皆さん、アンニョンハセヨ(こんにちは)!
今回もまた、2024/03/08(金)~2024/03/12(火)にかけての釜山・慶州旅行の記事をお届けします。
本日は、釜山から特急で30分ほど北に行った場所に所在する新羅の古都・慶州をレンタサイクルで颯爽と駆け抜けた際の写真を、アメブロに掲載。
訪問した日は、2024/03/10(日)。
この日も天候に恵まれて、絶好のサイクリング日和となりました。
今回と次回にかけて、慶州のルポをお届けしますが、先ずは世界遺産の史跡をご紹介します。
それでは、観光パンフレットにWikipedia先生をカンニングしまして、古都・慶州について予習してみましょう!
慶州は、かつて新羅の都の置かれた場所でした。
新羅時代には「金城(クムソン)」という名称であり、高麗時代に前王朝を否定するためなのか「慶州」と改名されたそうです。
李朝時代には慶州府と呼ばれ、この時代の末期の1895年には慶州郡に昇格・日帝時代にはこの中の一部である現在の市街地が面(ミョン=村)から邑(ウプ=町)となり、解放後の1955年に邑から市に昇格しました。
そしてその40年後の1995年、大幅な市町村・郡の再編が行われ、慶州市と慶州郡が合併して現在に至ります。
名所旧跡としては、世界遺産にも指定されている慶州歴史地区に加えて、市の北部に所在する良洞村・安東河回村の三カ所が有名です。
今回、私はその中の「慶州歴史地区」を、レンタサイクルで巡ってみたわけです。
それでは、今回カメラに収めました慶州の史跡をご査収ください↓!
最初はKORAILの旧慶州駅。
現在は、路線共々廃駅となっています。
駅舎自体は解体されておらず、資料館として再活用されている...らしいですね。
レンタサイクルを走らせて、目に留まったのはこちらの遺墟。
パンフレットをひっくり返してもネットで調べても詳細が判らなかったのですが、どうやら新羅王族の別邸の遺構が発見された場所...らしいです。
鐘楼。
往時には、ここで鐘を突いて時刻を街中に知らせたことでしょう。
大陵苑入口。
古墳群を公園化するにあたり、設けられた門のようです。
別名を「天馬塚」とも称されるこの地には、新羅の王族や戦で武功を立てた将官らが今でも眠りに就いているのでしょう。
大陵苑の外から古墳群を眺めてみます。
雁鴨池に行ってみました。
この庭園は、新羅の王族が宴を催した場所であり、その起源は674年に新羅による半島統一を祝して造成されたのだそうです。
かつては、この庭園にて王族が歌舞音曲を愉しみ、書に親しんだのでしょう。
しかし、高麗が興り新羅が滅亡すると、庭園も荒廃して雁や鴨の遊休地となってしまったそうです。
つまり、「雁鴨池」という呼称は新羅時代当時のものではなく、後世(webの情報によると李朝時代)の文人によって名付けられたのです。
...というわけで、復元された池をご覧ください!
前述の通り、雁鴨池の建物は高麗時代に無残にも打ち壊されて、庭園も荒廃してしまいます。
今現在は立派な四阿(あずまや)が幾つか復元されていますが、建築様式はおそらく李朝時代のものを参考としているはずです。
つまり、新羅時代当時にはどのような建築が佇んでいたのかは、不明?といったところでしょう。
最近では、多少なりとも調査・研究は進んでいるかもしれませんが...。
「汶湖社」
ハングルを解せないのでパネルの説明文は解らなかったのですが、どうやら李朝時代の文人の出生の家・もしくは活動拠点だった模様。
あるいは、日帝時代の抗日運動家の拠点だったのかもしれません。
その「汶湖社」の近所には、新羅時代の天文台・慶州噡星台が古代からこの地に佇み続けています。
建造された年も築造した者も、そして建設された目的も、実のところはハッキリ判っていません。
しかし現在のところは、この石造建築物は「天文台」として建てられたというのが定説とされています。
一説には「東洋最古の天体観測施設」ともされており、この建造物は地元っ子の誇りにもなっているようですね。
鶏林。
「新羅王族発祥の地」とされている森林です。
伝承によると、この地は、新羅の始祖王が金色の小箱に収められて木の枝にかかっていた場所とされ、そこでニワトリが鳴いていたことから名付けられました。
当初は、新羅もその故事に因んで「鶏林(ケリム)」という国号で呼ばれていたそうです。
古墳。
こちらは半月城。
新羅の王族が代々生活していた居城です。
敷地の形状が半月状に築かれたために、この名がつけられました。
今現在は発掘調査が進展しており、立ち入り禁止の場所もあります。
皆さんも、無闇に立ち入り禁止の場所には侵入されないように!
ラスト。
石氷庫。
新羅時代~李朝時代にかけて利用された、天然の冷蔵庫です。
冬に池に張った氷をここに運び出して保管し、夏の暑い時期に宮殿まで保管した氷を持ち込んで涼を摂った...というわけですね。
但し、そんな贅沢が味わえるのは新羅の王侯貴族や武功を挙げた将官(そして時代が降って高麗時代や李朝時代の代官)に限られており、庶民は夏の間は暑い最中に農作業や土木仕事でヘトヘトな思いをしていたはずですが...。
さて、ここで自分が少し前に悪の大組織・amazonにて購入した本をご紹介します。
『ローマ文化王国・新羅』という本で、新羅は中国大陸の文明の影響をさほど受けておらず、実のところ遥か西方のローマの影響を多大に受けていた...と主張した本です。
今のところ、この説は異端の学説扱いになっており、人によっては「トンデモ本」にも思えるでしょう。
しかし、新羅の王族が貴金属製の冠を被っていたことは広く知られており、それはローマを始めとするヨーロッパ各地の王族と同じなのです。
当時の他の東アジア諸国(日本も含めて)の王族が皮弁冠を被っていたのに対して、これは新羅に特異なことと言えます。
その他、新羅は他の文化・習俗(暦など)も中国大陸とは異質の文明の影響を受けており、これはシルクロードを経由してもたらされたギリシャ・ローマ文明を積極的に採り入れた故、と、本書で説明されています。
もっとも、その「新羅に息づくローマ文化」も時代が降るにつれて、次第に漢民族の文明に呑まれていった模様ですが...。
次回のブログ更新は、慶州の市街地をサイクリングして撮影した写真の数々をご紹介します。
皆さん、キデハセヨ(ご期待ください)!
(罵詈雑言・個人攻撃・誹謗中傷大歓迎!)