151 穴掘り考古学の巡察使 内倉武久氏のblog新設について | ひぼろぎ逍遥

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151 穴掘り考古学の巡察使 内倉武久氏のblog新設について

201412019

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


元朝日新聞の記社でありミネルヴァ書房外から数著を出されておられる内倉武久氏は、古代史の世界でも九州王朝論者としても知られています。

この内倉氏には地名研究会の考古学関係の顧問として多くのアドバイスを提供して頂いています。

当方はいわゆる穴掘り考古学に関しては知見がないことは言うまでもないのですが、どちらかというとこの薄汚い世界を嫌っており、多少とも清潔な照葉樹林文化論、民俗学、地名研究、神社考古学…といった普通の人があまり関心を向けない部分に目を向けています。

ところが、戦後史学は文献と科学性を持った穴掘り考古学を両輪として発展してきたという事から、古代史を云々するにはこの部分をスポイルさせたままでは恰好が付かないことになります。

仕方がなく、多くの判断を地名研究会でも穴掘り考古学に精通している吉田正一氏や伊藤正子氏に頼っています。

この点、大手新聞社の記者であった内倉先生は頼りがいがあり、最近は頻繁に調査旅行に同行しています。

この内倉氏に対して、御自身のブログを開設しませんかと呼びかけ続けてきました。

新聞記者をされていたにも関わらず一向に功を奏しませんでした。

まず、当方のブログに寄稿しませんかとお願いし、ようやく3本の小稿を頂いたのですが、その勢いでどっちみちblogも始めたらどうかと申し上げたところ、どうやら重い腰を擡げられたようです。

そこでblogのデザイン、タイトルをどうするかが問題になってきました。

タイトルはどうしても本人の人生観、今後の方針、趣味…に左右されますので、他人には云々できないのですが、トップ画面は当方で準備してあげようと色々と考えているところです。


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仮説に仮説を重ね、在りもしない“証拠”を在るかのように吹聴する。そしてとんでもない古代史像を市民に信じ込ませる。そんな風潮を徹底して排除し、考古学の成果、日本書紀、古事記の批判と再探索、日本列島の権力と距離を置く中国、朝鮮の史書の記述など、できるだけの証拠を集めて古代史の真実に迫った著作を、長年古代史と向き合ってきた内倉武久がわかりやすく市民に問います。


151-2『卑弥呼と神武が明かす古代』では、邪馬壹(台)国がどこにあったのかを、魏志倭人伝に描かれるこの国の産物、風物、距離、方角など
の記述を徹底的に検証し、北部九州以外ではありえず、現在古代史家らが喧伝する大和・纒向(まきむく)遺跡などでは決してないこと、記紀の記載やさまざまな証拠からいわゆる神武天皇は実在した人物であり、その出身地は現在の福岡県前原市、あの金印を受けた古代国家伊都(委奴)国の王家の一員であり、内紛に乗じて主権を奪った卑弥呼に放逐され大和へ向かったことなどを記述しています。

 『太宰府は日本の首都だった』では、卑弥呼の後、日本列島を支配していたのは大和政権ではなく九州政権であったことを、年号の問題、放射性炭素による年代測定の結果などをもとに論証します。考古学界による九州の遺跡の年代がとんでもない過ちを犯していて、現在の推定よりはるかに古かったこと、たとえば、かの有名な防衛施設「水城」は、考古学界は日本書紀の記述から7世紀の建造と言っていましたが、最初に築かれたのは卑弥呼の時代(240年ごろ)で、その後430年ごろに大改造され、九州政権消滅の契機になった白村江の戦いの直前660年ごろに補修されたことがわかっています。いわゆる日本と深い関係を結んでいた中国史書の証言も大きな証拠として記述しています。そして今、日本の正史とされている日本書紀は、九州政権の史書を掠め取り、あたかも自らが主権者であったかのように改作した“偽りの史書”であることを明らかにしています。

ぜひ、両著をひもとき、目からウロコを落としてください。いずれもミネルヴァ書房刊。   (内倉武久)


151-4 ミネルヴァ書房 〒
6078494京都市山科区日ノ岡堤谷町1

本のご注文はお近くの書店かインターネット・ネットでどうぞ。


内倉武久氏は、昨年も「太宰府は日本の首都だった」として九国博において講演されています。本案内文は氏からの依頼を受け当会が配布しています。

秋には久留米地名研究会においても講演して頂こうと考えています。その折には前述の「水城が白村江の戦いの敗北後に大和朝廷によって建設されたなどといった話はとんでもない間違い…といった話がどんどん飛び出すかも知れません。


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