文教祖「学生時代、富士山にも行けなかった」と言ったが卒業旅行は富士山登山 | ちゃぬの裏韓国日記

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■文教祖「学生時代、富士山にも行けなかった」というのは嘘

まず、よく聞く文教祖の苦労話のみ言葉から・・・

日本に行って、良い所を見物して回るということはしませんでした。ですから、富士山にも行かず、熱海、箱根、日光にも行きませんでした。神様が願われる美しい地にも、神様が御覧になって喜ばれ、「あそこは良い所だから行ってみよう」とおっしゃられたあとでこそ、行きます。そうでなければ、絶対行きませんでした。これが先生の主義です。』
(真の御父母様の生涯路程1)

『頭振っていいところへ見物に行ったり、今日みたいに見物に行ったりしなかったよ。だから富士山にも行かないし、熱海にも行かないし、箱根にも行かないし、日光にも行かなかった。神が願う見たい所の基準を、神が見て喜んでから、「君行ってみな。いいから」、それから行く。それが先生の立場だよ。だから絶対行かなかった。それで、友達なんか、みんな先生を連れて行くというからね。皆が切符を買ってきても、「よせよ、やることがある」
(早成寮でのみ言葉 1965年10月8日 東京)

『私が怨讐の国に行って足を踏み入れたその時から、私は涙まで収めたのです。そこから私の行く道を定めました。私は、日本の名勝地に一度も行ってみることができませんでした。国のない民が、そのような看板の付いた所には行かないというのです。私が日本に行っている時、家からお金を送ってくれなくてお金がなかったのでもありません。日本人が見ているところで、その怨讐の前で、自分の威信と体面を立てようとはしなかったのです。目立とうとはしなかったのです。』
(真の御父母様の生涯路程1)

『怨讐の国に行って足を踏み締めたその瞬間から、涙を流すのをやめました。そこから私が行くべき道を決定するのです。私は、日本の名勝地に一度も行くことができませんでした。国のない民がそのような看板のついた所には行かないというのです。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1964年6月12日のみ言葉)

日本にいる時も、名勝地を一度も訪れて見たことがなかったのです。私はぼろを着て食べられなくても、苦学生たちを訪ねて彼らのために苦労もしたのです。なぜ? 韓国を愛していたからです。』
(天の勇士 1964年10月3日 韓国・大邱教会)

『日本に来ても先生は闘ったんですよ、その時は。わかりますか? 闘った。日本におる時のその心情は、皆さんに、ある時に話しましょう。それで日本に来て、約三年近くおったんですがね、ここ日本の景色のいい所には一回も行ったことがない。
(統一旗授与式後のみ言葉 1965年1月29日 東京・本部教会)

日本留学時代、貧しかった文教祖は学費を稼ぐためアルバイトの毎日でした。

しかし文教祖はお金が無いながらも卒業した直後、卒業記念旅行で富士山登山に誘われ、あっさり友人と旅行に行ってしまいます。

『学校を卒業して、私が下関を経て韓国のソウルまでのチケットを買いましたが、その時、乗らなければならなかったのが崑崙丸です。
 崑崙丸という船が沈没しました。まさにその船に私が乗るようになっていました。その時が十月四日だったと思いますが、その船に乗るはずだったのです。
 何時に船に乗ると電報を打ったので、その船に乗るようになっていたのです。ところが、駅に行って汽車に乗ろうとするのに、足が動かないのです。その船に乗ったならば逝くのでしょう。それで、天が先生に行かせないようにするのです。それがよく分かる人なのです。心が、あとに戻れというのです。それで、すぐには行くことができないという連絡をせずに、帰ってきて、友達と登山に行きました。その時が秋でしたから、富士山に行こうといって、登山に行きました。私が登山に行ったために、数日が過ぎました。一週間いて帰ってきたのですが、それから電報を打つでしょうか。そのため、故郷では大騷ぎになったのです。』

(真の御父母様の生涯路程1)


『東京駅に行って汽車に乗ろうとするのですが、足が離れないのです。その船に乗っていれば逝くのでしょう。既に天は、先生を行くことができないようにされたのです。それをよく知っている人です。心が「後ろに戻れ」と言うのです。電報を打って「行くことができない」という連絡もせずに、友人たちと登山に行きました。その時が秋だったのです。富士山に行きました。私が登山に行った拍子で、何日かが過ぎました。一週間して戻ってくると、故郷では大騒ぎだったのです。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1979年10月26日のみ言葉)


『だから、先生は、韓国において有名な所には絶対行かない。ある目的を達成し、自分の計画圏内に入るまで行かない。名所には行かない。日本に何年間おったんだけれどね。富士山に、友達はみんな行きたがる。行くんだったら先生がリーダーになればいいんだ。環境をよく動かすんだからね。しかし、先生は、そういうのを好まないということを知っているんだから、切符なんか、みんな買って来て、「熱海だ、熱海」と言って連れて行こうとする。そういうことが何回もあるんだよ。行ったところは、鎌倉一カ所しかない。なぜかというと、何も自分の使命を全うしない者は、見る資格がない。人間として、名所を観賞する資格があるか。創造本然の基準を全うする資格がない。見られる自然も好まない。そういうことを考えてみる。』
(本部教会和動会でのみ言葉 1965年9月30日 松涛本部)

『皆を連れてどこかへ一日ぐらい行ってもいいんだけれどね。(大拍手)。どこ行くの? 行く所ないだろ。どこ、山もないしね。ま、行く所、近い所ないだろう。(「箱根」)。箱根、皆行ってみたんだろう。先生は箱根行ったんだよ。昔、箱根行って。どこがいいだろう。ま、こっち、幹部だけで何人いるかな。今は海水浴できないだろう。寒いだろう。(「大丈夫です」)。東京の近所は行かれる所ないんだね。山とか、その、箱根ぐらいしか。』
(原理大修練会、摂理的同時性講義後におけるみ言葉 1967年6月27日)

結局、名勝地に行った事もないと言いながら、富士山登山、鎌倉、箱根には遊びに行っているわけです。

この辺、自叙伝ではどう表現されているのでしょうか。

教会では文教祖の苦労話を引き合いに出し、信者に対しても「死ぬほど苦労しなければいけない」と指示しますが、実際は文教祖も学生時代を謳歌していた普通の若者だったわけです。

『生涯において、いかなることが起こるか分からない。それに対して、余りある準備をしていくのは知者のやり方である。それを少なくとも三十代までは、ありとあらゆる分野において体験しておけ。だから、夜も、昼も、休む暇がない。遊びに行く暇がない。先生は、富士山にも学生時代には行けなかった。先生は、四方八方、よく見回る性質をもっている。しかし、友達が切符を買ってきて「これで行こう」と言うのだけれど、学生時代は暇がなかった。だから、三十までは準備しておく。準備は何かというと、実践のためである。』
(興亡盛衰 1971年3月21日 水沢里中央修練所(日本のメンバーに対して語られた))

たぶん本音はこちらのみ言葉ですね。学費稼ぎでアルバイトして遊ぶ暇も、金も無かったと言うのが本音でしょう。

しかし箱根や鎌倉には遊びにいけているのですから、充分ではないでしょうか。

苦学生だった文教祖は、日本にいる同胞(在日韓国人)にはついつい見栄を張って「自分は大卒」だと嘘をついてしまいます。

『そして、解放になって大学を卒業して、その時徴兵問題がありまして、工科系統の者はね、徴兵に、兵隊に引っぱられないんだからね。それで先生は就職する為に、満州のパイラルというところに行くように決めたんであります。学校で就職の斡旋をしてもらってそこを願ったのは、将来を考えてのことだったんだね。そこでは中国語を習うし、或いはソビエト語も蒙古語も習う事が出来る。それで、大なる今後のアジアの伝道舞台、神の摂理圈を思いながら、苦しみの果てなき道であろうけれども、その地に行っていろいろな言葉を勉強しなけれぱならないという観点において、そこへ行くようにした。
 しかし、韓国に行って四十日ぐらいこもってみると、明日の状況が不安だということを感じた。これは行ってはいけない。それで、満州電業に就職したのを、支店長に会って取り消すようにけんかしたのも、昨日みたいな思いがしますね。ま、そういう路程を辿りながらも、そのように国を抱えながら将来に栄えていく、そういう道を開拓していかなけれぱならない。そういう過程を通過してきました。
 解放という時に、先生を獄中でもっていろいろ拷問したその時の強盗、思想担当の日本の官兵が沢山おったんだけど、その者達を一挙に、友達と国家的基準において大々的に粛清運動なすとき、先生はそれを止めて、自分達に苦しい拷問をした刑事たちをみな許して日本に送った事が、昨日のように思いますね。』

(僑胞へのみ言葉 1974年5月12日 東京)

「解放になって大学を卒業」???

まったく合ってません。整合性まるでなし。
解放とは1945年8月15日の終戦のこと。
文教祖の卒業は繰り上げで、43年9月でしたし、大学も卒業してません。

このみ言葉を聞いて、信者は文教祖は早稲田大学卒業と勘違いしたのかもしれません。
文教祖(韓国人)は知らない人には見栄を張ってみたいものなのですかね?