相手を
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自分だけの利益を優先させている、もしくは損害を被ったことについての不満や怒りをぶちまけている、と見たり
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それらの行動で状況をコントロールして、自分の利益を満たそうとしている、他の人のことなんて考えていない、むしろ排除している、と見ると
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その時、私たちの知覚は、自分は我慢や犠牲を強いられている存在であり、反撃や防御に値する状態であると認識する。
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そうすると自分の攻撃や防御は正当化され、こんなことをしたくはないけれどもそうする以外に選択はないと思い込んでしまう。
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同じ状況になった時、自分は相手とは違う反応、対処をするだろうと想像するときはなおさらこの感覚は強まる。ㅤ
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でも、自分の考えとは違う反応、対処をしている相手という「違い」に目を向ける見方ではなく
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今ここで同じ学びの機会を得ている私達であり、学びとは自分の心を変える機会、つまりゆるしの機会が与えられている、という今まではとは別な見方をすることができたら・・・
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そして、この「別の見方」というのは、自分で無理矢理、何かポジティブな捉え方や、学びを見つけるのではなく聖霊が手伝ってくれるとしたら・・・
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一人で全部背負ったり、今の現状を変えるために外側に働きかける必要がなくなる。
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そうして、改めて自分の心を改めて見つめ直してみると、状況をコントロールしたい、自分の利益を主張したい、損害を持ち込まないでほしい、つまり冒頭に書いた「相手に見ていること」と全く同じことを求めていたことに気づく。
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行動や形は一切関係ない。
やり方や、求めかたが違っていただけで、全く同じものを相手に満たしてもらおうとしていたのだ、と。
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そうすると、本当に自分が求めていたのは神の愛だったことに戻れるし、相手もまた同じなのだと理解が広がる。
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理解は自分を縛っていた鎖から解放してくれる。
同時に相手を縛っていた鎖をも。
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この解放の喜びは、心は繋がっているからこそ必ず相手にも時空を越えて届いているはずだと感じられる。
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そんな風に感じられるなんて。。。
同じ学びの機会を得た私達だと見るだけで真逆のところに着地するという奇跡を分かち合えたらと思い、投稿させて頂きます。