ジェイムズ・ヒルトン『失われた地平線』 | 文学どうでしょう

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失われた地平線 (河出文庫)/ジェイムズ ヒルトン

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ジェイムズ・ヒルトン(池央耿訳)『失われた地平線』(河出文庫)を読みました。

書棚に並んでいる本を見て、小躍りして喜ぶことはあまりないと思いますけども、これは見つけた時、思わず小躍りしてしまいました。

いや実際にはにやにやしていただけなんですが、嬉しかったですねえ。

だってみなさん、『失われた地平線』ですよ! 随分長いこと読んでみたかったんですが、手に入りやすい翻訳がなかったんです。

そしたらいつの間にか河出文庫から新訳が出ていたので、早速読んでみました。

みなさんは『失われた地平線』と聞いても、全然ピンときてないと思うんですが、この言葉は聞いたことがあるはずです。「シャングリ・ラ」。どうですか?

歌のタイトルなんかでも使われたりしていますよね。「シャングリ・ラ」というのは、「ユートピア」(理想郷)の1つの形です。

この『失われた地平線』で使われた「シャングリ・ラ」という言葉が、今では理想郷を指す言葉として一般に使われたりもしています。

その元になった物語は一体どんな物語なのか。これはもう、みなさんも読んでみたくなったことでしょう。

チベット辺りの山の奥地に、地図にも載っていない幻の国があるんです。西洋の宗教と東洋の宗教が混じり合い、人々は私利私欲もなく穏やかに暮らしています。

数多くの文化遺産が集められたりもしているんです。もし世界が滅んでしまったとしても、「シャングリ・ラ」だけは人類の文化を抱いて存続し続ける・・・。

実はぼくは一番最初に観たのが、この小説の映画版でした。フランク・キャプラ監督の『失はれた地平線』です。

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フランク・キャプラ監督というのは、O・ヘンリーの『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』のところでも少し紹介しましたが、ぼくが大好きな映画監督なんです。

皮肉めいたものではない、なんというか丸っこくやわらかなユーモアと、ハート・ウォーミングな展開。どれも傑作ぞろいです。特に『或る夜の出来事』と『オペラハット』がおすすめです。

『失はれた地平線』は、フランク・キャプラ監督としてはやや異質な感じもあって、正直ぼくはそれほど好きな作品というわけでもありません。

それでもやはり幻の国「シャングリ・ラ」という設定にすごく心惹かれるものがあって、強い印象が残っていたんです。

その原作をずっと読んでみたいと思っていたので、読むことができてよかったです。

作品のあらすじ


物語はプロローグとエピローグのある額縁小説の形式になっています。

物語の主人公はイギリス領事のコンウェイですが、プロローグとエピローグだけ、コンウェイの物語を聞くことになる〈私〉の話になっています。

まずは物語の外、フレームの話から。〈私〉は学生時代の仲間たちと集まります。そこでたまたまある事件の話を聞くんですね。

バスクルというところで革命が起こり、軍の飛行機で民間人を避難させることになったと。ところがある飛行機は何者かに乗っ取られて、そのまま消息を絶ってしまいました。

〈私〉の友達で作家をしているラザフォードは、そのいなくなった飛行機に乗っていた男を知っているというんです。それが同じ大学だったコンウェイというイギリス領事。

少し前にラザフォードは、思わぬところでコンウェイと再会していました。とある修道院にぼろぼろの姿で、記憶のおぼろげな男がいて、それがコンウェイだったんです。

コンウェイはこの世に存在していないはずの、ショパンの曲をピアノで弾いて、周りをびっくりさせます。そして記憶が戻ると、姿を消してしまいました。

ラザフォードはその少し前にコンウェイから飛行機はどこに行ったのか、そこでどんなことがあったのかの不思議な話を聞き、それを書きとめていたというわけです。〈私〉はそれを読みます。

それが本編の物語になります。本編が終わった後、再び〈私〉とラザフォードが登場して、エピローグになるという流れです。

ここからがプロローグとエピローグというフレームの中の話。

普通手記の場合、一人称で描かれることが多いですが、この物語はコンウェイの話をラザフォードが再構成したという形式なので、三人称で描かれています。どうやって心理とか分かったんだよ、という疑問は、とりあえずおいておくとしまして。

飛行機に載っていたのは、4人。コンウェイとアメリカ人のバーナード、マリンソン大尉、東方伝道会のミス・ブリンクロウです。ミス・ブリンクロウが唯一の女性になります。

飛行機の操縦士がいつの間にか違う人になっていて、目的地とは違うところへ飛んでいってしまったんですね。それでも、どうすることもできない4人。

結局、チベットの山奥に飛行機は到着します。かなり無茶な着陸だったせいか、操縦士は死んでしまいました・途方に暮れた4人の元へ、駕籠を抱えた東洋人の集団がやって来ます。

駕籠に乗っていたのは、「シャングリ・ラ」の僧院のラマ僧でした。こうして4人は幻の国、「シャングリ・ラ」へ足を踏み入れることになります。

「シャングリ・ラ」の人々は穏やかで、争いごとはないんです。下界が戦争で明け暮れる中、〈シャングリ・ラ〉では文化遺産を収集したりもしています。

仮に地球が滅びそうになっても、「シャングリ・ラ」だけは永遠に輝き続けるように。

コンウェイは大ラマとの対話を通して、下界の醜さというか、尽き果てぬ欲望うごめく世界を改めて認識し、それとは対照的に「シャングリ・ラ」の理想的な世界を知っていきます。

コンウェイはどちらかと言えばクールな男で、残してきた女性や仲間もいないので、下界の生活にあまり未練はないんです。

現代の人間が、理想的な暮らしをしている所に行くという構造は、スウィフトの『ガリバー旅行記』と似たところがあります。

最近わりと「ディストピア」という、理想郷の反対の世界を描いた物語を多く扱ってきましたが、いずれもそれは近未来が舞台でしたよね。

「シャングリ・ラ」はSF的な世界ではなく、キリスト教や仏教の考え方とも関わるような、心の平安を求める穏やかな世界です。一番大切なのは、「中庸」という考え方です。

これはギリシャのアリストテレスや、仏教にもある考え方ですが、簡単に言えばほどほどがよいということです。

食べ過ぎてもいけないし、食べなさ過ぎてもいけない。眠り過ぎてもいけないし、眠らなさ過ぎてもいけない。「中庸」ということを意識すれば、争いのない幸せな生活が送れるわけです。

実は「シャングリ・ラ」では、ある不思議なことが起こるんです。

これは物語の要なので触れませんが、『蒼い月』と呼ばれる山に囲まれた、この奥地にだけ起こる不思議なこと。それが生活や考え方とも大きく関わってきます。

4人の来訪者は、当然故郷に帰りたいと思うわけです。そこで「シャングリ・ラ」に食料を届けに来る運送車に乗せてもらって、帰ろうと思います。ところが・・・。

とまあそんな物語です。クールなコンウェイ、不思議とあせった様子を見せないバーナード。宗教的義務心に燃えるミス・ブリンクロウ、そしてどうしても帰りたいと強く願う若きマリンソン大尉。

それぞれのキャラクター性が光る物語です。それぞれがそれぞれのアプローチで「シャングリ・ラ」で暮らしていくんですね。

この物語がなぜ面白いかと言うと、「ディストピア」ものがそうであったように、果たしてここは本当に理想郷なのか? という疑問が、ぼくら読者の心を捉えるからだろうと思います。

もしかしたら、大ラマの話はすべて嘘偽りなのかもしれない。コンウェイ自身もそう思い悩むわけです。

特に若きマリンソン大尉はここの歴史や不思議な出来事を激しく否定します。

脱出しようとするマリンソン大尉と、「シャングリ・ラ」の魅力に惹かれ、心揺れるコンウェイ。

果たして本当に「シャングリ・ラ」は理想郷なのかどうか、大ラマの言っていることは本当なのか嘘なのか。

それが物語の最後で少し明かされることになります。

実は映画版では、マリンソン大尉はコンウェイの弟の設定で、より故郷に帰ろうという思いに引きずられる要素が強かったですし、途中で描かれるラブ・ストーリー的なものも、映画の方がインパクトが強かったので、原作ではかえって物足りない部分もありました。

4人のキャラクター設定としても、250ページくらいの短い作品なので、深みが足りない感もあります。

それでもチベット奥地の「シャングリ・ラ」という理想郷。この設定はやはり抜群に面白いです。下界と比較して、色々考えさせられることも多いです。

興味を持った方はぜひ読んでみてください。わりと読みやすい小説だと思います。

おすすめの関連作品


リンクとして、映画を2本、小説を1冊紹介します。

まずは同じくチベットを舞台にした『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画。

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ブラッド・ピット演じる登山家が、まだ少年の頃のダライ・ラマと交流を持つ話です。

2人の関係は、友達ともなんとも言えないものなんですが、わりと印象的な物語なんですよ。映画として面白いかはともかく、描かれているチベットでの生活が、興味深い作品です。

そしてもう1本は、不時着した飛行機の話。『フライト・オブ・フェニックス』です。

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これはもう熱い映画ですよ。きっと男の子が夢中になる映画です。砂漠の真ん中で飛行機が不時着してしまうんです。

当然助けがくるはずもありません。そのままでは死んでしまいますよね。

そこで、砂漠から脱出するために、壊れた飛行機の部品を使って、なんと新しく、飛行機を作ろうとするんです。はたして・・・。

最後には同じく消息を絶った飛行機が描かれる小説。サン=テグジュペリの『夜間飛行』です。

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サン=テグジュペリは『星の王子様』(『ちいさな王子』)で有名な作家ですが、飛行機乗りだっただけあって、飛行機が飛んでいる描写が極めて美しいです。ぜひ読んでみてください。