄光は1975年からで、新春チャンピオンシリーズのパンフレット(右の写真)の表紙が、オスカル一条(知らないだろうなぁ、それにしてもオスカルって!)と
このころ女子のパンチパーマ(笑)が流行っていたのかも、、、
裏表紙が当時の女子レスラーで、何と言っていいのやら(笑)
このとき、全女の松永会長が「女子プロレスの世界に飛び込んできた。私の側からいえば金の卵である、そして、そのことが、彼女にとって幸運の鍵であることを私は祈念している。女子プロレスは面白くなるぞ!!」と書いている。
確かに「金の卵」かも、、、
次のシリーズのパンフレット(左の写真)、当時のトップレスラーだったジャンボ宮本と赤城マリ子の間にマッハ文珠。
プロレスラーでジャンボといえば元祖は宮本(笑)
ダンプ松本のようにヒールではなく、サンダー杉山のような存在。
赤城マリ子は、水商売の雰囲気があって、当時オジサンに人気がありましたね。
裏表紙がデビューシングルの宣伝で、平尾昌晃さんが「彼女は、そのマナーといい、歌に対する心構えといい、近ごろ歌手を志す若い人たちに欠けているものを身につけていたからである。十五才の女子プロレスラーの裏芸としてでなく、本命でいける素質を立派にこなしていたからである。」と絶賛していた。
当時のパンフレットのまん中のピンナップがマッハ文珠
水着姿で「女子プロレスのシンデレラ」から、歌の衣装で「歌う女子プロレスの明星」と華麗なる変身!
いやぁ、まいったなぁ、、、