スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』 | 文学どうでしょう

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グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)/F.スコット フィッツジェラルド

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スコット・フィッツジェラルド(小川高義訳)『グレート・ギャッツビー』(光文社古典新訳文庫)を読みました。

『グレート・ギャッツビー』の翻訳はいくつかあります。ぼくが馴染み深いのは新潮文庫の野崎孝のものです。

中央公論新社からは、村上春樹の翻訳が出ています。今回は読んだことのない翻訳でと思い、光文社古典新訳文庫で読み直してみました。

ぼくは夏目漱石を通してイギリス文学を、森鷗外を通してドイツ文学を、大江健三郎を通してフランス文学を読んできました。

それぞれの作家が好きな作家や影響を受けた作家を読んでいくというやり方です。そしてアメリカ文学は、ほとんどが村上春樹を通して読みました。

J・D・サリンジャーやトルーマン・カポーティ。リチャード・ブローティガンやカート・ヴォネガットなどなど。

もし村上春樹が好きな方は、カート・ヴォネガットは読んでみるとよいと思いますよ。影響関係が色濃く感じられます。

SF作家ですけども、なんだかSFのようなSFでないような小説を書いている作家です。ちょっとぶっ飛びます。カート・ヴォネガットについては、いずれまた詳しく紹介するとしまして。

スコット・フィッツジェラルドという作家は、村上春樹の『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』という本によってぼくは初めて知りました。

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)/村上 春樹

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他の作家はもし村上春樹に出会わなくても、いつかどこかで出会っていたかもしれません。

ところが、このスコット・フィッツジェラルドという作家は、もしぼくが村上春樹と出会わなかったら、一生出会わなかったであろう作家のような気がします。

それだけメジャーではないというか、特殊な作家だと思うんです。

なぜこんなどうでもいいようなことをつらつら書いているかというと、『グレート・ギャッツビー』は当時のぼくにとって、すごくつまらない小説だったからです。

つまらないというのは少し言い過ぎですが、面白さが全く分からなかったわけです。村上春樹はスコット・フィッツジェラルドのどこがいいんだろうと。

よく分からなかったので、映画を観てみました。ロバート・レッドフォードとミア・ファロー主演の映画『華麗なるギャッツビー』です。

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ストーリーとしては小説とほぼ同じで、これで内容は完璧に把握したはずです。それでも全然ピンと来ませんでした。

なんだやっぱり面白くないんだと。それきりぼくは『グレート・ギャッツビー』を記憶の倉庫の中に放り込んでいました。埃が被っても気にせずに。

少し前に村上春樹の翻訳が出た時に読み直してみて、少し『グレート・ギャッツビー』に対する感覚が変わりました。

そして今回また違う訳で読み返してみたら、これがすごく面白かったんです。本当に心に染み渡る感じでした。なるほどこんな小説だったんだ、とまさに打ちのめされる感じでした。

決して翻訳がよかったとか悪かったとかの問題ではなくて、ぼく自身が年齢を重ねることで変わった部分があるのだろうと思います。

それは簡単に言えば、世の中いいことばっかりじゃない、世の中いい人ばっかりじゃない、ということに集約されるのですが、以前のぼくはギャッツビーの恋愛を肯定的に受け止めようとしていたんです。

ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』やC・ブロンテの『ジェイン・エア』が好きだったぼくは無意識的に、この物語を、明るく楽しい話として読もうとしてしまったんですね。

ギャッツビーもいい人で、ギャッツビーの好きな人もいい人、2人が結ばれる明るい未来が素晴らしい! という物語だと思っていたら、それが必ずしもそうではないので、がっかりしてしまったんです。

しかも物語の構造がやや複雑で、ギャッツビーが主人公とも言えないわけです。ギャッツビーが語り手ならまだ分かるんですが、語り手は別にいます。

そうすると、ギャッツビーの恋愛は誰か他の人物の目を通して語られるわけで、主観的な感情として描かれているわけではないんです。

なのでぼくは感情移入が全くできなかったんですね。どうでもいい話と感じてしまいました。当時は。

ぼくは今あえてギャッツビーの恋愛について曖昧に書いていますが、できる限りあらすじを知らないで読んでほしいからです。あらすじ紹介の時も曖昧に書きます。

ただ一つだけ言えるのは、これはラブ・ストーリーの小説ではないんです。それでいて純粋なラブ・ストーリーの小説。

この矛盾した感覚は、おそらく読んだ人には分かってもらえるのではないかと思います。

もう少しだけ物語の形式について触れます。

映画などでは、ギャッツビーが主人公のようになっていますが、ギャッツビーは厳密な意味での主人公とは言えないと思います。

これはぼくが映画と比較する時に必ず言うことですが、小説と映画で最も違いが出るのは、語り手という存在です。

『グレート・ギャッツビー』という小説には、語り手が存在します。

〈私〉という語り手。物語は〈私〉を通して語られます。そうすることで、小説内の世界は、すべて〈私〉から見た風景ということになります。客観的なギャッツビーではなく、〈私〉が見たギャッツビー。

映像では客観的になってしまいがちなものを、個人の視点にぐっと狭めていることが、この小説では非常に大きな意味を持ってきます。

この小説の書き出しは、こんな印象的な文章で始まっています。

 まだ大人になりきれなかった私が父に言われて、ずっと心の中で思い返していることがある。
「人のことをあれこれ言いたくなったら、ちょっと考えてみるがいい。この世の中、みんながみんな恵まれてるわけじゃなかろう」(9ページ)


つまり裏を返せば、この物語は誰かを批判的にとらえようとしている物語だということになります。

それはギャッツビーであり、登場する他の人々ほとんどすべてです。〈私〉すらも含まれていると言えます。

どこかが確実に間違っている人々の物語。それは単純化して言えば、富裕層を批判的に描いているということで、恋愛は普通の恋愛の形を取らず、人間関係は奇妙にねじ曲がります。

開かれるパーティーが華やかであればあるほど、生活が派手であればあるほど、ある種の虚しさがその中心にあるのです。

玉ねぎの皮をむいていくと、最後には何も残らないように、華美な暮らしの中には何もない。

物語の最後、ギャッツビーの周りの人々はどういう態度をとったか。やがてすべては消えてしまう。まるで泡のように・・・。

〈私〉の父の言葉は、誰かを批判してはいけないということではないんです。相手の立場をちょっと考えてみる。それだけです。いわば情状酌量と言ってよく、罪を認めないわけではありません。

この小説は、ギャッツビー、あるいはギャッツビーの世界を批判的に受け止め、少しだけギャッツビーの人生に思いを馳せる物語。

そしてそこからギャッツビーの世界を乗り越えて、自分の道を歩み始める〈私〉の物語でもあります。

つまり『グレート・ギャッツビー』はギャッツビーの物語であると同時に、〈私〉の物語なのだろうと思います。〈私〉がいなければ、ギャッツビーの世界が対照的に浮かび上がってこないわけで。

ぼくは以前、ギャッツビーの世界を肯定的に受け止めようとして面白さが分からなかったのですが、このギャッツビーの世界を否定的にとらえることによって、ようやくある種の面白さが生まれてきます。

つまりギャッツビーもどこか間違っていて、ギャッツビーの恋の相手もどこか欠けているところがあると。

物語はあっと驚くラストであると同時に、張り巡らされた因果関係から、ある種の必然とも取れる結末を迎えるんですが、描かれるのはすべてがどこか間違った、おかしな世界なんです。

物語の後半で、こんな風に書かれているのが印象に残ります。

 いま思うと、ここまで語ってきたのは西部の物語だ。要するに、トムもギャッツビーもデイジーもジョーダンも私も、みな西部人なのである。たぶん何かしらの困った共通点があって、東部の生活とは微妙にずれていた。(287ページ)


読み終わった後に残るのは、喜びでもなく、かと言って悲しみでもなく、感傷的ななにかです。

『ホパロング・キャシディ』の余白に書かれたギャッツビーの「スケジュール」に涙せずにはいられません。

若い頃のギャッツビーの夢が砕け散った、その欠片を拾い集めるような、そんな感傷的な小説なんです。

すべてを批判的に受け止め、間違っていると否定的に受け入れることでなにかが見えてくる、そんな不思議な小説。

そしてぜひ少しだけ考えてみてください。〈私〉の父の言葉通り、この世の中、みんながみんな恵まれてるわけじゃないということを。

どこかで間違っていたにせよ、ギャッツビーにはギャッツビーなりの生き方があったということを。

作品のあらすじ


ぜひ読んでもらいたい小説なので、あまりストーリーラインには触れないようにしますね。文庫本の背表紙のあらすじすら読まない方が楽しめますよ。

〈私〉はそこそこいい家の出で、証券取引を覚えようとやって来て、東部で暮らすことになります。ウェストエッグというところ。すぐ近くに海があります。そして両隣に大豪邸があるんです。

片方の豪邸に住んでいるのは、トム・ブキャナンとその奥さんのデイジー。トムは〈私〉の大学時代の友人で、デイジーは親戚筋にあたります。

トムとデイジーには2歳になる娘がいます。〈私〉はトムとデイジー夫妻、それからデイジーの友人のジョーダン・ベイカーという女性と交流するようになりました。

徐々に分かってくるのは、トムにはどうやら愛人がいるらしいこと。やがて〈私〉とジョーダンの間には、ロマンスが生まれます。

ジョーダンはゴルフプレイヤーで、少し独特な考え方を持っている女性です。乱暴な車の運転の仕方についての〈私〉とジョーダンのやり取りが面白いです。

「見ちゃいられないな」と、私は言った。「もっと気をつけるか、運転をやめるか、どっちかだ」
「気をつけてるわよ」
「いやいや」
「でも、ほかの人が気をつけるもの」ジョーダンはさらりと言ってのけた。
「だとしたら、どうなる?」
「相手がよけてくれるってこと。どっちかがよければ事故にならないでしょ」
「もし相手が似たように無茶だったら」
「お相手したくないわね。気をつけない人は嫌い。だから、あなたは好き」(97~98ページ)


これは単なる車の運転の会話ではなく、人生哲学のようなもので、あとでまた繰り返される会話なんですけども、それはまあともかく。

〈私〉はやがて、トムとデイジー夫妻ではない方の大豪邸の持ち主の噂を聞きます。ギャッツビーという男。

このギャッツビーはなにをしてそんな風な大金持ちになったのかは誰も知りません。悪いことをしたとか人を殺したとか、様々な噂はあるけれど、はっきりしたことは分かりません。

ギャッツビーは夜な夜なパーティーを開いています。普通の社交界では知り合いしか呼ばないものなのですが、ギャッツビーのところは誰でも歓迎ということで、有象無象のやからが集まってきています。

ある時、招待状をもらったので、〈私〉もパーティーに行きました。そしてギャッツビーと知り合いになります。パーティーから帰る時に見た、ギャッツビー邸の様子はこんな風に書かれています。

 盛りのついた猫のようなクラクションが、さらに高まるばかりだった。もう私は背を向けて、わが家の方角へ芝生を突っ切って歩いた。一度だけ振り返った。ギャッツビー邸の上空に薄くへばりついた月が光を投げて、さっきまでの夜が戻っていた。まだ明かりは消えないが笑い声や物音は途絶えた庭園を、月が照らす。と、いきなり屋敷の窓や大扉から、虚しさが流れ出るように思われた。ベランダに立つ主人の姿を、まったく孤独感の漂うものに見せている。その人物が別れの敬礼でもするように手を上げていた。
(93ページ)


ベランダに立つギャッツビーというのは、もう少し別の意味を持って来たりもするんですが、ともかくこれでほとんどすべての登場人物が出てきました。

〈私〉とトム、デイジー、ジョーダン、そしてギャッツビー。この5人の物語です。派手で豪奢な生活と、その中にある虚しさが描かれていきます。

ある時、ギャッツビーは〈私〉にある頼みごとをします。果たしてその頼みごととは? 徐々に明らかになるギャッツビーの人生、そして夢とは一体!? 

悲しみでもなく、切なさでもなく、感傷的ななにかがそっと胸に染み渡る、そんな小説です。

〈私〉の人生やロマンスを描く物語のもう1つ外側で、ギャッツビーの物語が描かれている感じです。

そういった形式が若干の読みづらさに繋がってしまうんですが、それでも抜群に面白い小説だと思います。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


最後にリンクとして映画を1本。同じように感傷的で、恋と夢の欠片が描かれた映画。『カサブランカ』。

カサブランカ 特別版 [DVD]/ハンフリー・ボガート,イングリッド・バーグマン,ポール・ヘンリード

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ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン共演の知る人ぞ知る名作です。

ぼく自身はそれほど好きでもないんですが、『グレート・ギャッツビー』と感覚的によく似たところがあります。

「君の瞳に乾杯!」という名ゼリフはこの映画から生まれました。興味のある方はこちらもぜひぜひ。