4月14日に参加しました駅からハイキング、今回は残りのルート(但し一部変更あり)を歩いて参りますウインク前編はこちら👇

現在、JR常磐線の南千住駅に向かい歩いています走る人走る人走る人そして今歩いているこの通りの名前、とある昔の経緯から、特殊な名前が付けられているんですニヤニヤして、その名前とは!?

正解はこちら👇「コツ通り」という名称ですキョロキョロで、コツ通りのコツって、何!?答はドクロですビックリマークそうなんです、コツ通りのコツは「骨」なんですよ滝汗

しかしいくら通りの名称が「コツ通り」だとしても、医療機関なのにその名称をそのまま使用するって、ちょっと、どうなんでしょうかニヤリ

では何故、ここを「コツ通り」と言うのでしょうか??それはそのものズバリ、昭和の30年代半ばからの地下鉄建設ビックリマークその掘削工事が進められていたのですが、ちょうどこの辺りの工事が進んだ時に地面の中からザックザクと、お宝ならぬ頭蓋骨が出てきたのでしたドクロドクロドクロドクロドクロゲローすわ、大量殺人事件&その死体が遺棄された場所だったのか叫び違いますパンチ!実は江戸時代のこの近くには「小塚原(こづかはら)刑場」という刑場があり、実に20万人以上の罪人がこの地で斬首されたのでした。この場所で大量の人骨が発掘された比較的最近の事例としては1960年(昭和35年)6月、当時の営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線り工事の際に、「小塚原刑場」で処刑されたとみられる大量の人骨が出土されたり、また最も新しい事例だとさらに40年後の1998年(平成10年)10月、現在の「つくばエクスプレス」の建設工事中に104人分の頭蓋骨が出土されましたガーンまた、2001年~2002年(平成13~14年)にも頭蓋骨252人分の大量の人骨などが掘り出されています。昭和期になってからの出土などでは場合によっては警察が捜査本部を設置して捜査にあたっても良さそうな事案ではありましたが、しかしコツ通りから人骨が出土されたからと言って事件性に発展した事案はないようです。つまりこの界隈にお住まいの方は誰もが、“ここは江戸時代の刑場跡だ”と言うことを知っており、そのため土中から人骨が出土したとしても“あぁ、江戸時代の罪人の亡骸ね”程度に慣れてしまっているのでしょうかニヤリしかしここで悪さ(殺人計画)を企んでいるよからぬ人がひらめき電球と来て、“死体をコツ通りの下に埋めちまえば完全犯罪が出来るグラサン”なんて考えても絶対にその企みは成功しませんよニヤリだって、死体を検分すれば、例え骨となっていても死後何年くらい経過したものかは、わかりますからねニヤリ科捜研の女、を舐めちゃダメなんですよニヤリそして「コツ通り」の命名の所以なのですが、これ以外にも諸説があり“小塚原をこつかっぱらと呼びコツと略した”とか“小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(コツ)と名付けた”などの説があります。しかし小塚原刑場で処刑された罪人の亡骸が火葬された史実はなく、首のない遺体は丁寧に埋葬されること等もなくその辺りに投げ捨てられていたわけですから、火葬場説は間違いですねニヤリそれと南千住という街は今でこそ再開発が行われ「南千住アクロシティ」「南千住フロンティアシティ」に代表されるように超高層タワーマンションが林立する区画も出現しているのですが、元々、小塚原は「山谷(さんや)」の北側に位置しており、その山谷とは、かつては日雇い労働者が集まった場所。ここでは手配師と呼ばれる仕事の紹介者から日払いの仕事を求める労働者が寝泊まりする街だったのです口笛ですが日雇い労働者たちは必ずしも毎日、仕事にありつけるわけではなく、例えば“土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい”などと言われていた時代。そのため毎日の確実な収入が見込めない日雇いの労働者、何かを倹約しなければなりません真顔しかし彼らが酒生ビール日本酒ロックグラスをガマンすることはなくニヤリ、では何を倹約するのかと言うと夜を過ごす場所。即ち、昼間は働いていますし夜は稼いだ金で生ビール日本酒ロックグラスなので、寝る(だけの)場所なんて、安けりゃ安いほどいいビックリマークと考えられていました。日雇いの、肉体労働を主とする彼らの仕事でしたが、今のように“良質な睡眠こそ身体に大切”などの発想はまるでなく、せんべい布団一枚だけが用意された一室に何人も詰め込まれた、ちょっと例えは悪いのですがハイシーズンの山小屋などをイメージして頂ければ宜しいかとニヤニヤ所謂、簡易宿泊所がこの南千住にはたくさんあったのです。それはchuが働き始めました昭和の末期でも、この南千住にはJR常磐線の沿線沿いには多数残っていたことを記憶しています。そして南千住駅に向かう「コツ通り」沿いにはちょうどこのような宿がありました👇

「相生館」とい名前の旅館。看板には冷暖房完備のビジネスホテルと書かれていて、その宿泊料金は驚くなかれ、1泊1900円~2200円ポーンしかしビジネスホテルを冠しているこの旅館はその外観から昔は簡易宿泊所であったことは明らかです。ですが日雇い労働者に対して手配師が仕事を割り振るという風潮は今ではほとんどなくなり、そのため「山谷」に日払いの仕事を求めに来る労働者は居なくなり、昔の簡易宿泊所は次々に閉鎖に追い込まれたのでした。しかしです、「山谷」を中心にしたドヤ街を形成していた場所は、実は地理的には都心部にあり交通は至便、周辺には観光スポットも豊富のため、かつての簡易宿泊所は“格安ホテル”として特に2000年代以降、来日外国人が宿泊所として“お安く泊まれるホテル”として注目され始めたのでした。ですのでこの「相生館」の客はバックパッカーを始めとする、“お安くお得に日本を楽しみたい”とする訪日外国人であり、かつてのような日雇い労働者ではないのでした口笛ですがこの「相生館」、Webサイトはありませんから訪日を予定している外国人が自国でこの宿の情報を得ることは難しく、また来日したとしてもネットからの情報は得られませんから“口コミ”が主なのでしょうねキョロキョロなお南千住周辺の、かつての簡易宿泊所では共同ではありますがなんとオフィシャルWebサイトを開設しており、ここから情報を得る来日外国人は多いのでは、と思われますウインク

そしてJR常磐線の南千住駅前。ロータリーには俳人・松尾芭蕉のブロンズ像がありますニコニコ

そしてこちらの案内板ではさらりと“この千住の地から奥の細道の旅へと出地しました”とあります。ですが左の地図にはトリックがニヤリ南千住の駅とその右側に日光街道、「矢立ち初め」の句がありました「素盞雄神社」。しかしこのイラストマップは実は天地が逆パンチ!プンプン即ちマップの下が北になっており、どうしても芭蕉は深川から隅田川の右岸に上陸し、千住大橋を渡って「奥の細道」に旅立ったことにしたいという荒川区の願い狙いが見て取れるのでしたニヤリ

こちらは「小塚原刑場」跡地に建つ浄土宗延命寺の幟。境内には刑死者の菩提を弔うために1741年(寛保元年)に建てられた首切り地蔵と呼ばれる4m程の大仏地蔵様が鎮座しいます。なお「小塚原刑場」は徳川幕府が始まって直ぐの1651年(慶安4年)に開設され、その後もなんと近代の明治6年になるまでの200年以上にわたりこの地で斬首、磔などの処刑が実行されていたのです叫び

さて、次のスポットである「ジョイフル三ノ輪商店街」に向かいましょうウインクと、その前に「関東の駅百選」にも選ばれています東京サクラトラムの始発&終着の三ノ輪橋駅へとやって来ましたニコニコ前編でも記しましたがこの電車は小池東京都知事の発案により「東京サクラトラム」と呼ばれるようになりました都電荒川線。昭和40年代初頭までは東京都心部内に蜘蛛の巣のように張り巡らされていました都電(チンチン電車)でしたが、モータリゼーションの急速な波及により道路を車と供用している路面電車は交通渋滞の元凶とされ、次々と路線は廃止に(>_<)そして今では都電の中で唯一、現存しているのがこの荒川線。ですがどんどんと廃線を余儀なくされた都電の中で、なぜこの荒川線のみが生き残れたのかと言うと、三ノ輪橋~早稲田の全長12.2㎞のうち、車道と供用しているのは北区王子駅周辺の500mにも満たない箇所のみで、残りの区間は全て専用軌道となっており交通渋滞を引き起こす要因にはなっていないからなのですニコニコ前編でも御紹介致しましたが、実は「東京サクラトラム」沿線には線路沿いにバラが植えられた箇所が幾つかあり、そのうちの一つがここ三ノ輪橋駅。写真、手前に移っている植物はバラでして、5月中旬頃には見事な花を咲かせてくれますよウインク(詳しくは前編にリンクしました拙blogを御覧下さいウインク)

三ノ輪橋駅につきましては前記、前編にリンクしました拙blogでも触れていますが、三ノ輪橋駅の構造は“二層構造”になっており、前方に見えているのが降車専用のホーム。ここは早稲田方面から来た電車の終点&早稲田方面への始発駅となりますので降車専用のホームで全てのお客さんを降ろして、このホームまでは回送電車としてやって来ます。左手にはオロナミンCとボンカレーの、とても懐かしいブリキ製の看板、まだ健在でした照れ

そして「ジョイフル三ノ輪商店街」へ走る人走る人走る人商店街が出しているホームページもありますウインク

商店街はアーケード構造で、三ノ輪橋駅の近くには複数の総菜屋さんがあり、とても賑わっていましたニコニコ

ですが中ほどに行くに従い御覧の様な空き店舗が点在あせるあせるあせるというか、アーケード街の最後の方は殆どのお店はシャッターが閉じられたままの“シャッター街”と化していましたチーンアーケードの中のシャッター街っていったい笑い泣きそして実はこの「ジョイフル三ノ輪商店街」、その昔、そうですね、今から20年くらい前はとても盛況を極めており、全国各地からの商店街関係者を始め各自治体からの行政視察も相次いでいたのですが、その後10年ほどが経過するとアーケード内の店舗の閉店が始まり、今では三ノ輪橋駅に近い場所を除くとアーケード内は歯抜け状態となってしまいましたショボーンなおこのアーケードの近くには、個人商店を脅かすほどの大型な商業施設はないのですが、個人商店と言うことでやはり後継者不足なども影響しているのでしょうか、昔の活気はどこに!?と言った様相になってしまいましたえーんそして前回の「駅ハイ」では武蔵小山のアーケード商店街を訪ねましたが、その規模と充実度、来客数はどれを取りましても雲泥の差となっていますことを痛感しました笑い泣きこの後、「ジョイフル三ノ輪商店街」がどのような姿に変わっていくのかにつきましては簡単には論じられないところではありますが、武蔵小山のアーケードと、「ジョイフル三ノ輪商店街」とでは同じ“アーケードの商店街”とは言っても似て非ざるもの、と言わざるを得ないのが現状です真顔

お次はスポットをドバっと飛ばして山手線&京浜東北線の鶯谷駅、を少し過ぎた寛永寺陸橋からほんの少し内側に入りました台東区桜木2丁目付近。なおここから少しだけ上野公園側に入った所には徳川三代将軍・徳川家光公が開いた「東叡山寛永寺」があり桜の名所としても知られています照れですが既に今日(4月14日)は桜は散っていますから今回は立ち寄りませんでしたニヤニヤそして上野桜木で絶対に外せないsceneと言えば、京成線の始発駅であります京成上野駅、この駅は上野の山の下にある地下駅なのですが、電車は京成上野駅からは地下トンネルを走り、まさにこの場所で地上に出て来るのです👇これをカメラしないといられないchu照れまさにここは京成本線の中でも最高の撮影スポットビックリマークとchuは確信していますチュー

そして“京成本線撮影スポット”に出向きましたのでこの辺りからコースアウトが始まりました爆  笑もう何度も訪れてはいますが久しぶりの機会ですので第15代将軍・徳川慶喜公のお墓参りにウインクこちらは谷中墓地の中にありますニコニコ慶喜公は徳川幕府の幕引き(大政奉還)をされた方で“徳川幕府を滅亡させた張本人”との非難があるのも事実です。ですが慶喜公は大政を朝廷に返還したとしても、武家社会が台頭した鎌倉幕府以降、国を司るのは形式的には帝(朝廷)ではあるものの、実際には全ては朝廷からの信を託された征夷大将軍たる武将が政(まつりごと)を取り仕切ってきたのが日本の史実です。もちろん、武将の最上位にある征夷大将軍に勤王の志があったことに間違いはありませんが全ては自身が行う執権に正統性を持たせるための事。ですので朝廷には政をするノウハウはなく、また慶喜公の叡智さは“徳川家康公の生まれ変わり”とさえ敵方の南西諸国の指導部(西郷、大久保、桂など)からも畏れられてもいましたし、慶喜公御自身も自分に執って代われる者はいない、と確信していたからの大政奉還。慶喜公側近の西周(にしあまね)の直言を受け入れ、自身を頂点とする「共和国」制を敷こうとしていたところの南西国藩の卑劣極まりない朝廷工作等により画策された「王政復古の大号令」(一部、「共和国制」を支持する親徳川幕府派もいましたが)と、それに起因した戊辰戦争により、遂には朝敵の汚名を着せられてしまいました。江戸幕府の終焉に伴い、蟄居謹慎の後、長らく駿府にて隠棲しておりましたがやがて許され東京に移り住みますが、それはなんと30年も経過した1897年(明治30年)のことびっくりま、その間でも慶喜公は異母弟でありとても信頼していた“幻の第16代徳川将軍”の居宅、chuの住む千葉県松戸市にあります最後の水戸藩主でもありました徳川昭武公の私邸の「戸定邸」には何度も足を運ばれています。では何故、慶喜公の墓所が代々の徳川将軍のお墓があります「東叡山寛永寺」や、徳川家の菩提寺である芝「増上寺」ではないのかと言うと、慶喜公はもはや将軍家としてではなく明治期になり公爵となられたことで貴族院議員にもなり、今までの徳川宗家ではない「徳川慶喜家」を興したこと等も深く関係し、“徳川菩提寺”である寺院とは異なる谷中墓地に永眠することとなったようですウインクがしかし、慶喜公の墓所は谷中墓地内にはあるものの、実はこの場所は寛永寺の“寺院外”の墓所であると言う事は、あまり知られていないことでもありますウインク

お墓を囲む門柱の真正面には徳川家の家紋である“葵の御紋”が施されています。また慶喜公は晩年、華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残したため、一般皇族と同じような円墳が建てられたのだそうですニコニコなお、お隣には慶喜公とは永らく別居の末に先にお亡くなりになりました正室の美賀さまのお墓がありますニコニコ

そして最後のスポットは「谷中銀座」ウインク 1950年代から続く昔ながらの商店街ニコニコ互いに隣接しているエリアである谷中、根津、千駄木を一緒に散策するのが通、と言うことからそれぞれのエリアの頭の文字を一つずつ取った「谷根千」で“やねせん”とも呼ばれていることでも有名なスポットですウインクまた「谷中銀座」の商店街と日暮里駅とを行き来するのに使う「夕やけだんだん」と呼ばれている階段も有名です照れ

それと“谷中と言えば猫”ビックリマークと言われるほど界隈には地域猫が棲息していて、どのニャンコも人慣れしていて、全く動ぜず常にマイペース爆笑ホント、典型的な猫の生態を表しているスポットでもあります爆  笑

かようなことから谷中にはネコ好きの人間もたくさん集まり爆笑猫に纏わるグッズを取り扱うお店が多いのも「谷中銀座」の特徴ですウインク

そして今回、chu家ではこちらの商店でお買い上げニコニコ100均はもちろん、ホームセンターにもないような逸品が多数、ありましたウインク

そして視界の先に見えているのが件の「夕やけだんだん」と呼ばれている階段です。先ほどの「谷中銀座」の西端から階段までの距離は150mほど。この間に約60軒の店舗と飲食店が並んでいます。この日は日曜日の午後で、凄く混雑していましたウインク

こちらが「夕やけだんだん」👇元々は特に名の無い階段だったのですが、1990年に石段の改修工事が行われた際に愛称を募集したところ、このエリアの街の様子を紹介していたタウン誌「谷根千」の編集者で、作家でもある森まゆみさんのネーミングが選ばれたのだそうですニコニコ愛称が付けられて34年が経過した今では“夕やけだんだん”の名前はすっかり定着していますよねウインク

さて、夕やけだんだんを過ぎるともうすぐ日暮里駅ウインク途中にある「大黒天経王寺」を参拝します。1868年(慶応4年)、似非官軍により朝敵とされてしまいました慶喜公は、朝廷に逆らう意思がないことを明らかにするとともに寛永寺にて謹慎の後、水戸に戻り蟄居したのですが、江戸城の無血開城に憤りを隠せぬ旧幕府軍は似非官軍との徹底抗戦を決意し彰義隊を結成。上野の山に立て籠ります。ですが武器の性能で圧倒的に勝る似非官軍の軍門に下り壊走笑い泣きその際、「経王寺」住職は敗れた兵士の一部をかくまったのですが、そのため残党狩りをしていた似非官軍は容赦なく寺院に対して攻撃を加えたのでしたムキー寺院を攻撃するなんて、なんと罰当たりなことをしたのでしょうかパンチ!思えば寺院と敵対した織田信長も、豊臣秀吉も、そして江戸幕府を開く前の徳川家康も寺院を敵に回した後にはおしなべて痛い目に遭っていましたからね。なお「経王寺」の山門には、似非官軍が仕掛けた銃弾の傷跡が今も残っているのです真顔

そして最後は“撮り鉄の聖地”から照れ一番西側(左側)から、京浜東北線北行き(大宮方面)、山手線内回り(池袋・新宿方面)、山手線外回り(上野・東京方面)、京浜東北線南行き(大船方面)、東北・上越・北陸新幹線下り(新函館北斗・秋田・新庄・新潟・敦賀方面)、東北・上越・北陸新幹線上り(上野・東京方面)、高崎線下り(高崎方面)、高崎線上り(上野東京ライン直通)、宇都宮線下り(宇都宮方面)、宇都宮線上り(上野東京ライン直通)、常磐線下り(松戸・水戸方面)、常磐線上り(上野東京ライン直通、但し品川まで)、京成本線下り(成田空港方面)、京成本線上り(京成上野方面)、のなんと14本の線路が通っている日本最大の線路が集中している超過密スポットですポーンただせっかくの撮影スポットなのにちゃんとした撮影場所などが整備されていませんショボーン荒川区さん&JR東日本さん、ここは素晴らしい観光要素を秘めた場所でもありますビックリマークお互いで協議をし、「成田国際空港」の第一ターミナルの展望スポットのようなものを造って下さいなえー京成スカイライナーを使えば36分で成田空港に行けるでしょウインク

そして日暮里駅に到着ビックリマークお疲れさまでしたウインク 下段の、日暮里駅の文字にとある特徴がウインク

“ニャンとも可愛い”と話題になっていますニコニコ

毎度恒例の“お疲れさん会”は地元・松戸に帰還してからウインク(まだ時間が早いから、地元に帰ってからでした爆笑)

少し古い動画ですがシステムは基本、変わっていません👇

以上で4月14日に参加しました「駅からハイキング あらかわを 駅から巡り 俳句詠む」~日暮里駅からの駅ハイク、終了です・御精読、有難うございましたウインク