合気道をやりはじめてしばらくたつと、
「合気道と他の格闘技で戦ったらいったいどちらが強いのだろう?」 と考えることがあると思います。
他の格闘技をやっている人を鮮やかに投げ飛ばせればかっこいいですし、やってみたいという気持ちが芽生えるのも無理はありません。
でも、合気道は試合もないし、そもそも現代の格闘技の試合では、合気道でやるように手首を押さえる攻撃をしてくる人なんていないし、だから合気道は実戦では使えないし、弱いんじゃないの?
などと、その実力を疑い始める人も出てくるかもしれません。
ですが安心してください。
それは大きな誤解であり、勘違いです。
その理由はこれから説明します。
合気道と現代格闘技とを同列に扱ってはいけないのです。
というより決して「同列に扱えない」のです。
合気道に限らず、それぞれの武道の成り立ちやバックグラウンドを知ることにより、その違いを理解することができます。
多くの人は、武道と現代格闘技を同じものとしてとらえているかもしれません。
武道というと、「柔道」 「剣道」 「空手道」 「合気道」 などが思い浮かぶでしょうし、
現代格闘技というと 「ボクシング」 や 「K-1」 「ムエタイ」 などが思い浮かぶかもしれません。
実際、柔道や空手からK-1や総合格闘技に転身したひともいるため、武道も格闘技も同じだろうと考えるのも仕方ありません。
確かに一般的な、「1対1での試合形式」 をとった場合、武道だろうと現代格闘技だろうと、相手を打ち負かして勝ち負けを争うという点では大きな違いないでしょう。
しかし、武道と現代格闘技とでは、その起源や生い立ち、ひいては目指すものに大きな違いがあります。
それぞれ何が違うのかを、古流柔術である合気道を例にとって、はっきりさせましょう。
まず言えることは、「合気道は現代格闘技ではない」 ということです。
合気道自体はここ100年以内に作られた比較的新しい武道ですが、合気道のもとになった大東流合気柔術は非常に古い時代に起源があり、古流柔術と呼ばれる部類に含まれます。
合気道の元になった大東流合気柔術のような古流柔術が生まれた時代は、刀や槍で殺し合いをしていた、いわゆる侍の時代です。
大東流が生まれたのは平安時代といわれています。
当たり前ですがその時代は、現代のように道がアスファルト舗装などされていませんし、外に出る時も、安定性のあるスニーカーやスパイクなど履いていません。
敵と戦う場所は、それこそ砂利道か、砂地か、ぬかるんだ田畑か、どんな場所で戦うかはわかりません。
当時の戦いとなれば、相手は武器を持っているでしょうから、戦いのさなかにすべって転んでへたり込めば、すぐさま殺されかねません。
ちょっとタイム! は通用しません。
ですから当時の人たちは、まず第一に重心と足元の安定性を重視したのです。
日本武道がすり足を基本としているのはこのためです。
もちろん、戦いの場にはリングもなければレフリーもいません。
実戦はすなわち殺し合いですから、当時は現代のような 「試合」 の概念もなく、
現代のような勝ち負けを判定するルールもありません。
そもそも1対1とも限りません。
こういった、侍や武士が支配していた時代の実戦は主に刀を使った勝負となります。
よって当時の実戦における「勝ち」「負け」はそのまま「生」と「死」を意味したのです。
いざ実戦となれば、誰もが武器を持って戦いをしていた時代ですから、武器をもった相手に対し、
「パンチ」 や 「キック」 で挑もうとする人はいません。
相手を殺すことが前提なら、素手より武器を使う方が楽だし効率がいいからです。
ですから戦いとなれば、誰しも刀や槍などの武器をもって対応するでしょう。
自分も相手も武器を持っているので、相手と対峙した際、互いにある程度の 「間合い」 があり、刀の間合いでは蹴っても届かないため、合気道には蹴り技はありません。
(大東流柔術には、接近時における足蹴りはありますが、戦場では甲冑をつけているので、空手のような頭まで足を上げるような素早い上段蹴りは基本的に不可能という前提です)
もし自分が武器をもっていない、もしくは失った場合、敵に刀を抜かれることは自分が圧倒的不利になることは明白ですから、そういうときは相手の武器を使えなくすること、すなわち武器を持っている相手の手を封じることが先決になるのです。
合気道には蹴り技がなく、演舞や稽古で、手刀を使ったり、手を押さえにいく動きがよく見受けられるのは、こういった理由からなのです。
「今現在、いきなり手刀で攻撃してきたり、手をつかんでくる人なんている訳ないじゃん!」
という難癖をつける人がいますが、当たり前なのです。
時代が違えば戦いの概念そのものが違うということです。
こういう時代背景から発生した、古流柔術のながれをくみつつ、より人体の動きを深く研究し、相手との調和、自然との融合、 「神道」 の 精神も取り入れて、開祖 「植芝守平」 が武道として体系化したものが現代の 「合気道」 です。
だからといって、合気道の動きがパンチやキックに全く対応できないということではありません。
合気道の体裁きをしっかりと訓練することで、パンチや蹴りにもある程度対応はできるでしょう。
しかし、相手が殴ってくる、蹴ってくることが前提で作り出された、他の武道や格闘技とは考え方そのものが違うため、合気道の動きのみで、パンチやキックへの、より効率のいい対応をすることはもちろん困難です。
ですから、たとえばキックボクサー等を相手に、「キックボクシングのルール上」 で、合気道の技だけを使って戦えと言われれば合気道側が不利になるのは当たり前です。
そして、それは合気道に限った話ではありません。
キックボクシングのルールの上で、空手や柔道の技だけで戦えと言われれば空手・柔道のオリンピック選手だろうと不利になるのは明白です。
逆に、武術や古流柔術の技の中には現代格闘技のルールでは禁止されている危険な技も多くありますから、そういうものも含めて相手の怪我など一切考慮せずに、何をしてもいいという条件であれば、結果はまた違ってくるでしょう。
そもそも合気道のような 「vs刀」 を想定した時代背景から生まれた体術をベースとする武道と、徒手格闘で顔面を狙って殴ることを基本とする現代格闘技を同列に扱おうとすること自体に無理があります。
ご存知の通り、合気道は、相手を攻撃し相手をやっつけることを目的とした武道ではありません。
合気道の 「合気」 は 「相手と気を合わせる」 という意味を持ちます。
その意味することは、相手との調和です。
それは究極的には相手と争わないということです。
もちろん相手が自分を殺そうと攻撃してきたときはそれに対応しますが、その戦い方も他の武道や格闘技にはない、入り身・転換を基本とした円運動を中心に、攻撃をしてきた相手のエネルギーを利用して相手を倒すという独特なものです。
そのような動作の中にも、相手との調和という理念は表れています。
すなわち、自分と相手とのエネルギーをぶつけないということなのです。
合気道の稽古は、いかに自分と相手とのエネルギーをぶつけずに対処するかが重要視されます。
相手に体を押さえられ、一見身動きが不可能のように思える状況で、いかに体の緊張を解きつつ、そこから脱出し、相手を傷つけず、さばき制することができるかなどの、自分と相手との力のベクトルを感じ取り、攻撃してきた相手のエネルギーの量、方向を読み解き、その対処方法の向上を日々目指していくというものだと私は理解しています。
どんな競技や武道でもそうですが、
「試合」 という状況では、お互いがお互いを倒そうとするあまり、攻撃する意識と力が真っ向からぶつかり合います。
しかも、ルールに従い何らかの方法で相手を倒さないと試合を終わらせられません。
こういった状況では相手と気を合わせることは不可能といえます。
つまり試合という状況になった時点で合気道の出番はないのです。
合気道に試合がないのはこのためです。
こちらに攻撃する意思がなければ試合そのものが成立しませんから、そこに勝ちも負けもありません。
別に弱いから試合から逃げているとか、そういうことではないのです。
「試合」 という形式にしてしまうことで、必ず 「勝ち負けの判定」 をしなくてはならなくなります。
なにをもって勝敗とするのか? というレギュレーションを決めなくては判定ができません。
武士の勝負のように、相手を殺すわけにはいきませんから、こうしたら有効、こうしたら一本というように、それ専用の独自の規定を設けなくてはならなくなります。
その判定方法は、ご存知のように競技の数だけ違いがあります。
たとえば、相撲もレスリングも様式は似てはいますが、勝ち負けの判定方法は全然違います。
どっちか一方のルールに基づき、どっちが強いとか弱いとかの判定は当然できません。
すでに述べた通り、合気道は必要がない限りこちらから攻撃しないことが前提で、相手が襲ってきた際に、相手の力を利用しつつ捌き制することが基本になります。
ですから、合気道をやっている人たち同士で、互いに合気道の技を使って試合をすることはできません。
世の中には 「実戦合気道」 的なことを謳って、合気道の技を互いに力ずくで無理やり掛け合うような試合を行っている合気道道場があるみたいですが、それは私から言わせれば、極めて無意味なことをやっているようにしか見えません。
攻撃する意思がない人を攻撃する必要はないので、そこに争いは生まれません。
こういった意味での 「相手と争わない」 という理念が根底にあるということを、合気道をやる人は理解していなくてはいけません。
「合気道の技を使って、他の競技者を倒してやろう、ふふふ・・」 という邪気が生まれている時点で、すでに負けているのです。
現代におけるリング上での試合で勝利することが 「強さの証明」 であり、それこそが 「実戦」 であると思っている人には、この理念はなかなか理解できないかもしれません。
ですが、根本的な話として、いったい 「実戦」 とはなんでしょうか?
リングでレフリーがいてルールのある試合が実戦でしょうか?
あなたが家でくつろいでいるときに家に強盗がはいってきて、それが実戦になるかもしれません。
相手は武器を持っているかもしれませんし、一人とも限りません。
歩いているときに誰かと肩がぶつかり、因縁をつけられ、実戦になるかもしれません。
実戦は意外にもエスカレーターの上とかエレベーターの中で起きるかもしれません。
もしかしたら駅のホームかもしれません。
いや、電車の中かもしれません。
もちろん、リング上でのファイトも実戦かもしれませんが、ありとあらゆる状況が想定される実戦の中のたった一つにほかなりません。
そう、真の実戦とは、定められた状態を言うことではなく、日常のありとあらゆる状況が、場合によっては実戦になりうるのです。
その上で言うならば、リング上での試合をもって実戦を定義することは誤りであり、それが強さの証明にはならないということがわかります。
実戦というものが、本当の命の駆け引きであった時代が過去にあったということを理解したうえで、本気で 「実戦」 というものを語るのであれば、現代のリング上での試合形式のファイトは、人間の強さを証明する指標には決してなりえません。
あくまで独自のルールに従った、その場所でのみ通用する強さともいえるでしょう。
乱暴な言い方をすれば、現代のリング上におけるファイトは、人類の争いの歴史から見ればあまりに稚拙だといえます。
というのも、現代格闘技は相手を必要以上に傷つけないようにあらゆる配慮がされているからです。
例えば試合の度に、膝関節を蹴り砕いて損傷させたり、腕の関節を破壊したり、指を折ったり、目をつぶすことがOKな競技などありませんし、あってはなりません。
そもそも、そういう行為は現代格闘技ではルールによって禁止されています。
しかし実際問題、相手の怪我など一切考慮せず、手っ取り早く敵を倒すのであれば、例えば、金的を打ったり、関節を破壊したり、喉笛を突いたり、目突きをしたり、髪を引っ張ったり、噛みついたりしてひるませ、体制を崩したあと、足でもひっかけて後頭部から硬い地面や石に叩き付けた方が効率良く人体を破壊出来ます。
もちろん、その結果として相手は死ぬかもしれません。
ですが、一々掴み合って力技で投げるなんてパワーのかかる事をするより、この方法は 「実戦」 においてとても効率のいい戦い方であるといえます。
あくまでも一例ですが、こういった方法であれば、過度な筋力トレーニングも必要なく、女性であろうと、大男と互角に戦うことができるでしょう。
そして、古流武術のなかには、現在では禁止されているようなこういった危険な技が多くあるのです。
現代格闘技の試合では、もちろん金的攻撃も、目突きも、喉突きも、噛みつきも、髪の毛を引っ張ることもルールで禁止されています。
そして、万が一にも指が目に入ることがないよう、ボクシングでも総合格闘技でもグローブをつけて試合を行いますし、寝技なども、倒されたり投げられても安全な床があるリングの上で行うのです。
違反行為や危険行為だとレフリーが判断すれば、戦いの最中だろうとその場で中断もできます。
現代においては、 「戦い」 「実戦」 と言うと、こういったリング上で行われる総合格闘技のことを真っ先に思い浮かべる人が圧倒的多数でしょうし、そういうコンテンツばかり見させられていればそういう風に思うのも無理はありません。
しかし一方で、考え方を少し変えれば、数百年前の、ルールが一切なかった時代の実戦では全く通用しない戦い方であるといえるのです。
何度も言いますが、時代や環境が異なれば、戦いに対する概念が異なります。
現代の競技格闘技において、ルール無視の危険な技を行えば、違反で失格となり、仮に対戦相手を行動不能にしたところで勝ちにはなりません。
町中での喧嘩で、不用意に相手を殴り怪我を負わせれば、場合によっては傷害事件となり警察に捕まります。
そうなれば相手を倒したといきまいたところで、警察に捕まった方が負けということになるでしょう。
現代では必要以上に相手を傷つける行為はあらゆる場面で禁止されているのです。
ですから、武器を用いた戦いである上に、一撃必殺で相手を殺すことも厭わない戦い方が多かった時代で培われた戦闘をベースとする武術と、あらゆる配慮がなされ極めて限定された条件で行われる競技格闘技とを、同列に扱える訳がないのです。
もっと正確にいうならば、 「徒手格闘による1対1での殴りあい・蹴りあいを前提とし、試合というルールのある限定された条件において勝つ」 ということを主目的として、それ専用の訓練を行う現代格闘技と、 「ルールもなく、武器を使って戦っていた侍の時代の体術を今に継承し、技を磨くことで効率の良い体の使い方を知り、日頃の生活にも役立てることができる武道」 とを比較して、 「どっちが強いのか」 などと言及することは、ナンセンスで意味のないことなのです。
もし、両方をごちゃまぜにして無理やり、何が一番強いのかという比較をしようとすれば、戦いの方法は多岐にわたるでしょう。
それこそ、統一されたルールなど設定できるわけもなく、当然、武器を使うことも容認されなくてはならなくなるでしょう。
そうなれば、素手で正々堂々殴りあうことなんて馬鹿らしくなるかもしれません。
そうなれば、刀や槍をうまく使える人が強いのでしょうか?
いや、刀や槍を封じるために忍者が用いたクサリ鎌なんて古臭い武器も有効になるのでしょうか?
いえ、そもそもレフリーが合図をしてから開始される戦いなど現代のみなのですから、弓矢を使って遠くから敵を狙った方がより安全でしょうか?
相手に気づかれないうちに不意を突いて死角から近づき、毒矢を撃つとか、首の骨を折るとか、そういう技がある意味一番強いかもしれません。
もう、こうなってしまえば、なにをもって勝ちとするのかという条件付けをしようとしたとき、それは結果として相手を効率よく殺せた方が勝ちという大昔の勝負方法に帰結するでしょう。
こうして考えてみると、現代で主流の戦い方と、いにしえの時代の戦い方を単純比較などできないことがわかると思います。
時代が違えば戦い方の概念そのものが違います。
それぞれの時代の戦の場に必要とされた戦い方があり、その時代はその戦い方が有効であり、必要とされていたのです。
ですから、現代の基準で何が一番強いかと考えることは実に無意味なことだといえるのです。
そういうわけなので、
古流柔術である合気道が 「vs 現代格闘技」 にむけた対策をする必要性は全くないと思いますし、逆にそれを追求しすぎれば、本来の合気道から離れていくと思います。
合気道に限らず、武道を行う人は、現代格闘技との比較など気にすることなく、安心して、自信をもって、その武道に勤しんでいただきたいと思います。
なぜなら武道の 「真の目的」 は、競技格闘技と戦うことでも、敵と戦ってそれを倒すことでもないからです。
その武道のベースとなったものが、過去には実際に殺人的な術だったとしても、武道として伝承され体系化された現在、それは人を殺めることを目的としたものではなくなり、稽古を通じて相手を知り、自分自身を知り、日々の実生活において己と人との関係性を向上させ、闊達としていられる心と体を作るものです。
多かれ少なかれ、武道として体系付けられ今に継承されているものは、その発生・由来に必ず意味があり、バックグラウンドがあります。
歴史が古い武道であればなおさらです。
現代の総合格闘技・競技格闘技とは発生段階での概念が違うので、比較のしようがありませんし、
そもそも何が一番強いという比較をすることは無意味です。
武道が総合技格闘技と同じ土俵で戦う必要はありません。
なぜならそういう目的のためにできたものではないからです。
もし 「総合格闘技」 で勝ちたいのであれば、総合格闘技用の訓練や練習をすべきであり、好き好んで武道を稽古する必要はないでしょう。
「合気道は総合格闘技と戦ってみろ。それで勝てれば強い。勝てないなら弱い。」
といった言論は実に馬鹿げており、見当違いであるということが分かったと思います。
だってそういう発言は、武道についても格闘技についても、何もわかっていないことの証明なのですから(笑)
おしまい。