北海道雨竜郡沼田村・石狩沼田幌新ヒグマ8人殺傷事件(大正12年8月) | 雑感

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 石狩沼田幌新事件

石狩沼田幌新事件

(石狩沼田幌新事件でもこれに似た展開になってしまったという)

 

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1923年(大正12年)8月21日深夜~8月24日にかけて、北海道雨竜郡沼田村幌新地区で発生した、記録されたものとしては日本史上2番目に大きな被害を出した獣害事件。ヒグマが開拓民の一家や駆除に出向いた猟師・討伐隊員を襲い、5人が死亡、3人の重傷者を出した。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E6%B2%BC%E7%94%B0%E5%B9%8C%E6%96%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

ある種のモードに入ったヒグマの恐ろしさを伝えるものとして、よく勧められるのが、三毛別のウィキと、福岡大ワンゲル、札幌丘珠、そしてこの石狩沼田幌新のウィキだと思う。

 

自分的には、怖さでいえば、三毛別とこの石狩沼田幌新がツートップ。

 

「8月21日、雨竜郡沼田村の恵比島地区で太子講の祭りが開催された夜・・・日ごろ娯楽も少ない開拓地ゆえ、余興で上演される浪花節や人情芝居を目当てに近隣の村落から多くの人々が詰めかけていた・・・」

 

といったことがウィキにはあり、その字面からして、夏祭りの夜に起きた無差別銃乱射事件か昭和の未解決事件を連想させる薄ら怖さがあった。

 

深夜の山道で襲われ生きながらにして土饅頭(どまんじゅう)にされた18歳の青年、

獲物をすでに手にしていながらなおも飽き足らずに民家を襲撃したクマの執拗さ、

山中へと咥え去られていく女性の、闇に消え行くか細い念仏の声、

義憤に駆られ仇を討つべく制止を振り切って単身山に入るも、数発の銃声を残して消息を絶ち、翌日、頭部以外を全て食い尽くされた姿で発見された猟師、

討伐隊の最後尾にいて一撃のもとに撲殺された隊員、

クマの胃から出てきた、大ザル一杯分にも及ぶ人骨と未消化の人の指など、その内容がいちいちホラーじみており、三毛別事件にも通じるオカルト的な怖さがあるかと。

 

加害クマは体長2m、体重200kgの雄で、その皮は 沼田町ふるさと資料館分館(炭鉱資料館)で展示されている。

(下の画像がそれ。分館ではこのクマの説明として「体重340キログラムもあった」としており、『新編沼田町史』の記述と食い違っている。)

 

石狩沼田幌新事件

 

クマ用語解説「土饅頭(どまんじゅう)」・・・絵は野田サトル先生の『ゴールデンカムイ』より。

 

石狩沼田幌新事件

 

下の画像、赤ピンの先が、事件現場のおおよその位置。三毛別事件の六線沢からそう遠くない。六線沢の明景家から石狩沼田幌新事件の現場まで直線で約30km。事件のあった集落は、現在、幌新ダム貯水池の底に沈んでいるという。

 

石狩沼田幌新事件

 

現場一帯を拡大してみる。当時の現場集落は幌新ダム貯水池(水色のあたり)の底に沈んでいるとはいえ、この画像ではダムは干上がっているように見える。

 

石狩沼田幌新事件

 

別の画像で見ると、こういった感じで水が溜められていた。

 

石狩沼田幌新事件

 

下の画像は、事件の約25年後、1948年(昭和23年)10月の撮影。のちに幌新ダム貯水池ができた場所には民家が点在していたことが見て取れる。

 

石狩沼田幌新事件

 

惨劇のあった持地乙松家。ヒグマはすでに馬の死骸や人など獲物を手にしていたにもかかわらず、なおも飽き足らずにこの家に侵入し、女性を咥え去った。

 

石狩沼田幌新事件

 

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開拓時代のヒグマによる殺傷事件でもう一つ有名なのが、

 

「札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E4%B8%98%E7%8F%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

事件名からは丘珠空港でテロかハイジャックでも起きたのかという感じながら、実際は明治初期にヒグマにより3人が殺害され2人が重傷を負ったという獣害事件。(1878年<明治11年>1月11日~1月18日にかけて発生)

 

蛭子勝太郎という猟師が、郊外の円山山中で冬ごもり中のヒグマを発見、これに撃ち掛けたところ、逆襲されて死亡した。これが事の始まりだった。

 

冬ごもりから目を覚まされたヒグマは、1月中旬の北海道の大寒の中、飢えてそこらじゅうを走り回り(穴持たず状態)、とある開拓民の家を襲撃、2人を殺害(食害)、2人に重傷を負わせた。

 

クマは撃ち取られ、その剥製は、北大植物園の博物館に入っている。(非公開)

 

木村盛武氏の著書によると、老練な猟師はクマが冬ごもりする穴をいくつか知っていて、冬場にはその穴に出向いてクマを狩るのだという。

 

ちなみに木村氏によると、クマは穴掘りの名人で、いくつも穴を掘ってその中から気に入った穴に入ることがあるらしく、また、前年までに掘った穴の位置も覚えているという。にもかかわらず、いわゆる冬場の「穴持たず」になってしまうのは、猟師による執拗な追跡を受け冬ごもりのタイミングを逸した場合が多いとのことで---穴持たずのクマに「穴持たずになった理由」を訊ねることはできないのでこのあたりは木村氏の見聞から来た推測ではないかと思うが---もし木村氏の推測が当たっているとすると、三毛別の袈裟懸けグマなども、冬ごもり用の穴を掘る~穴に入ろうとするタイミングで猟師に発見・追跡され、仕方なくあの時期に腹を空かせてブラブラと山を下り池田富蔵家の軒下のトウモロコシに手を出した可能性もあるのではないかと。

少なくとも、あのクマについてよく言われる、

 

「巨大すぎて自分に合う穴がなく、穴持たずになった」

 

というのは、人間側のイメージによる誤った俗説ではないかと思う。(ちなみに昨今は特にイレギュラーな理由もなく冬ごもりしないクマもいるようで、エゾシカなどの餌が豊富で冬でも餌に困らないからではないか、との見方もネット上にはあった。)

 

話を戻して、この丘珠の人間を殺傷したクマも、穴で冬ごもり中を猟師に狙われ、その結果、無関係の開拓民2人が殺害され、2人が重傷を負った。

 

スズメバチの巣に石を投げ破壊したら、怒ったスズメバチが付近を歩行中の人々を刺しまくったというのと変わらず、この事件については、

 

「日本史上4番目に大きな被害を出した獣害」

 

としてヒグマの恐ろしさを語るたびに引き合いに出されてはいるものの、その内実は、「獣害」というよりはむしろ「人害(人災)」ではないかという気がした。