勾留理由開示公判の担当裁判官にみる司法改革の成果(私的印象) | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

ブログの説明を入力します。

 私たちは、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある」場合であって、その上で、定まった住所がないか、証拠を隠滅しそうか、逃亡しそうかのどれかに当たる場合でなければ、勾留されないことになっています(刑事訴訟法60条)。

 

 その上で、「何人も正当な理由がなければ拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」と憲法に規定されており(憲法34条)、「勾留の理由の開示は、公開の法廷でこれをしなければならない。」(刑訴法83条1項)「法廷においては、裁判長は、勾留の理由を告げなければならない。」(刑訴法84条1項)と、きっぱりと規定されています。

 

 ・・・ということで、昨日も、勾留理由開示公判で弁護活動を行いました。弁護士1年目から、いわゆる公安事件は担当しているので、勾留理由開示公判だけでも、どれくらいやっているのだろう?・・・。この1年でも、3回は担当しています。

 

 以下は、私の印象です。勾留理由を開示するということは、本来、文字通り、勾留された理由を裁判官が説明するということです。そして、およそ説明といえば、納得できるような理由を示してくれることだと理解されます。そりゃそうだ。

 

 

 ところで、実際の勾留理由開示公判ではどうなんでしょう?実際は、納得されるような理由が裁判官から示されることは、ほぼありません。そして、それは、よりなくなっていると思います。

 ある程度のキャリアを持った年長者の裁判官は、それでも、弁護人の追及に対し意地になって反論をしてきたり、説明できないことの説明をしようとしてきたりして、弁護人も退廷命令ぎりぎりだとしても、なんというか、それなりの「やりとり」?「会話」?「議論」?が、それなりの「誇り」と「意地」で闘わされていたような気がします。かつては、です。

 勾留理由開示公判が終わった直後、納得しない私に近づいてきて、コンコンと勾留理由開示制度の裁判所としての解釈を説明しにきた(先輩)裁判官もいました(その裁判官のことは、私はそれなりに尊敬していました。)。

 

 しかし、そういう勾留理由開示は、どんどん減っている印象です。もはや裁判官としての職業的な意地も誇りも感じさせず、ただただ、その場をやり過ごすだけで、「説明」するつもりが全くない勾留理由開示担当の裁判官に遭遇することが多くなってきたと思います。

 

 若い裁判官が、裁判所というか国家機関として、暴力行使の権限を与えられたことを十分すぎるほど利用して被疑者、傍聴人、そして弁護人を見下し、あたかも、躊躇なく退廷命令を下すことが「裁判官としての毅然な態度」テストとして組織的な査定評価がよくなるかのように、無慈悲に勾留理由開示公判を無意味化しています。

 

 結局、「説明」を試みずに、ただただ、その説明がないことに「これが裁判かよ」と心底不満を口にする傍聴人を退廷させるだけの法廷は、純粋に「暴力の場」となるだけです。

 

 ・・・もちろん、裁判所は国家機関としては暴力発動のお墨付きを与える機関。しかし、それでも、これまでは、その暴力の発動を担保するための「理由」や「説明」をすることが担われていたはずですし、その自覚は裁判官にも一定あったような気がします。

 

 しかし、学費の高い大学、学費の高いロースクール、給与のなくなった司法研修所という「司法改革」により、すっかり、金持ち環境にある人しか進みにくくなった時代の若きエリート裁判官たちは、私の目からは「説明」よりも「(暴力)権限行使」の方向に進んでいるように見えます。何かに怯えつつも、強権的に。

 

 裁判所が、「最後の理性の場」ではなく、「純粋な問答無用の暴力機関」となっては、世も末でしょう。そして、実際、この新自由主義の世界は世も末なのであり、それが司法改革の成果として勾留理由開示という切羽詰まった場面に安羅割れ始めているのではないか、と思います。

 

 多くの弁護士のみなさんは、どう感じているのでしょう?聞いてみたいです。