154 宮地嶽古墳の被葬者は九州王朝の大王葛子 !? | ひぼろぎ逍遥

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154 宮地嶽古墳の被葬者は九州王朝の大王葛子 !? 

20150115

久留米地名研究会 古川 清久

磐井の乱と言えば、久留米、八女地方で知らぬものない古代史の一大事件ですが、「日本書紀 」によれば半島南部任那 へ渡航しようとする天皇軍を妨害し乱を起こしたことから、物部麁鹿火 によって討たれたとされる言わば逆賊です。

筑紫国造 磐井とあり、「後国風土記 」逸文「古事記 」でも筑紫君磐井とされています。乱後、子の葛子は鎮圧された後、糟屋(現・福岡県 糟屋郡 )の屯倉 程度のものを朝廷に献上して許された・・・などと奇妙な話に仕立てられています。この話については、磐井の乱ではなく「継体の乱」と考えるべきで九州王朝内部の内ゲバでしかなく奈良の片田舎は無関係・・・など、既に九州王朝論者の内部でも多くの議論がなされており、改めて云々することは致しませんが、この葛子については通常「クズコ」と呼ばれ(読まれ)ています。

この妙な呼び方も、敵対勢力を貶める後の近畿大和朝廷の常套手段であり、人麻呂を「猿丸太夫」と貶めたのと同様の手法で、「クズ」と呼び習わせた可能性を否定できないのです。

むしろ、白江戦をサボタージュと言うより唐、新羅に内通し裏切った(その可能性を指摘されている)近畿大和朝廷の事ですから、戦に勝つ「カツ」をクズ鉄の「クズ」に変えたと考えるのです(どっちがクズかは言わずもがな)。

このように考えると、日本最大級の玄室を持つ宮地嶽古墳の被葬者ともされる勝村、勝頼大明神(藤の勝村、勝頼)、神湊にもほど近い勝浦浜、宮地嶽神社の膝元の福津市勝浦、福津市桂区・・・がすんなり理解できるのです。

なんでも近畿大和王権の配下のものとしか考えない、九大(実は国士舘)のNなどの言う「胸形君徳善」とかそれに連なる一族の配下のもの・・・などとする愚論は、門脇貞二のように死の直前に悔い改め自ら訂正、修正するか、それさえすることなく佐原のように後代に笑われ恥を上塗りする事になるのでしょう。

と、ここまで書いて、新古代学の扉を読んでいると、既に室伏志畔氏が「カツと読む」としている事に気付き、ほっとしたところです。


154-1

(7)宮地嶽古墳の被葬者は九州王朝の大王葛子

  津屋崎町の宮地岳神社に行く。誠に運が良い!年三回しか宮地嶽古墳は開けて一般公開していないのに、偶然、公開日に当たる。筑紫舞の舞われたという古墳の真ん中の広がったところに身を寄せることができた。帰りに神社の祭神を聞いた。


        勝村大神
宮地嶽三柱大神 息長帯比売命
        勝頼大神


 
154-2 これは九州王朝の兄弟首長制だ!息長帯比売命は当然近江天智王朝から強要されたか、神社側が中央権力に擦り寄ったか、その結果である。勝村大神と勝頼大神が当初の祭神である。名前は人間臭いし、古くない。九州王朝の大王とてすべて神となるとは限らない。
 通説は七世紀中頃とし、胸形君徳善(高市皇子の義父)に比定する人もいる。こういうことはあり得ない。仏教文化の影響下に成立した大陸系遺物を豊富に出土したという。九州王朝への仏教公伝を教到元年(五三一)以降とし、九州年号の兄弟(五五八年から六年)の兄弟の二代の大王ではないか。あるいは、教到元年に二中歴は舞遊始まるとあるが、筑紫舞がこの大王の前で舞われたとすると、古墳で舞われた筑紫舞の伝承と合う。祭神は継体二十二年の筑紫君葛子兄弟となる。磐井一族の死より九州王朝内で新王系に変わったのだ。桓武天皇と一緒だ。だから神になったのだ! さらに、葛子の葛は辞書を引くとカツと読むのです(室伏氏指摘)。これで決まりです。ではこの古墳が九州王朝の大王葛子のものとして、何故残ったのか。それは九州王朝の滅亡する前に既に神社となっていたからです。天皇制による九州神社の祭神すり替え強要の仮説で見ると、神社の宮司の奮闘で祭神を息長帯比売命という天皇制の神にすり替えることで、神社として生き延びたからではないか。九州王朝の大王の墓が筑後の磐井の墓のほか一つもないのがおかしいのです。多分筑後まで天皇制の太宰府の手が及ばず破壊を免れたのか、ではその他の九州王朝一族の墓はどうなったか。

仮説の発見と検証の豊前旅行(後編)- 豊前は九州王朝の第二の都の検証-香芝市 山崎仁礼男 

「古田史学会報 22号」1997年 1027日 No.22 より

なお、山崎仁礼男氏に抗うつもりはありませんが、当方は、百嶋神社考古学の側から、古墳の被葬者とは別に、「高良玉垂宮神秘書」に従い、宮地嶽神社の祭神は神功皇后を妃とした高良玉垂命(第九代開化天皇)の若き姿、ワカヤマトネコヒコと考えています。