私は兵法書を読むようになってから、人様に手の内を明かさないようになりました。自分の想いや手段を相手に教えることほど、愚かで危ない行為はないと考えるようになったのです。


支援の現場でも、プライベートでも心は開いても、手の内を明かさないということは必要であり自分を守る手段でもあるのです。何でもかんでも隠さずに話す、自分の想いや予定までも無暗に公開すれば相手に利用されることもあるのです。


三国志の中で、臥龍先生や曹公が錦袋に布陣や計略を入れて家臣に渡すシーンが何度も登場します。それはどうしてか?。家臣の言動から布陣や計略が見破られることを防ぐためなのです。


家臣であっても疑ってかかるのは当然、更に忠臣であればあるほど計略を忠実に実行しようとするもの。家臣の所作から計略が漏れることを防ぐことは軍師としては当然の気配りなのです。


私は三国志と出会って兵法書を読むようになりました。先人の経験を現代に活かすことを考えているのです。些細な気配りであっても、予後を大きく左右することもあるのです。


だからこそ、いつでも慎重に言動するようになりました。優秀な軍師ほど、自分の手の内を明かさない。私は先人の教えを守っています。


時々、「ponさんは着地点、着地点と言うけど、ponさんの支援の着地点が見えないことがあるけど・・・。」と言われます。


『そりゃそうだよ、手の内見せないようにしてるもん。私自身が相談者に利用されたら困るし、先回りして都合の良い結果が出るように動かれたら困るからね。』(ponの心の声)。


臥龍先生は趙雲や姜維に錦袋を渡しました。手の内を隠して、作戦が成功するように気配りをしたのです。その作戦が成功したのも、お互いの信頼関係がきちんと成立していたからなのですけどね。


私は全ての人様を信じてはいません(笑)。私は猜疑心の強い小心者です。だからと言って臥龍先生や曹公のように自分の想いや予定を錦袋に入れて同僚や部下に渡すことなどできません。(今の時代ならばこっそりメールでしょうけど:笑)


私は手の内を見せないで物事を進めることは悪いことではないと思うのです。人様を信用するにも限度があるということなのです。昔も今も、騙す人も騙される人もいるのです。


上手に世渡りすると言うことは、自分自身が危険な立場になることを避ける必要があるのです。自分にとって危険なのかチャンスなのかをきちんと判断しなくてはいけないのです。


大抵の場合危険とチャンスは別物のように捉えられるでしょう。相反するものであっても、そうでないとも言えるのです。このどちらとも手の内を見せなければ、防げることも自分の思い通りの結果に繋げることもできるのです。


自分にとっての危険やチャンスも、自分の手の内を明かさないことで問題解決できることが多いのです。


私は危険の裏面はチャンスだとは思っていません。だけど対応策は同じで充分だと考えています。つまり、自分の大事な決断は、自分にとっての人生を左右するかも知れないのです。


ならばしっかりと自分の大切な決断の取り扱いは慎重過ぎるくらいが丁度好いのです。


私は猜疑心の強い小心者だからこそ、危険を避けて通ることに一生懸命になれるのです。闇雲に人様を信じ、手の内を明かしていれば、自らを危険に陥らせることと同じことなのです。