出雲王国 10史実ストーリーによる | 国家最大のタブー

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かぐや姫のおとぎ話には子孫に気づいて欲しい暗号が隠されてた。

■美保神社

事代主が不慮の死に遭い、ヌナカワ姫は故郷の越前に帰られること決断された。娘のミホススミ姫
は、その地に留まり亡き父・事代主(通称、エビスさん)の御霊を祠をつくり祀った。その後、紀
元3世紀にミホススミ姫の住居跡に建てられのが●美保神社である。拝殿から見て左の屋根の下に
は、事代主命をまつった。本殿右側にはミホススミ姫を、三穂津姫命の名前でまつった。また千木
も縦削ぎと横削ぎが併存しているが、それは先住イズモ族と渡来系(九州・物部氏系)が恩讐を乗
り越えて、仲良くしようとの意味が込められている。「記紀」が先住系を国ツ神とし、渡来系の神
を天ツ神と呼ぶのは差別であるので、そのような表現は慎むべきである。この社殿の形には、過去
に苦い対立と抗争があった先住系、渡来系社会の未来に向かう新しい決意を表している。本殿前の
拝殿には、妻入りの大屋根がある。その前に、比翼(ひよく)造りと呼ばれる小屋根がある。これ
は包容力のある心で、未来のイズモを築いていこうという理想を示している。拝殿の柱列はギリシ
ャのパルテノン神殿を連想させる。また拝殿の側面は、なんと解放的なことか。どこからでも人々
が入れる。先住系の人でも、渡来系の人でも隔てなく、受け入れている。これ以上に民族的に平等
で、どこの人でも受け入れる形を示した神社建築は、日本では他にないだろう。9本柱の神殿建築
では、現存するものの中では最も古い。また娘のミホススミ姫に因んで地名も●美保関になった。
江戸時代中期に美保神社では事代主の不慮の死を忘れまいと京都から事代主の子孫の大田政清を招
いて、古事記を参考にして、構成された神事が、美保関町で行われる。12月3日「諸手舟神事」
、4月7日がクライマックスの「青紫垣神事」という神事である。また全国えびす社3385社の
総本宮がイズモの美保神社である。「えびす」さんとは事代主のことである。それだけ全国に事代
主の子孫がいることになる。尚、島根県の観光情報には、「記紀」を鵜呑みにして事代主は大国主
の子息と堂々と書かれているが、「記紀」の受け売りの嘘の情報である。紀旧東出雲王家の向家が
神主になっていたが、多忙であったので、美保神社の管理を神職の横山家に任せた。米子市と境港
市がある●弓ヶ浜半島は今は陸続きだが、古代は島であった。黄泉の島→夜見の島→弓ヶ浜と名前
が変わった。なぜ●黄泉の島と言われたかは、粟島で事代主が非業の死を迎えられ、黄泉(よみ)
の国に行かれた、と言われた。それで粟島の対岸にあった島を黄泉の国・黄泉の島と呼んだ。

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