出雲王国 9史実ストーリーによる | 国家最大のタブー

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かぐや姫のおとぎ話には子孫に気づいて欲しい暗号が隠されてた。


■粟嶋神社 非業の事件現場

の一つが●粟嶋神社である。粟嶋神社は現在、陸続きであるが、当時は島だった。江戸時代末期に
埋め立てられ陸続きになった。東出雲王国・富家の事代主は●王ノ海(中海)をわたり、島根半島
の東端に住まわれたの妃のヌナカワ姫の館に行った。そこには越後の糸魚川から来た、ヌナカワ姫
が住んでいた。そこへ○○が諸手舟でやって来た。●「園の長浜(出雲市西園町)で八千矛(大国
主)様が行方不明になったから、事代主様も来て探して下さい」と言って、事代主を舟に乗せた。
舟は弓ケ浜の粟島(米子市彦名町)に着いた。すると海童(かいどう)たちが現れ、舟を取り囲ん
だ。海童というのは、徐福がシャントン半島から連れてきた少年たちを言う。捕らわれた事代主は
、粟島の裏の洞窟に幽閉された。八千矛(大国主)王も●猪目洞窟に幽閉された。後日、事代主の
遺体は粟島の洞窟で見つかった。死因は餓死と、判定された。その遺体は●熊野山(松江市八雲町
)に埋葬された。その後、島全体が神社になり、事代主の御霊をまつっている。鳥居の近くに万葉
集の355番・生石村主(いずしすぐり)作の歌の石碑がある。それには「大汝(おおあなもち)
 少名彦の いましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」その歌は、大国主と事代主がそれぞれ岩屋
に居られたことを伝えている。この「黄泉(よみ)の岩屋」の話は奈良の都にも聞こえて、出雲は
「黄泉(よみ)の国」だと言われるようになり、「記紀」にも書かれた。奈良時代までは、都の貴
族も出雲王国の大国主と事代主のことを覚えていてよく語られていた。しかし日本書紀が出て、講
義されるようになると、出雲王国のことは人々は話さなくなった。かれらが徐福の指示により、非
業の死を遂げたことも知っていた。そして都の貴族たちの中には、海部王朝や物部王朝の子孫が多
かった。かれらは大国主と事代主の怨霊を恐れていた。また当時の都の政府関係者は、物部勢力が
出雲王朝を滅ぼしことを覚えていたので、旧出雲王国の神霊を恐れていた。尚、古事記では、この
事件のことを「スサノオが天照大神(出雲の太陽の女神)の耕作田の畔(畔)をこわし、用水溝を埋め
、新米のご飯を供えた神殿に排泄物を、まき散らした」という例え話で暗示している。また古事記
では、事代主の枯死事件は、事代主の入水(自死)に書き変えられた。さらに王子・タテミナカタ
・建御名方のことは悪意を持って書かれた。この粟嶋神社は出雲王国の非業を、象徴する場所であ
る。丘の急な階段を昇ると、頂上に社がある。祭神は少名彦・事代主である。頂上の後ろからの眺
めがすばらしい。古代の数々の歴史を秘めた王の海(中海)が一望のもとに見える。紀元前220
年ごろイズモ王国の少名彦スクナヒコであった事代主が越前の糸魚川の方からヌナカワ姫を后とし
て迎えられ、ヌナカワ姫は島根半島の東端に住まわれた。
地域ストーリー作り 経済産業省 出雲大社