きいちゃんの浴衣、山元加津子さんの語るお話
山元加津子さんは、現役の特別支援学校(養護学校)の先生ですが、子供たちとのふれあいを本当に素敵な語り手として伝える力のある方です。
その原点の一つにあるのがこの「きいちゃんの浴衣」ですが、教科書にも取り上げられたりしている感動の実話です。
おそらく、ご存知の方も多いと思います。
すこし、お付き合いください。
きいちゃんは教室の中でいつも寂しそうでした。
大抵のとき、うつむいて一人ぼっちで座っていました。
だからね、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声で飛び込んできてくれたときは本当にびっくりしたのです。
こんなに嬉しそうなきいちゃんを私は初めて見たのですもの。
「どうしたの?」
そう尋ねると、
きいちゃんは
「お姉さんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」
ってニコニコしながら教えてくれました。
ああ、よかったって私も凄く嬉しかったのです。
それなのにね、それから一週間くらい経ったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、一人で泣いているきいちゃんをみつけたのです。
涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。
「お母さんが私に、結婚式に出ないでほしいって言ったの。
お母さんは私のことが恥ずかしいのよ。
お姉さんのことばかり考えているのよ。
私なんて生まなければよかったのに」
きいちゃんはやっとのことでそう言うと、また激しく泣いていたのです。
でもね、きいちゃんのお母さんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。
きいちゃんは小さいときに高い熱が出て、それがもとで手や足が思うように動かなくなって車椅子に乗っています。
そして訓練を受けるためにおうちを遠く離れて、この学校へ来ていたのでした。
お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつものりついで4時間もかけて、きいちゃんに会いにこられていたのです。
毎日のお仕事がどんなに大変でも、きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。
そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことは何でもしたいのだと話しておられたのです。
だからお母さんはけっしてきいちゃんが言うように、お姉さんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。
ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、お姉さんが肩身の狭い思いをするのではないか、手や足が思うように動かない子供が生まれるのではないかと周りの人に思われるのではないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。
きいちゃんはとても悲しそうだったけれど、
「生まなければよかったのに・・」
ときいちゃんに言われたお母さんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。
けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもお母さんの悲しい気持ちにも、私は何をすることも出来ませんでした。
ただ、きいちゃんに「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントを作ろうよ」と言いました。
石川県の金沢の山の方に和紙を作っている二俣というところがあります。
そこで、布を染める方法を習ってきました。
「さらし」という真っ白な布を買ってきて、きいちゃんと一緒にそれを夕日の色に染めました。
そしてその布で、浴衣を縫ってプレゼントすることにしたのです。
でも、本当を言うとね、私はきいちゃんに浴衣を縫うことはとても難しいことだろうと思っていたのです。
きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなか持っていけないので、ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人と一緒にすることが多かったのです。
ミシンもあるし、一緒に針を持って縫ってもいいのだからと私は考えていました。
でも、きいちゃんは「絶対に一人で縫う」と言い張りました。
間違って指を針で刺して、練習用の布が血で真っ赤になっても、
「お姉ちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」
って一人で縫うことを止めようとはしませんでした。
私、びっくりしたのだけど、きいちゃんは縫うのがドンドン、ドンドン上手になっていきました。
学校の休み時間も、学園へ帰ってからもきいちゃんはずっと浴衣を縫っていました。
体を壊してしまうのではないかと思うくらい一所懸命、きいちゃんは浴衣を縫い続けました。
そしてとうとう結婚式の10日前に浴衣は出来上がったのです。
宅急便でお姉さんのところへ浴衣を送ってから二日ほど経っていたころだったと思います。
きいちゃんのお姉さんから私のところに電話がかかってきたのです。
驚いたことに、きいちゃんのお姉さんは、きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。
けれどきいちゃんのお母さんの気持ちを考えると、どうしたらいいのかわかりませんでした。
お母さんに電話をしたら、お母さんは
「あの子の姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」
と言って下さったので結婚式に出ることにしました。
結婚式のお姉さんはとても綺麗でした。
そして幸せそうでした。
それを見て、とても嬉しかったけれど、でも気になることがありました。
結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんを見て、ないかヒソヒソ話しているのです。
(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)
とそんなことを丁度考えていたときでした。
お色直しをして扉から出てきたお姉さんは、きいちゃんが縫ったあの浴衣をきていたのです。
浴衣はお姉さんにとてもよく似合っていました。
きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。
お姉さんはお相手の方とマイクの前に立たれて、私達を前に呼んでくださいました。
そしてこんなふうに話し出されました。
「皆さんこの浴衣を見てください。
この浴衣は私の妹が縫ってくれたのです。
妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。
そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。
家で父や母と暮らしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。
それなのに、こんな立派な浴衣を縫ってくれたのです。
高校生で浴衣を縫うことの出来る人がどれだけいるでしょうか?
妹は私の誇りです」
式場中、大きな拍手で一杯になりました。
そのときの恥かしそうだけれど、誇らしげで嬉しそうなきいちゃんの顔を私はいまもハッキリと覚えています。
私はそのとき、とても感激しました。
お姉さんはなんて素晴らしい人なのでしょう。
そして、お姉さんの気持ちを動かした、きいちゃんの頑張りはなんて素敵なのでしょう。
きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。
そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。
もし、名前を隠したり、隠れたりして生きていったら、それからのきいちゃんの生活はどんなに寂しいものになったでしょうか?
お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。
でも私はなんにもしていません。
わたしこそ、こんなに素敵な場面に出会わせてもらえてなんて幸せなのだろうと、本当にありがたく思っています。
きいちゃんはお母さんに
「生んでくれてありがとう」
とお話したそうです。
きいちゃんはとても明るい女の子になりました。
これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。
あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいと言いました。
そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。
(ここまで)
実際の「きいちゃん」は、今も元気に和裁を仕事にしておられると、山元さんが今年話しておられましたことを申し添えておきます。
ではまた。
その原点の一つにあるのがこの「きいちゃんの浴衣」ですが、教科書にも取り上げられたりしている感動の実話です。
おそらく、ご存知の方も多いと思います。
すこし、お付き合いください。
きいちゃんは教室の中でいつも寂しそうでした。
大抵のとき、うつむいて一人ぼっちで座っていました。
だからね、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声で飛び込んできてくれたときは本当にびっくりしたのです。
こんなに嬉しそうなきいちゃんを私は初めて見たのですもの。
「どうしたの?」
そう尋ねると、
きいちゃんは
「お姉さんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」
ってニコニコしながら教えてくれました。
ああ、よかったって私も凄く嬉しかったのです。
それなのにね、それから一週間くらい経ったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、一人で泣いているきいちゃんをみつけたのです。
涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。
「お母さんが私に、結婚式に出ないでほしいって言ったの。
お母さんは私のことが恥ずかしいのよ。
お姉さんのことばかり考えているのよ。
私なんて生まなければよかったのに」
きいちゃんはやっとのことでそう言うと、また激しく泣いていたのです。
でもね、きいちゃんのお母さんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。
きいちゃんは小さいときに高い熱が出て、それがもとで手や足が思うように動かなくなって車椅子に乗っています。
そして訓練を受けるためにおうちを遠く離れて、この学校へ来ていたのでした。
お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつものりついで4時間もかけて、きいちゃんに会いにこられていたのです。
毎日のお仕事がどんなに大変でも、きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。
そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことは何でもしたいのだと話しておられたのです。
だからお母さんはけっしてきいちゃんが言うように、お姉さんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。
ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、お姉さんが肩身の狭い思いをするのではないか、手や足が思うように動かない子供が生まれるのではないかと周りの人に思われるのではないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。
きいちゃんはとても悲しそうだったけれど、
「生まなければよかったのに・・」
ときいちゃんに言われたお母さんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。
けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもお母さんの悲しい気持ちにも、私は何をすることも出来ませんでした。
ただ、きいちゃんに「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントを作ろうよ」と言いました。
石川県の金沢の山の方に和紙を作っている二俣というところがあります。
そこで、布を染める方法を習ってきました。
「さらし」という真っ白な布を買ってきて、きいちゃんと一緒にそれを夕日の色に染めました。
そしてその布で、浴衣を縫ってプレゼントすることにしたのです。
でも、本当を言うとね、私はきいちゃんに浴衣を縫うことはとても難しいことだろうと思っていたのです。
きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなか持っていけないので、ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人と一緒にすることが多かったのです。
ミシンもあるし、一緒に針を持って縫ってもいいのだからと私は考えていました。
でも、きいちゃんは「絶対に一人で縫う」と言い張りました。
間違って指を針で刺して、練習用の布が血で真っ赤になっても、
「お姉ちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」
って一人で縫うことを止めようとはしませんでした。
私、びっくりしたのだけど、きいちゃんは縫うのがドンドン、ドンドン上手になっていきました。
学校の休み時間も、学園へ帰ってからもきいちゃんはずっと浴衣を縫っていました。
体を壊してしまうのではないかと思うくらい一所懸命、きいちゃんは浴衣を縫い続けました。
そしてとうとう結婚式の10日前に浴衣は出来上がったのです。
宅急便でお姉さんのところへ浴衣を送ってから二日ほど経っていたころだったと思います。
きいちゃんのお姉さんから私のところに電話がかかってきたのです。
驚いたことに、きいちゃんのお姉さんは、きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。
けれどきいちゃんのお母さんの気持ちを考えると、どうしたらいいのかわかりませんでした。
お母さんに電話をしたら、お母さんは
「あの子の姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」
と言って下さったので結婚式に出ることにしました。
結婚式のお姉さんはとても綺麗でした。
そして幸せそうでした。
それを見て、とても嬉しかったけれど、でも気になることがありました。
結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんを見て、ないかヒソヒソ話しているのです。
(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)
とそんなことを丁度考えていたときでした。
お色直しをして扉から出てきたお姉さんは、きいちゃんが縫ったあの浴衣をきていたのです。
浴衣はお姉さんにとてもよく似合っていました。
きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。
お姉さんはお相手の方とマイクの前に立たれて、私達を前に呼んでくださいました。
そしてこんなふうに話し出されました。
「皆さんこの浴衣を見てください。
この浴衣は私の妹が縫ってくれたのです。
妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。
そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。
家で父や母と暮らしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。
それなのに、こんな立派な浴衣を縫ってくれたのです。
高校生で浴衣を縫うことの出来る人がどれだけいるでしょうか?
妹は私の誇りです」
式場中、大きな拍手で一杯になりました。
そのときの恥かしそうだけれど、誇らしげで嬉しそうなきいちゃんの顔を私はいまもハッキリと覚えています。
私はそのとき、とても感激しました。
お姉さんはなんて素晴らしい人なのでしょう。
そして、お姉さんの気持ちを動かした、きいちゃんの頑張りはなんて素敵なのでしょう。
きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。
そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。
もし、名前を隠したり、隠れたりして生きていったら、それからのきいちゃんの生活はどんなに寂しいものになったでしょうか?
お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。
でも私はなんにもしていません。
わたしこそ、こんなに素敵な場面に出会わせてもらえてなんて幸せなのだろうと、本当にありがたく思っています。
きいちゃんはお母さんに
「生んでくれてありがとう」
とお話したそうです。
きいちゃんはとても明るい女の子になりました。
これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。
あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいと言いました。
そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。
(ここまで)
実際の「きいちゃん」は、今も元気に和裁を仕事にしておられると、山元さんが今年話しておられましたことを申し添えておきます。
ではまた。