私達はいつも一緒… | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か



先日、AKIRAのコマをブログに載せるために最終巻を手に取り、結局そのまま再び読んでしまった。


そしてキヨコ達のシーンで泣いた。キヨコとマサルがアキラの元へ行ってからのあの一連のシーンは卑怯だよな。


子供の身体のまま老いてシワクチャだった異形の姿が本来の元の子供の姿に戻って、アキラに「私達はいつも一緒よ」って言って。


この「いつも一緒」ってのもキレイゴトの話じゃなくて、「宇宙意識(神)の元で一つ」ってことなんだよな。アキラはそういう漫画なのだから。


勿論、私もまた娯楽としては人の世の勝手な希望でしかない幻想の物事も決して嫌いではない。ただ、どんなものでもそうだが、私はただのキレイゴトとスピリチュアルとはきちんと識別している。それを混同するのは善くない。


そしてアキラにおけるそのシーンというのは宇宙の本質的な何かが表現されているが故のものなのだ。


だからこそ、キヨコは殆ど接点のなかった金田のことも、対立・敵対関係にあった鉄雄のことも、分け隔てなく、差別なく、除外なく、「言葉に頼らない、本当に理解し合える、本当の仲間」と呼ぶ。


キリストの言葉でいうところの、「私を思う者が数名いればそこには私も一緒にいる」、「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に概ね該当する。


キヨコの「鉄雄くんも金田くんも仲間」というのは金田の方からしたら「??」だと思うのだが(笑)。確か、物語の中で金田とキヨコはそれまで一回もちゃんと会話してないし。金田自身「理解し合える仲間」とポツリと復唱して唖然としている。


金田はバイクチームの仲間以外だと、ケイとチヨコおばさん位しか仲間認定してなかったと思う。後、ブツブツ文句言いながらもジョーカーとは何だかんだ仲良くなってた。ミヤコのことさえ金田は「変なババァ」くらいにしか思ってなかっただろうし。


でも金田は物語において、宇宙意識の次元に何度か入ってしまったから。だからこその「仲間」なのだと思う。「そこ」ではなんの違いもないのだから。


そして完全にその中に溶け入らなかったからこそ、金田は元の世(相対界)に戻れもした。それがミヤコが問いかけたところの「人類という種の全体性の進化」に必要だったのだと思う。ミヤコは金田が「(物質界の)仲間達から必要とされている」と言っていたから。だから「お前は戻らねばならん」なのだ。


この実際の宇宙においても一定数あえて解脱せずに相対界に留まることによって自他を導く役目の人々や存在(仏教でいうと菩薩だっけ?)がいると言われるが、それと似たようなものだ。


勿論、金田のパーソナリティ自体はそんな立派なキャラじゃないが(笑)。バカでアホの不良なんだから。でも物語の終わりにおいては金田も既に「芽生えていた」のだ。


ただまぁ、それ言ったら存在する全ては「ただ存在するだけで全宇宙に貢献している」のだ。私もあなたも、そして何もかもが。「それ」は本質的な尊厳と威厳だ。私達、みんなの。私達、「みんな」だ。文字通りの「万物」だ。


それは私達が差別意識にしがみついている間は決してわからない。差別意識のそのからくりを理解し、その正体に気づかない限り決してわからない。あるいはバクティ(信仰・信愛)の観点からなら、私達が「神に並ぶもの」を捏造したり「神ならざるものを神にして崇める」限り、それは決してわからない。


私達はキレイゴトの嘘で自分や他者を騙し続けるだけだ。スピリチュアルでさえその嘘の道具にしてしまう。それが私達を「いい気分」にしてくれるから。そしてそれがまた同じように私達を苦しめもする。多くの場合、私達はその苦しみが伝えるメッセージ(警告)に気づかないのだが。


プライド(虚栄心)の強い私達のエゴはそのメッセージを受け取ることを頑なに拒絶する。「私は悪くない。悪いのは相手」、「私はわかっている。わかっていないのは相手」、ムキーッ!!そのような人が複数名集まったらどうなるでしょう?永遠に仲違いし続けます。


もし本当に「わかっていて、悪くもない」のなら、そのような人だけが、それを終わらせることができる。永遠にその都度、終わらせ続けることができる。ただ耐え忍ぶことにのみよって。それがスピリチュアルであり、本当の霊感だ。それが知識であり、信仰だ。心の中で密かに腹をグツグツさせているだけのことは忍耐ではない。


今の時点での私達の世界(社会)では、「それ」が無視されている。だから様々な問題や哀しみがそこから生まれる。だから私達は互いに対立し合う。だから私達は「自分の価値や意味」について決して完全には払拭できない不安と疑念を持つ。


「こんな人間には価値などない」、「こんな人間には価値がある」、それは社会の通念、通例、人類有史始まって以来、私達の心を束縛し続けてきたある種の呪縛。


しかし本当はみんな「それぞれの御役目」というものがある。そこら辺の石ころ一つにでさえ。草一本にでさえ。今回のコロナウイルスでさえ。与えられたその御役目が全てを働かせている。


特別な人やものだけがそうなのではない。特別な人など、本当は一人もいない。あるいは一切が「等しく」特別なのだ。


そしてそれはただ在るだけで自ずと働くことだ。なので不安になったり不信に思う必要はない。存在していてはいけない存在など、初めからこの宇宙は生み出さない。


麻原や植松でさえ「そこ」では除外されない。ただ彼らのような人々は自ら除外を創り出してしまうのだ。


そして物語の中では、金田やケイ、その子供達が「新しい世界」を作ってゆくことが示唆されている。ケイが大佐に「やはり(霊的覚醒意識にシンクロする)素質があったということか」と言われていたのもその伏線だろう。


そうして人類の意識次元はゆっくりと進化してゆくのだろう。あの漫画の中ではね。


物語の最後のシーン。金田はケイを乗せてバイクで廃墟と化した東京を走る。


すると金田のゴーグルが半透明になってゆき、ゴーグルが消えると死んだ山形と鉄雄の幻影が現れる。実際に霊体としての山形と鉄雄が現れたのかどうかはわからないが。


金田は驚きながら彼らと共に走り、そして廃墟へと消えてゆく。廃墟のビル群は構図がズームアウトしてゆくにつれて新しいビルへと変わってゆき、破壊からの再創造が暗示されて物語は終わる。


金田のゴーグルが消える描写は「心の目の覆いが取れてそれまで見えなかった意識次元が見え始める」ことを暗示しているのだろう。「そういう時代になってゆく」と。


それはミヤコが言った通りに、未来に産まれるであろう金田とケイの子供、そして人類全体の新たなる世代が新しい意識次元を生き始めることの暗示なのだと思う。


それは漫画の世界だけではなく、現実におけるこの世界も同じだ。霊的な感覚や能力というもの自体は万物に予め内在している。ただ「今の時代は」基本的にそれは封印されている。それもまた意味があってのことであり、それもまた御心。


いずれ黙示録に記されたような大きな転換期がくる。その暁には全ては変わる。今のこの次元における天地は滅び、過ぎ去る。それがいつになるのかは神にしか知れない。キリストでさえそれは知れなかったのだから。


霊的な力はある種のヨーガなどの修行で覚醒させたりすることができる。あるいは人によっては生まれ持った力として発現している。ある時を境に自然と発現したり。


どちらにせよ、今の時代ではまだそうそう滅多にいるものではない。しかし確かにいるのもまた事実。ただ偽者がほとんどだ。そのような人に騙されてはいけない。彼らは素直な人々を惑わせて自分の虚栄心を満たそうとしているだけだからだ。


そして以前もチョロっと記したが、私達が今、普通に感知している五感でさえ、厳密には既に霊性の一環なのだ。言葉の便宜上、それは物質的次元とか言われたりするし、それもまた間違ってはいないが、本質においては同じなのだ。丁度、頭の先と足の指先には距離はあれど、どちらも身体の一部であるのと同じように。


だから特別な能力を求める必要はない。それより大切なことがある。本当の霊性とは特別なものではなく、普遍的なものだ。この普遍性を無視していては意味がないのだ。私達が普遍性を拒む限り、私達は特殊性に執着する。それは識別を殺し、残酷な差別を生む。それは誰の幸福にもならない。


そしてキヨコが語る「私達はいつも一緒」というのはスピリチュアルな観点からでは、「私達はみな、それぞれバラバラ」という表面上の現実をあるがままに受容しない限りは決して理解できないことだ。


そうでなければ人は結局、自分が気に入った人(というか対象)はその「一緒」に含めるが、気に入らない人のことは含めるどころかその「一緒」から除外するからだ。


そうであったなら、キヨコは自分と対立していた鉄雄を仲間とは呼べなかっただろうし、表向きの関係性は何もなかった金田のことも仲間とは呼ばなかっただろう。


キヨコのいう「本当の仲間」、「いつも一緒」とは差別による選別ではないのだ。差別による選別は「それ」を差し置いて「それ以外の何か」を愛する(執着する)ことに起因する。


だからキリストは「私(神)より自分の親(それが我が子でも誰でも何でも)を愛する人は私に相応しくない」と言ったのだ。


偽りの働きに実在性を与えて自ら騙される限り、私達はほとんど成長しない。


それでは「私達はいつも一緒」は理解できないし、敵対者を愛すこともできないし、自分の欲に反する人を受容することもできない。


「私達はいつも一緒」というのは「私が死んでも私はあなたの心の中で生き続ける」とかそういうようなことではない。その程度なら、自分の執着する相手には簡単に言えるし、その意味もそのままのことだ。しかしこれもまたキレイゴトの幻想でしかない。


記憶が吹っ飛んだらそれで終わりなのだから、何の慰めにもならない。一緒=一つになれていない。実態はドロドロした染汚(ぜんな)でしかない。人はそれを愛と呼ぶが。


それを嘘とわかりきった上で、ある種のドラマ演出として語って楽しむのは悪くはない。お互いに全てをわかった上でなら。


あるいは本当の一体性がどうしても理解できない相手や理解を自ら進んで拒む人、まだその時節に到達していない人には方便として。それもまたドラマの一環。わかっている上でのことなら。


しかしそれを本気にするならよくない。神ではないものを神としてしまうことになるからだ。そして神に並ぶものを捏造してしまうからだ。それは永遠に許されることがない。間違っていたと認めて謝る(改める)なら一瞬で許されるが。


しかし大抵、その手の人は幻想に酔いきっていて、執着対象を神(愛)に据えて快楽を貪ることに心が完全に同化している。


それはそれでいい。それはキリストの言葉を借りれば「異邦人が切に求めるもの」でしかないからだ。今の世においては、そのような人々こそが自然であるとされているが、本当はそうではないのだ。


それぞれの時が来たならば、じきに、私達みんなに明かされるだろう。私達が生きている間か死んだ後の世代かはわからないが。


そして、アキラを読んだ後にある人がブログに記していたアキラ感想文も読んだ。その人も終盤のシーンで号泣したと記していた。


「金田がなぁ!あのシーンで涙流してさぁ!鉄雄がなぁ!ああもうバカッ!ケイが凛々しくてヒロインすぎて!ミヤコ様がカッコよすぎて!キヨコちゃんが可愛いすぎて!」みたいな。


その人は別に宇宙がどうとかスピリチュアルがどうとかに関心のある人ではなかったはず。


でも、アキラって読めばわかるけど深いところに響いてくるんだよ。みんながみんなそうなわけじゃないけど。


わかる人にはその波が内側から響いてくる。ミヤコが語った「生命の記憶、宇宙の記憶」はみなに等しく内在しているからこそ。


だから本当はそれはみんなが同じなのだ。


だってみんなおんなじだからね。


みんなこの宇宙にいるんだし、みんな生まれてきて幼少時代の朧げな淡い記憶があって。


みんな必ずいずれ死ぬし。


友達がいて、敵対者がいて、孤独があって、その人なりの大きな激動があって。


間違いがあって、すれ違いがあって。求めるものがあって、目を背けたいものがあって。


それは色々だけど、みんな色々あるのはおんなじなのさ。


そしてその色々ってのも細かい部分はそれぞれ違うけど、大局的に見るとみんなおんなじなんだよ。


例えば好きなメーカーの品物が販売停止になることと、好きな恋人に振られることは、本質的にはおなじだ。私達の気持ちは他者の気持ちとおんなじだ。虫や植物でさえ。


私達の苦しみはみんなおんなじ。


みんなおなじ。


「執着の対象から快楽を得ようとする」、それ故に「執着の対象の変滅に苦しむ」


本当にそれだけなのだ。


快楽の供給が断たれて、その快楽の不在が苦しみになる。何故ならそこに執着があるから。執着がない場合、対象の変滅は「対象の変滅以外のなにものにもならない」。つまり幸福や苦しみにはならない。それ故に平安だ。


それだけ。基本はそれだけ。


そして執着の克服だけが、唯一のその苦しみの解決手段。唯一の実質的解消手段。


それだけ。基本は本っっ当にそれだけ。


だから、みんなおんなじ。そして核心そのものはとてもシンプル。


でも私達は、中々その簡潔な一点に向き合おうとはしないんだ。


だから、色々と複雑に語られる。こういうケース、ああいうケース。こういう側面、ああいう側面。こういう観点、ああいう観点。信仰や知識などなど。


私自身もその複雑性を解きほぐすためにこのブログでそう語る。シンプルでなければ、その複雑性は観察できないから。観察されなければ理解もされないから。そして観察された時には、観察者は既にその複雑性から離れているから。


だからその本質はシンプルなのだ。


基本はみな、どの次元においても、おんなじなのだ。


私達は本当に、いつも一緒なのだ。


どのレベル、どの次元、どの階層においても。


私達はみんな、いつも一緒。


一緒なのだ。


ただ、それを誤解してはならないだけで。


誤りがあるところには必ず、エゴの悦楽的感覚がある。一時はそれで何かがわかった風に感じられるし、誰かや何かと一体になったような気にも浮かれられるけど、時間の中でそれは再び結局、悩みや不安や虚しさなどの苦しみになる。


そのサイクルパターンを自ら好んで繰り返しているだけでは何も本質的な進歩がない。それは「二つの内の一つではない」のだ。


でも、正しいなら、「寂滅」のよすががある。


簡単な見分け方だ。


そこにおいてのみ


「私達はいつも一緒よ


なのだ。