「火星人、ナウ・バック・ホーム」。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

 martian




NASA の火星探査車 “スピリット” Nasa's Mars Exploration Rover “Spirit” から送られてきた画像に、「人影らしいもの」 が映っていたらしい。

   Mysterious Martian Figure Found on Mars?
   ミステリアスな火星人の姿らしきものが火星で見つかった?

なんて謳い文句がネットに踊ります。
〓もちろん、にれのやは 「火星人」 については考えないのであって、

   火星人というコトバについて

考えます。

   Mars [ 'mɑ:(r)z ] [ ' マァズ ]  (1) 軍神マルス。(2) 火星。
   Martian [ 'mɑ:(r)ʃən ] [ ' マァシャン ]

           [ 名詞 ] 火星人。
           [ 形容詞 ] (1) 火星の。(2) 軍神マルスの。



  venus&mars

  マルスとウェヌス (ビーナス)


〓日本人は、「マース」「マーシャン」 で片付けているので、たぶん、気づかないと思うんですが、

   Mars ―― Martian

という綴りを突きつけられてみると、 「ナンかヘンね」 ということになります。実は、これ、英語だけではないのです。「火星」 と 「火星人」 という単語のペアを見てください。



   Mars [ ' マァズ ] ―― Martian [ ' マァシャン ] 英語
   Mars [ ' マふス ] ―― martien [ マふスィ ' アん ] フランス語
   Marte [ ' マールテ ] ―― Marciano [ マル ' チャーノ ] イタリア語
   Marte [ ' マルテ ] ―― Marciano [ マルすぃ ' アーノ ] スペイン語
   Marte [ ' マルティ ] ―― Marciano [ マルスィ ' アーヌ ] ポルトガル語
   ――――――――――――――――――――
   Mars [ ' マルス ] ―― Marsianer [ マルズィ ' アーナァ ] ドイツ語
   Mars [ ' マルス ] ―― Marsman [ ' マルスマン ] オランダ語
   Mars [ ' マルシュ ] ―― Marslakó [ ' マルシュらコー ] ハンガリー語
   Марс Mars [ ' マルス ] ―― Марсиане Marsianje [ マルシ ' アーニェ ] ロシア語


〓ゲルマン語やスラヴ語、あるいは、ハンガリー語などでは、Mars- の部分に変わりはなく、そのまま、接尾辞を付けています。
〓「火星」 と 「火星人」 で、“語幹” が変わってしまうのが、ラテン語に由来する 「ロマンス諸語」 と、フランス語からたくさんの単語を借用した 「英語」 だけだということがわかります。
〓「屈折語は “形態素” が変化してしまう」 ということのチョイとした実例が、こういうものです。

〓「ロマンス諸語」 のほうも、よく見ると2派に分かれているのがわかります。つまり、イタリア語=スペイン語=ポルトガル語連盟と、フランス語=英語連盟ですね。
〓いったい、どうしたら、こんなふうに 「語幹末の音」 が変わってしまうんでしょう。

   Mars- / Mart-   フランス語、英語

   Mart- / Marc-  イタリア語、スペイン語、ポルトガル語


〓さあて。

〓起源になったラテン語を見てみましょう。

   Mars [ ' マールス ] (1) 軍神マルス。(2) 火星。

〓英語と同じですね。
〓ラテン語には、形容詞をつくる接尾辞がいくつかありました。ローマ時代には、こんな形容詞がありました。

   Martialis [ マールティ ' アーりス ] マルスの、戦争の
   Martius [ ' マールティウス ] 3月

〓 Martius のほうは、

   Martius mensis [ ' マールティウス ' メーンスィス ]  「マルスの月」 → 「3月」

というところから、「形容詞の名詞的用法」 で Martius が 「3月」 という意味になりました。

   Martius [ ' マールティウス ] 「3月」。主格
      ↓
   Martiu(m) [ ' マールティウ(ム) ] 対格
      ↓
   *Martio [ ' マルツィオ ] 俗ラテン語
      ↓
   March [ ' マルチュ ] 古フランス語 → mars [ ' マルス ] 現代フランス語
      ↓
   March [ ' マァチ ] 英語


〓いっぽう、 Martialis 「マールティアーリス」 のほうは、

   martial [ ' マァシャる ] 英語
   martial [ マルスィ ' アる ] フランス語
          「軍の、軍隊の」

という形容詞になっています。これは、よく聞く単語ですね。

   martial arts 「マーシャル・アーツ、武術、格闘技」
   martial law 「戒厳令」
   court-martial 「軍法会議」

court-martial は見てわかるとおり、名詞と形容詞がひっくり返っています。古くは martial court と言っていたものが、ひっくり返ったんですね。なので、ハイフンを付けるのがよろしい。厳めしい法律用語を装うためにひっくり返ったのかしら。

〓こうして、Mars に由来する形容詞が、2つ 「予約済み」 になっていました。すると、「火星の」 という形容詞が別に必要になります。そこで -ianus という固有名詞から形容詞をつくる接尾辞が動員され、古典ラテン語になかった形容詞がつくられました。

   Martianus [ マルティ ' アーヌス ] 火星の (マルスの)

〓これがフランス語で martien となり、英語で Martian となったんですね。

   Martianus [ マルティ ' アーヌス ] 主格
      ↓
   Martianu(m) [ マルティ ' アーヌ(ム) ] 対格
      ↓
   *Martiano [ マルツィ ' アーノ ] 俗ラテン語
      ↓
      ↓→→ Marciano [ マル ' チャーノ ] イタリア語
      ↓→→ Marciano [ マルすぃ ' アーノ ] スペイン語
      ↓→→ Marciano [ マルスィ ' アーヌ ] ポルトガル語
      ↓
   *Marcien [ マルツィ ' アん ] 古フランス語
      ↓
      ↓→→ martien [ マルスィ ' アん ] 現代フランス語
      ↓       ※ t はラテン語を参考に再建された綴り
   Marcien 中期英語
      ↓
   Martian [ ' マァシャン ] 現代英語
        ※ t はラテン語を参考に再建された綴り


〓これで、フランス語、英語の -tien, -tian が 「シャン」 になる理由がわかりましたね。「ツィ」 が 「スィ」 になり、「シ」 になったんです。つまり、Mars -s とは関係がない

〓ここまで読んできて、ずっと、ひっかかっていたことがありませんか。 Mars から形容詞をつくるときに Mart- になる理由をひとつも説明してませんね。
〓めんどくさいですけど、 Mars という名詞の変化を見てください。


   ――――――――――――――――――――
   Mars [ ' マールス ] 主格。「マルスは」
   Martem [ ' マールテム ] 対格。「マルスを」
   Martis [ ' マールティス ] 属格。「マルスの」
   Martī [ ' マールティー ] 与格。「マルスに」
   Marte [ ' マールテ ] 奪格。「マルスから」

   ――――――――――――――――――――



〓はい~。斜格 (主格以外の格) で Mart- という語幹が現れているのがわかります。そうなんです。「マールス」 の意味を本来になっている部分は Mart- なのです。なぜ、主格が Mars になるかというと、

   Marts ← Mart- (語幹)-s (主格語尾)

としてしまうとローマ人は発音ができなかったからです。ラテン語には [ ts ] という子音がありませんでした。なので、主格だけは、Marts から t を落として Mars としているのですね。
〓日本語脳は、主格と斜格で語幹が変わる、という事態を想定していないので、「マルス」 と言うときに、まさか、「ル」 と 「ス」 のあいだに t があるなんて予想だにしていないわけです。
〓「マルス」 の名前は、本来、Mart- であるわけですから、形容詞をつくるときも Mart- に接尾辞をつけることになります。それで、

   Marts 名詞主格 「マルス、火星」
   Martius 形容詞 「3月の」
   Martialis 形容詞 「軍隊の」
   Martianus 形容詞 「火星の」



ということになるのです。
〓毎度、説明しますが、ロマンス諸語は、ラテン語の対格が主格になると説明しました。


   Mars [ ' マールス ] 主格
      ↓
   Marte(m) [ ' マールテ(ム) ] 対格
      ↓
      ↓→→ Marte イタリア語、スペイン語、ポルトガル語
      ↓
   *Mart [ ' マール ] 存在しないフランス語形


〓ラテン語に ars [ ' アルス ] 「技術、才能、美術」 という単語があります。語幹は art- です。この単語は、法則通り、

   arte イタリア語、スペイン語、ポルトガル語
   art フランス語、英語

となっています。ですから、「火星」 も本来は、

   *Mart [ ' マール ] フランス語
   *Mart [ ' マァト ] 英語

となっていたハズなんです。
〓しかし、この単語は消滅してしまいました。 marc, mare, marre など [ ' マール ] と発音するフランス語の単語はたくさんあります。そうした衝突から嫌われたのかもしれません。
〓そこで、あらたにラテン語から Mars を借用したんですね。自分の祖先の言語から、古い語彙を再借用したことになります。フランス語はこういう例がひじょうに多いですね。なので、フランス語と英語は揃って、

   Mars

というラテン語の主格を採用しました。それで、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語と語形がちがっているんですね。


〓ところで、 Mars には、まだ、他に形容詞語尾のついた語形があります。 -inus という接尾辞をつけたものです。

   Martinus [ マル ' ティーヌス ] 「軍神マルスの」

〓これはキリスト教時代のローマ帝国でつくられた 「男子名」 ですね。女性形だと Martina 「マルティーナ」 となります。

   Martin [ ' マァティン、' マルティン ] 英語、ドイツ語
   Martin [ マふ ' タん ] フランス語
   Martín [ マル ' ティン ] スペイン語
   Martino [ マル ' ティーノ ] イタリア語

〓日本語に訳すと、おおかた 「武」 あたりでしょうか。