丹生川上神社中社:奈良県吉野郡東吉野村小968

八年振りの奈良だ。インバウンド観光客でごった返す京都駅で近鉄特急に乗り換え、橿原神宮前駅へ。レンタカーを借りて明日香村から吉野川沿いを行く。途中、対岸の「平宗」という柿の葉寿司の店に寄る。江戸時代末期、文久元年(1861年)に創業。昭和天皇に献上された鮎の寿司が看板商品のようだが、ここは迷わず好物の焼鯖寿司を頼む。金峯山寺参道の柿の葉寿司はかなりしょっぱいが、この酢飯の味付けはほどほどで、甘味もあってたいへん美味である。

丹生川上神社下社には天川村に向かう途中、二度ほど寄ったことがあるが、他の二社は未踏である。まずは中社へ赴いた。この三社はどこを延喜式内社に比定するかについて二転三転している。まず明治四年に下社、続く明治七年にこれを翻して上社が比定された。中社は蟻通神社と呼称されていたが、大正4年(1915)に吉野村出身で教育者、神官の森口奈良吉氏が著した「丹生川上神社考」に基づいて内務省が考証を行った結果、大正11年(1922)に当社が式内名神大社「丹生川上神社」として比定されたという。



当社の創建には、神武天皇が東征の際に戦勝を祈願をした「夢淵」という場所が大きく関係する。夢淵は高見川、日浦川、四郷川の合流地点とされる。日本書紀に記述が見えるのでこれを引いておく。

(神武天皇の)夢に天神が現れ教えていわれた。「天の香具山の社の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天心地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう」。(中略。弟猾と椎根津彦が天の香具山の土を取って帰ったところ)天皇は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)などを造り、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。宇陀川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。天皇はまた神意を占って言われ、「私は今、沢山の平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平げるだろう」と。飴造りをされると、たやすく飴はできた。また神意を占っていわれる。「私は、今御神酒瓮(おみきかめ)を、丹生川に沈めよう。 もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうどまきの葉のように浮き流れるようであれば、 自分はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」と。そして瓮を川に沈めた。するとその口が下に向いた。しばらくすると、魚は皆浮き上がって口をパクパク開いた。椎根津彦はそれを報告した。天皇は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして、諸々の神をお祀りされた。このときから祭儀には御神酒瓮の置物がおかれるようになった。(出典*1)

というわけで、中社を訪れる前にまずは摂社丹生神社へ。引用した文末にある場所とされ、天武朝の白鳳4年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により、創祀したと伝わる。(参考*1)旧社地なのだが「本宮」の別称があるだけあって覆屋の中の古式蒼然とした社を見るとここが本来の祀りの場だったということがよくわかる。どこか身震いするような厳粛さを纏っているのである。元々は社などはなく、ここに神籬の榊を立て祈雨や止雨の祭儀を行っていたのだろう。祭神は彌都波能売神(みずはのめのかみ)だが、ここに降りる神は天照大御神に代表される人格神ではない。アニミズムにおける自然神である。



丹生神社の前を流れる四郷川を渡り対岸へ。いったん車道に出てからキャンプ場を回り込んで再び川に下りる。川辺で目の当たりにした夢淵は実に美しかった。右に日置川、左に四郷川。それぞれの流れが交わり、正面の高見川に加わっていく。躍動する水の流れ。水面に煌めく春の陽光。しみじみと生きていることのありがたさを感じるひと時だ。




続いて日置川沿いに少し上っていくと橋が架かっている。手前奥に東の瀧。注連縄が渡されている。大した落差はないが、轟轟と音を立てて水の落ちるさまはどこか龍神を思わせる。いにしえに当地に暮らした人々は、この淵と瀧に紛れもない聖性を見出した筈だ。




それは自然から分離、客体化された「神」という観念を持つ前の、宗教的意識の萌芽であったように感じる。社殿の建つ現在の神社空間はその意識を形式化したものでしかない。ゆえに、僕たちは神祀りの本来のありように触れるとからだの深奥から遺伝子に刻まれた記憶が甦り、打ち震えるのである。沖縄の御嶽に身を置いた時に感じる”あの感覚”だ。主客が混淆する中の祈りとは、いったいどの様なものだったのだろうか。



最後に本社を参拝する。文政18年(1828)から12年に亙って造替された社殿は、檜皮葺の流れ造りで立派なものだ。拝本殿を結ぶ階(きざはし)も下社ほど長くないものの、広く聞こえた水神としての威厳を与えている。境内には「史蹟吉野離宮址」の顕彰碑が建つ。





萬葉の歌に多く詠まれ 又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は 雄略天皇が御獵なされた小牟漏岳だけの麓 秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。この対岸には大宮人の邸宅があって 川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため朝な夕な競ふて渡った。今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる。昭和41年10月18日 東吉野村郷土史蹟顕彰会

現在では当社西方にある宮滝遺跡が吉野離宮址に比定されている。発掘調査によって宮滝集落のほぼ全域から、飛鳥時代から奈良時代の遺物、また縄文、弥生土器も発見され、大型の掘立柱建物跡や池状遺構などが確認されたという。(参考*2) 吉野離宮を巡るエピソードといえばなんといっても壬申の乱である。おさらいしておこう。壬申の乱は672年に起きた天智天皇の弟・大海人皇子と、近江朝廷の皇太子・大友皇子による皇位継承争いだ。天智天皇崩御のあと、大友皇子は近江朝廷で即位を準備するが、大海人皇子は吉野に逃れて挙兵し、各地で朝廷軍と激戦を繰り広げる。結果、大海人皇子が勝利を収め、天武天皇として即位し、中央集権国家体制を確立した。この挙兵の拠点が吉野離宮である。古代史における転換点の舞台が吉野離宮ともいえる。

さて、ここで考えたいのは夢淵での神武天皇の戦勝祈願だ。神武天皇は通説では実在しないとされるが、これを前提とすると夢淵のエピソードはなんらかの故事に因んだ創作、或いは他の実在する天皇の行為を神武天皇に置き換えたと考えることも出来る。以下に簡単な整理を試みる。

・古事記に「夢淵」のエピソードはない。
・記紀の編纂はどちらも天武天皇の命による。
・日本書紀編纂の目的は外交上のアピールと皇統の正当性の担保とされる。
・日本書紀のプロトタイプは記紀に先立つ「天武記定本」にある。
・日本書紀の実質的な編纂責任者は藤原不比等であり、内容にも政治的な立場から深く関与したものと思われる。

歴史学者ではない僕の妄想に過ぎないが、こうして見てみると皇統性の担保と藤原不比等の関与が夢淵のエピソードを生み出したように思える。特に藤原不比等は時の為政者(持統天皇)の立場を借りて、さまざまな書き換えや創作を主導した可能性が否めない。だとすれば、夢淵に戦勝祈願のために厳瓮を沈めたのは、天武天皇こと大海人皇子ではなかったか。壬申の乱の両陣営である大海人皇子の吉野離宮跡と大友皇子の野上行宮、そして分け目の決戦を行った瀬田の唐橋をつないでみたのが下の地図だ。皆さんはどうお考えになるだろうか。



夢淵は斎渕(いみぶち)の転訛という。そして、ここで戦の吉凶を占い、浮いてきた魚は「鮎」である。平宗で鮎寿司を食べておけばよかった。



(2024年3月30日)

出典
*1 宇治谷孟「日本書紀(上)全現代語訳」講談社 1994年

参考
*1 丹生川上神社公式ホームページ https://niukawakami-jinja.jp/
*2 吉野町ホームページ https://www.town.yoshino.nara.jp/about/post-13.html
植島啓二「水の神 18 丹生川上神社中社」すばる 2021年2月号所収 集英社
宮坂敏和「丹生川上神社」日本の神々-神社と聖地 第四巻 大和所収 白水社 1985年