152 ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」 | ひぼろぎ逍遥

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152 ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」

201412019

久留米地名研究会 古川 清久


福岡市の西区、糸島半島の東側に西浦という漁港があります。

これからの季節には近海で雑魚を取りイリコ(北崎イリコ)や鯛の干物を作るのでしょうが、玄界灘の懐奥深く、波静かな入江に白砂が延びる風景は喧騒渦巻く博多や福岡とは全く異なる穏やかな面持ちを見せています。

この湾奥の小高い岬に置かれたのが白木神社です。

この神社の祭ではヒョウカリイライ」という意味不明の掛け声が流れます。なにやら八代の妙見宮の「オレーオレーティエライター」を彷彿とさせますが、ここではこのヒョウカリイライ」についてお話しすることにします。
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昔の名前は妙見さんだったようだ。 妙見社が鎮座していた所へ、金武地域が北2kmの飯盛神社の神領になったとのこと、五十猛尊がかぶさって祀られたものと推測できる。

尤も、妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見える。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。

HP「神奈備」より


毎年9月の第1土曜日に『ヒョウカリイライ』という漁祭りが執り行われます。
以前は11日まつりといって 毎年11日でしたが、このお祭りには子どもたちが活躍するので学校のお休みに合わせて第1土曜日になったそうです。
で、ヒョウカリイライっていう言葉はなぁに?と思いますよねー。
いろいろと尋ねてみたのですが、諸説あるようなので今回は北崎百年史で調べてみました。百年史には話言葉で書かれていて昔話みたいなので そのまま紹介しますね
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「いわれは、江戸時代のことでっしょうな。
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西浦の鯛というたあ、そりゃあ有名じゃったらしいもんな。
ところが、鯛があんまりとれすぎて、今でいうたら豊漁貧乏ですたいなあ。
鯛の値がさがってしもうたげなもん。
そこで困っとるとば聞かしゃった殿様が鯛の値段を決めてやらっしゃったげな。
そこで殿様にお礼ばするとと、鯛がこれからもとれますごとお願いしたということじゃろうといわれとります。」
「ヒョウカリイライはどげな漢字ば書くとかようわかりませんばってん、『評価利鯛』ってかくとじゃなかろうかっていわれとります。」

 北崎よかとこ隊
 北崎校区自治協議会」 より


馮河黎来(ヒョウカリイライ、ヒョウガリイライ、ピンフォーリーライ)


現在は菊池(川流域)地名研究会から離れられた牛島稔大氏による「牛島稔太のHP」のサブ・サイトにこれに関連する事が書かれています。一部ですがご紹介いたしますので、まずは、お読みになって下さい。



薦神社の神紋は、宇佐と違って三つ巴紋ではない。それは薦神社に置き土産をした人物がいる、この人は自称神武天皇(はつくにしらすすめらみこと)、後で贈祟神天皇となって記録された人物が薦神社に置き土産をしている。この人の紋章が『時計回り一つ巴』である。この祟神天皇の子供の一人、久留米の豊城入彦(元、田主丸の豊木におられた)、大分から移ってきた時にそこにいた。祟神が自分の息子のうちの一人を四道将軍として関東に派遣した茨城県の神住町、鹿島神宮(海幸 彦)の武の神様があるところである。ところがこの系統は子孫が威張るという悪い癖がある。福岡地区でその威張るという例をみることができる、福岡市の海岸沿いの西の果て、西浦に白木神社があり、ご祭神は山幸 彦であるが、山幸彦の奥様(伊勢の外宮様)の元の旦那である海幸彦が手離さないので、山幸彦は頭にきている。京都の伏見大社の構成は、本当は山幸彦のグループで本当の実力者は奥さんの伊勢の外宮様である。それを元のダンナが手離さない。ヒョウガリーライ、ピンホーリーライ(黎族のくそ野郎、来るなら来てみろ)、西浦の白木神社が一年に一回いまでもそのことを祭りでやっている。


海幸 彦は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこにシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社のグループの大半は紅河がながれベトナムのハノイに到着する。シナ城のグループはメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。http://goo.gl/maps/2hr7p

日本にきて天草・苓北に上陸した。 http://goo.gl/maps/Yxsyr  

そこにしばらくとどまった。日本にきてからは黎族とはいわず耳族(彦山の天忍穂耳)とも称した、そして、阿蘇に移動した。そのころ日本には既に高木 の大神系のたくは(た=古川による修正)ちじひめ、ヘブライ人が勢力をもっていた。高木の大神の一族は、日本の皇室と縁組をしていた。日本の怡土に住んで居られて中国の漢民族が派遣していた日本統治のための事務所が糸島にあった、そういう尊い方と縁組をしていたので高木の大神は威張るだけの力があった。その威張ったあとの面影がどこに残っているかというと、熊本荒尾の虚空蔵山、草部(かやべ:朝鮮半島の伽耶、糸島にもある伽耶)吉見神社、今は雲仙市になっているが、もとの地名は雲仙市ではなかった諫早にたいへんちかい有明海側のほう、ここに高木の一族の古い古い遺産が残っている。ここに高木の紋章と鍋島の紋章が合体した独特の紋章(つたの紋章)をみることができる。


「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜 --- より


「馮河黎来」の意味はお分かりになったでしょうか?

正直申上げてあまり良い言葉ではない罵声に近いもので、気を悪くされる方もおられるかも知れません。

ここには、雲南省から入ってきた阿蘇の一族(草部吉見)=鹿島=春日=海幸彦系と、半島から入ってきた海幸山幸神話の一方の雄、山幸彦系(新羅)=白木神社勢力の確執が反映されているのです。

その対立の理由は込み入った話になるため、その海幸側の神社がどこであるかを含め、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院の方で、いずれ、詳しく説明したいと思います。

ただ、概略だけを言うと、田川郡の香春神社の主神「辛国息長大姫大目命カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト(支那ツ姫)」=伊勢神宮外宮の豊受大神の神霊=御霊を前夫である海幸彦側が返さないことをなじっているのです。

ここでは、「馮河黎来」の意味は、「黎族」(レイ、リー)を意味し、黎族の連中やってこい!と掛け声をかけているという事を御紹介しておくに留めておきます。

さて、「黎族」は雲南省、貴州省から海南省(海南島)の南、東に住んでいます(海南省には保亭黎苗族自治県外多くの黎族の自治県があり「加茂」地名まで存在します)。


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中国海南省の観光地図(クリックで拡大表示)

ついでに申上げておきますが、鹿児島県の「喜入」「嘉例川」、天草の「苓北」…といった地名や鹿児島市、枕崎市に集中する「今給黎」(イマキュウレイ)姓、鹿児島市から大隅半島に集中する「喜入」(キイレ)姓などはその痕跡と考えています。

きっと、この方々の二千年前の御先祖様は海南島、雲南省にいたのでしょう。

黎族は雲南省を起点に海路、鹿児島県の吹上浜、薩摩川内から不知火海、有明海沿岸に入っているようですね。

詳しくはふれませんが、肥後人は元々雲南省麗江にいた多氏の一族=ビルマ・タイ系の中国人で、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主を奉祭する一族(民族的には白族)は雲南省昆明にいた原中国人(実はヘブライ系)と考えています。実は、両派とも追われた中国人なのですが、この西浦の人々が如何なる人々だったかは、まだ、見当が付きません。白木神社(山幸彦)を奉祭する一族としても、そもそも海人族なのでしょうし、山幸彦の素性が正確には分からないからです。

百嶋神社考古学では山幸彦は彦火々出見であり、通称「魏志倭人伝」に登場する伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒなのですが(荒江櫛田神社も実は伊都の長官爾支(ニキ)を祀っているのであり、荒江のアラも朝鮮半島の安羅なのです)、中国の江南から入ってきた海人族を征服し従えた支配者とすれば、西浦の人々とは民族的に異なる可能性が高いからです。

参考

速く走る、頼みにする、乗る、登る、怒る、不満、という意味がある。と通じて、恃む、乗ずる、依る、盛んな、と通じて、徒歩で を渡る、という意味がある。 

ネット上の「ニコニコ大百科」による

追記


152修正版 ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」修正版