UFOのゆらぎの原理 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

土曜日を利用して伊豆の下田の黒船ホテルに行ってきました。黒船ホテルは由緒ある温泉で古風な温泉です。間違いなくよかったと思います。「お吉物語」を夜の8時からムービーで上映していました。

下田といえば「お吉さん」です。「お吉物語」という歌もある通り、お吉さんに対して入れ込んでいます。お吉さんは写真が残っているけれども非常に美人です。「お酒だよ、お酒だよ!」で有名なお吉さんです。

黒船ホテルの温泉に入っているときに、天上に電気がついていたのです。浴槽を見たときに波がジャブジャブ立って、何気なく見ていたら、波に映っている光がパッと消えたり、4つになったり動くのです。

家の風呂ではなかなかわかりません。「あれ、どこかで見たことのある風景だな。そうだ、これはUFOだ!」と僕は気が付いたのです。UFOはそうです。一つのUFOが出てきて2つになります。水面下に映っている電灯と「これ、同じだよ」と思ったのです。

「ああ、5つになった」、「1つになった」と見ていて、「ああ、そうか、UFOだ! UFOの原理だな」ということに気が付いたのです。これは「ゆらぎ」というのです。水のゆらぎに消えると映った電灯は1個になったり、2個になったりするのです。

空気にもゆらぎがあるのです。空気も止まっていません。ゆらいでいるのです。空気も目に見えないけれども動いているのです。空気を水とすると、映っているのがUFOです。UFOの本体はそこにあるわけではないのです。そこにはないのです。だから捕まえられないのです。空気のゆらぎにUFOは映っているのです。UFOの本体はそこにいないのです。どこかにいるのです。

どこかにUFOはいるのですが、それはわからないのです。UFOの影が映っているのです。1つになっり、2つになり、3つになり、パッと消えるのです。UFOの原理はこのようなことだと思います。空気の歪みによって映し出されている元になるものは1つです。

元になるUFOはどこにいるのでしょう。これは多分、五次元です。五次元の光が出ているのです。その光が空気のゆらぎに触れて、影のようなものが映っているのです。すると、UFOの不思議な問題の大部分がここで解決できるのです。

光りもそうです。光るUFOは、上空で光っているのではないのです。五次元から光が出ていて、実体はそこには何もないのです。影が映っているだけです。大部分のUFOの問題は、この「ゆらぎの理論」で解決できてしまうのです。このように何気ない自然界をボーと見ていても、人間は変なことに気が付いてくるのです。「あれ?」と思う気遣いが大事です。不思議な発明にもつながってくるのです。

人間は「あれ、変だな。何だろうこれは?」と思うと問題点は解決されていくのです。「変だな」と思わない人は何も気が付かないのです。

話は飛びますが、僕の12月3日に書いた「横尾忠則の謎」は傑作だと思います。誰も気が付かないのです。芸術論としては最高です。何故、気が付いてくれないのかな。横尾忠則の芸術は、僕のブログを読めばみなわかってしまうのです。

気が付く人は芸術論でも、学論でも気が付くのです。なんだってみなわかってしまうのです。「横尾忠則の世界が五次元を現した芸術だ」ということに誰が気が付いたのでしょう。そのような論評すらできません。僕の論評は、最高の論評だと思います。

皆さん、もう一度読み返してみてください。これを読めば、横尾忠則の謎が解けてしまうのです。横尾忠則は決して語りません。それが解けてしまうのです。これは、すごいことなのです。

横尾忠則の芸術を見る目がすべて変わってしまいます。あれは、イラストではなくて、芸術です。何が芸術なのでしょうか。気が付いてもらいたいと思います。黙って見ていたのでは「これは、何が書いてあるのだ?」と思うでしょうが、このようなことが描いてあるのです。

それは横尾忠則が見ている世界観です。横尾忠則には、あのように見えるのです。三島由紀夫もいる、棺桶もある、裸の女もいる、同時にみなクシャクシャといるのです。実際はそんなことはありません。クシャクシャという世界は現実にはありません。それは横尾忠則の世界だけにあるのです。それは五次元の世界です。これは自慢ではないけれども、すごい芸術論だと思います。

僕は昔からよくそのようなことは気が付くのです。オスカーワイルドの話もそうです。オスカーワイルドは「人間には感性などないのだ。感性は芸術家がつくるのだ」と言ったのです。例えば、夕日に向かって立っていても何も生まれはしません。ある芸術家が夕日に向かって立っていたら、「この夕日は美しい。この美しい輝きはどこから来るのだろう」と感動したことを述べた文章があったとします。或は絵があったとします。すると人間は思い出して「ああ、このようにあの芸術家が言っていたな」と思って感動するのです。

「伊豆の踊子」もそうです。伊豆など旅しても山と川があるだけです。ところが、川端康成の「伊豆の踊子」という小説を読んで、それに自分が思い入れをして「伊豆の踊子の風景みたいだな。どこからか踊り子が現れないかな」と思い、伊豆の旅館に泊まるならば、それはまさに川端康成の世界です。何もないところで、川端康成が感じて書いた小説を読むことにより、追体験するのが芸術の目的です。

本を何も読まない人は、芸術に触れていないので何の感動もないのです。Aさん、Bさん、Cさんがいて、映画で見て、本でも読んで「伊豆はこのようなところか」と思います。それで、伊豆の旅に行くと「伊豆の踊子みたいだな」と思うのです。本も読まない何もしない人は感動がないのです。

芸術家の感動を追体験することがオスカーワイルドの言う文学論です。僕も読んで先生と議論したことがあります。「君は面白いことを言うな。すぐれているな」と高校時代に言われたことがあります。

何でもない温泉のゆらぎを見ていて、UFOの原理に結びつき、そして新たな感動がうかんできて、多分、このゆらぎの原理は間違っていません。我々が見るUFOは、存在しないのです。他の次元にあるのです。そこが光っているのです。その光が地球上の物にぶつかって、ゆらぎを生じているのではないかなと思いました。


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