ポーランドが驚くほど親日である理由 | 心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

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1989年、旧共産圏から民主化し大きく変化したポーランドは、いま急激に経済成長しています。


GDPは21年連続プラス成長で、ヨーロッパで唯一、ユーロ危機やリーマンショック時にも成長を維持しました。


そんなポーランドは、実は驚くほど親日的なのです。


剣道など日本の武道がブームで、ポーランドきっての名門ワルシャワ大学の人気学科は、日本学科。その倍率は30倍を超えるといいます。



1920年、第一次世界大戦後、ロシア革命の内戦中、多くのポーランド人はシベリアに抑留されていました。


ロシア脱出はシベリア鉄道の陸路は交戦中で使えず、たとえポーランドに戻っても家が無かったのです。


極寒の地で次々と命を落とす中、ポーランドは両親を失った子どもたちだけでも救おうと、救命嘆願書をアメリカやイギリスへ助けを求める手紙を出しました。


孤児たちの輸送と援助を頼みましたが、国際関係の緊張から各国は冷淡なものでした。


そこで最後の望みをかけて日本に助けをもとめました。


外務省が動いて、孤児たちの救済を即決。


1920年7月下旬、56人の孤児がウラジオストクから敦賀を経て東京へ入り、渋谷の宿舎に収容されました。


当時日本とポーランドに正式な外交関係はなく、その上、祖国と分断された在シベリア民間人の費用と手間がかかる依頼を実行したのは異例でした。


そして1920年から22年にかけて計5回、1~16歳の765人の孤児たちが船で日本へ運ばれ、想像もつかないほどの温かいもてなしを受けたのだという。


到着直後のポーランド孤児たちはチフスを患い、頭にはシラミ、餓死寸前の子もいるという最悪の健康状態だったのですが、日本赤十字の看護師たちが懸命に看護しました。


日本全国に孤児たちのことが報じられ、寄付金、玩具、お菓子などが送られ、歯科治療、理髪、慰問演奏、慰安会などがボランティアによって行われました。


歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たち、衣類やお菓子・オモチャや人形など慰問品を持ち寄る人々、寄付金を申し出る人々は、後を絶ちません。


音楽団の慰問演奏や慰安会への招待も相次ぎました。


また、大人に連れられお見舞いに訪れた日本人の子どもたちは、自分が着ている洋服や、身につけていた髪飾りを、迷わずポーランドの子どもたちに与えようとしたのです。




さらに、こんなエピソードもありました。

日本人の若い看護婦・松沢フミさんは、腸チフスにかかった子どもに対して、「せめて私の胸の中で死なせてあげたい。」 と、その子のそばを片時も離れずに看護を続けました。


その甲斐あって、その子は奇跡的に回復しましたが、フミさんは腸チフスに感染し、ついに殉職したそうです。



また、別の子の、こんな回想もあります。
「ひどい皮膚病にかかっていた私は、全身に薬を塗られ、ミイラのように白い布に包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると、布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました。」


こうして、日本人の温かい心に触れた子どもたちは、来日当初の青白く痩せこけていた彼らとはまるで別人のように、元気がみなぎってきました。


それは、もちろん喜ばしいことでしたが、同時に、子どもたちが故国に帰る日が近づいていることを意味していました。

「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に。。」




日本を出航する時には、バナナやお菓子が配られましたが、親身に世話をした日本人との別れを悲しみ、送られる子どもたちも、そして見送る人々も、涙、涙。。


子ども達は船のデッキから日本語で「アリガトウ」と叫び、日本の歌を歌って感謝の心を表してくれたのです。




この時、子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、ひとりひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。


「お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ。」
と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。


この子たちは、帰国後、孤児院に収容され、それぞれの人生を歩んでいくことになりますが、異国の地で注がれた愛情が、その生きる力になったことでしょう。



日本ではそのことは歴史の渦に埋もれていき、ほとんどの日本人はポーランドとの出来事を忘れていきました。
しかし、ポーランド国民は違っていたのです。



1980年、民主化の動きが起こり、立役者となったレフ・ワレサ氏は初の外国訪問先に日本を選び、1981年5月に来日し、「日本は大きくて平和で偉大な可能性に満ちた国だ」と評し、帰国し「ポーランドを第二の日本に」と言うスローガンを掲げました。


そして、1989年、ポーランド共和国となりました。




1993年からポーランド大使を勤めた兵藤長雄氏はポーランドの親日を不思議に思い、
原因を調べて広めることとなりました。

1995年10月、8人のシベリア孤児の公邸訪問が実現しました。


すでに孤児は80歳を過ぎていましたが、当時の思い出は鮮明に残っており、感謝の気持ちを語りました。
そして、兵藤氏は任期を終える年まで交流を重ねました。


極東委員会の副会長ユゼフ・ヤクブケヴィッチ氏は礼状を送りました。


「ポーランド国民もまた高尚な国民であり、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本の人たちに知っていただきたい。ポーランド国民は日本に対して、最も深い尊敬、最も温かい友情と愛情を持っていることをお伝えしたいと思います。」
とありました。



その事を証明する出来事が1995年起こりました。

阪神大震災の報に接したポーランドの人々は、翌日からすぐに被災地の救援に動いてくれました。
そして震災で孤児になった子どもたちを、ポーランドに招いて、慰めてくれたのです。

ポーランド各地の自治体、企業、資産家、芸術家、個人から寄付や協力がなされました。


2度目の訪問の終わりに、震災孤児と元シベリア孤児達が対面し、かつての話を語り友好を深めたのです。





2006年、ポーランド孤児の最後の一人・アントニーナ=リロさんが、90歳で亡くなりました。

息を引き取る前に、彼女はこんなひとことを遺したそうです。

「日本は天国のようなところだった。」




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参考・引用;

http://ameblo.jp/hitomi-mazenda/entry-11021960188.html
http://yukan-news.ameba.jp/20140408-112/
http://japanophile.info/?p=125
https://www.youtube.com/watch?v=4ZI6EwX5c80