水俣病02 チッソ総会 御詠歌とご位牌 | 群青

水俣病02 チッソ総会 御詠歌とご位牌

水俣をとり続けた土本典昭監督。
1971年「患者さんとその世界」という記録映画そのものは、YouTubeには存在しない。
できれば、その映画が無いのか探したが無い。
有料でDVDが販売されている。

下のYouTubeは、土本典昭さんについての「水俣と向きあう~記録映画作家 土本典昭の43年~」である。これも解説しているのが上田早苗さんだから、NHKの特集なんだろうと思う。
この中にモノクロの水俣の患者さんを撮したものが出てくる。
その部分が「患者さんとその世界」の一部だろうと思う。







チッソ株主総会へ向かう患者達。黒地に「怨」の白文字を染め抜いた幟。そして白装束に菅笠姿で御詠歌。
株主総会の会場でも、御詠歌を唱え続ける。
親が欲しい子の気持ちが分かるか。分かったか。・・・ いつもは、もの静かだったという浜元フミヨさんのようだ。

石牟礼道子「苦界浄土」第二部・神々の村では、一株株主となった患者と支援者約1000人が乗り込んだ。患者達は、壇上に上がり込んで御詠歌を唱え、叫んだ。その模様を描いた。


●チッソ株主総会 二つの位牌「親さまでございますぞ! 両親でございますぞ」

不知火海に36年間にわたり、チッソが流してきた有機水銀が水俣病の原因と公式発表されるまでに13年を要した。その間、チッソはまったく研究に協力しないばかりか、さまざまな原因説を発表あるいは支持し、原因究明をひきのばした。公式発表後も依然として責任を認めなかった。患者とその肉親たちは自らをむち打って裁判に、デモに立ち上がらざるをえなかったのだ。

「水俣工場の閉鎖」という言葉が患者らの背中を射ぬいたのだ。患者らのおかげで水俣工場がよそにゆくと、市民から憎悪されてきたのである。
見定めて、わたしは師匠の肩にそっと手を置いた。
「行きましょう、今すぐ舞台へ」
おおきくうなずいて師匠は立ち上がった。巡礼たちの列がゆったりとした足どりで花道にさしかかった。若者たちが躰をひいて坐りこみ、道をつくった。澄んだ鈴鉦が低く流れる中、永遠の映像が流れるごとくに、白装束の列が通った。
今やうつつの眼前において、何かが展開する、と誰しもが想い、好むと好まざるとにかかわらず、それまで体験したことのない世界の中に全会場の者が導き入れられつつあった。

もの静けさの極のような気迫で、患者たちは社長の方へにじり寄った。社長の背中を押しているようにも、引っぱっているようにも見える若者たちがとり囲む中、浜本フミヨさんが両親の位牌を社長の胸元近くにさしのばし、わなわなふるえている。師匠が巡礼の団長として何か言うつもりで真向いに坐った。たぶん公式の場での対決の文言をいうはずであったろう。しかしそれはすぐに出てこなかった。はじめて接した彼我の間は一メートルくらいだったろうか。
「首替え」の続くチッソの最高幹部。いま師匠の前にいる人は二年前、国が「公害認定」をしたとき、患者宅をまわった人である。任期の長かった前の吉岡喜一社長とは逢わずじまいだった。

「お前さまは……」
 ひくく呻いて師匠は絶句した。ふた息ばかりであったろうか。さらに低い声が吐息とともに絞り出された。
「ああ情けなか! なして生きとるのか!」
 身を揉みしだいている師匠の口からさきほどと同じ言葉が吐き出された。--わが身は、なして生きとるとるか、お前さまとはなしてここで逢うか。やせたその頰に滂沱と泪があふれ出した。末法の逆世……。生き恥死に恥にまみれ、わが家だけでなく、人間苦の極相の中で死んだ者たちを看とりながら、師匠は巡礼団をまとめてきたのである。師匠の胸底にある般若心経の文言をわたしはなぞっていた。上阪する列車の中で聴いたあの「実る子」のいわれを。生まれてから一度もものを言ったことのない「坪谷小町」が、もの問いたげに首をゆすって家に居る。その前に生まれた女児は、同じ症状で死亡したのだ。(略)
師匠はいまや現実の社長にではなく、何か超越的な存在に対してものを言いたかったのかも知れない。あるいはそれも言いたくなかったのかもしれなかった。

言葉にならぬ想念の渦巻く只中を、根底からぎりりと引き裂くような声をあげたのは浜本フミヨさんだった。手甲をつけた両の掌をわななかせ、二つの位牌を、社長の胸もとに押しつけんはかりにさし出している。
「親さまでございますぞ! 両親でございますぞ」
会場は一瞬にして静まりかえり、息をのんだ。二つの位牌がふるえながら上下した。
「どういう死に方じゃったと思うか……、弟も、弟は片輪、親がほしいっ! 親がほしい子どもの気持ちがわかるか、わかりますか」
自分の言葉に耐えかねてフミヨさんは絶句する。あたりに聞こえた孝行者で、その看病ぶりは凄絶というというほかなかった。まもなく彼女自身も発病する。このときチッソは高度成長も凋落の兆しを見せはじめた経済界の一翼を荷う、突堤であった。日本興業銀行が江頭氏を吉岡喜一社長の後に配したのは、よほど重要な人事であったろう。氏はくぐもりのきわまった目の色を自分の内心に向けた表情まま、フミヨさんの気迫に打たれ、正座して、反射的にうなづいていた。
「わかります。よくわかります。責任は感じています。ですから……」
この雰囲気と情況の中で、ほかにどういう言い方があったろう。

海面の一角にふいに立った巨大な三角波のような、熱度の高い気分は急速に衰え、人間の哀れさだけが定着したような場面であった。わたしは立って呼びかけた。まったく予測しなかった自分の行動だった。
「みなさん、もう席へ帰りましょう。これ以上は無意味です。あとは天下の眼がさばいてくれるでしょう」
人びとが無言で、醒めぎわの夢の中を横切るように壇を下りはじめた。
「私たちは水俣へ帰りましょう」 
水俣以外のどこへ、帰れるところがあっただろうか。


●美しい不知火海の村で
天草諸島と八代や水俣等に挟まれた不知火海は湖のように静かな内海。
自分が生まれ育ったところも直ぐその近くである。同様に静かな湾奥に面していた。
優しさと魂の深さは、何も江戸時代のキリスト教普及のせいでは無いと思う。
近代の先端と豊かさから遠く離れた辺境の地であり、営々と続く半農半漁の村の生活は、そんなに合理的な知恵や口先の分別を育まなかった。
ご先祖の霊と共に、親と子どもや生まれてくる生命と共に、そして魚や畑の恵みや木々花々と共に生きてきた。
不知火海の豊堯の世界を中途半端な近代技術が奪い殺してしまった。
患者達は不知火の霊と共に、何時も居る。
カネでは無い。両親を返してくれ。それだけであった。



不知火海写真