ムック「後藤喜一×ぴあ」を読んでくださった方々がたくさんいらっしゃいました。

コロナ禍の大変な時期に、多くの方にご散財をかけてしまいました。

ごめんなさい。

そして、ほんとうにありがとうございます。

 

大林隆介さんも私も、宣材用の写真を掲載させていただきましたが、

宣材用写真はどうしても固い感じになってしまいますよね。

因みに私は、写真を撮られるのが大の苦手!

笑顔がいつもこわばってしまいます。

あの真っ黒なレンズで見られていると、

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」に出てくる

人工知能“HAL”を思い出してしまって、

どうしても防御態勢に入ってしまいます。怖い…。

友人たちとのプライベート写真の時の私は、

いつもお茶らけた変顔で写っています。

 

私のことはさておき、

大林隆介さんは、

宣材写真よりも、実際にお目にかかった方がずっとずっと魅力的だということを、

しっかりと!お伝えしておきますネ。

 

さて、「パトレイバーMovie2」の話になります。

 

世の中には「議論になった」と伝わり、

スタッフの方々の間では、

押井守監督が「榊原良子と袂を分かつ」というような

重大な結果になったと『伝わっている』ことについてです。

 

初めに、私はそのことについて長い間何も知りませんでした。

ですから押井守監督が私と「袂を分かった」とおっしゃっていたことも、

スタッフの方々や押井監督のブレインの方々が重大なことと把握していらしたことも、

まったく知らずにいました。

 

世の中に伝わっていることは、押井守監督側から出たお話だと思います。

「Movie2」の、南雲しのぶさんのある一つのセリフについて、

押井守監督が、毅然と強く言って欲しいというダメ出しをされたとき、

私が、

「ここで、南雲さんは、このセリフを毅然とは、言えない」

と行ったことが発端だったと、後で伺いました。

「この状態でしのぶさんは毅然と“あなたを逮捕します”とは言えない」

と私は言っただけでしたが、

調整室からの次の指示が出るまでに少し時間がかかっていました。

私は長椅子に腰かけていました。

再度押井守監督から、いつもの南雲しのぶさんのように毅然と表現するようにとダメ出しが出ました。

私は、

「しのぶさんは、言えないと思う。そんな心理ではないと思う。言えないと思うけど…」

と返しました。

 

それだけですが、それが「議論」と言えるのかどうか…。

 

私自身は、

「作り手側と演ずる側の相違」

「男性から見た女性と、女性から見た女性のイメージの相違」

と思っていましたし、

それはよくあることだと考えていました。

大きな問題ではなく、

私にとってはただ、「相違」というものでしかありませんでした。

 

相違というものは、どちらが正しいのか正しくないのか、

どちらが良いのか悪いのか、というものではないと思っています。

相違は、「認識するもの」だと私は考えていました。

その相違を、両者がどのように扱っていくのか、

それが大切な事なのだと考えています。

 

また、噂話というのは、実際に起きたことに尾ひれがついて、

聞く人聞く人の主観によってまた大きく変化してしまうものです。

いつの間にか、実際に起きたこととは全く異なった話になっているのが、『噂』なのです。

コロナ禍でのあの「トイレットペーパー事件」と同じです。

 

押井守監督がMovie2に注ぐ情熱や思い入れが

徒ならぬほど強かったことは理解しています。

私は何故「言えない」と言ったかの理由を、現場では語りませんでした。

柘植さんの声を当てていた「根津甚八さん」もいらっしゃいましたし、

そのことで根津甚八さんをお待たせするのも、申し訳ないと思ったからです。

 

実写の映画では、シーン毎にカメラを回して収録し、

後で、繋げたりカットしたりしながら作品が出来上がりますが、

そのシーン、シーンを演じている時の俳優さんは、

ご自身のリズムや間で演技をしていると思います。

そのフィルムを、監督さんやスタッフの方々が、

いらないと思うところはカットしたり、

つなぎ合わせるところを変えたりして、編集していくのだと思います。

 

声優の場合は、

すでに出来上がっている作品に「声の演技」を当てていきます。

映像に合わせるという感じで、なかなか自分のリズムや間では演技ができません。

大林隆介さんと私がイベントの時に、

一番印象的な作品を「ふたりの軽井沢」だとしたのは、

私の個人的な思いも含めて、

「プレスコ」が、自分のリズムや間で演技ができるから、

というのが一番の理由です。

 

「あなたを、逮捕します」というセリフを毅然と言うには、

セリフを言うまでの『間』が、足りませんでした。

もちろんこれは私の生理的な感覚ですが…。

あと、1秒、あるいは、1.5秒の“間”があれば言えたと思います。

長い時間は必要ありません。

南雲しのぶさんとしては、

その短い間に、心の中である種の切り替えをするからです。

 

人間の脳は、たった1秒の間に、

膨大なことを思い浮かべ、考えることができる優れた能力を備えていると言いますね。

 

私が演技をするとき、一番気を付けるのは、

セリフを言っている時ではなく、

セリフを言うまでの『間』です。

秒数としては短くても、その短い間に“心の動き”を作り、

その流れが自然なテンポで「セリフ」に繋がっていく、というように努めるのです。

セリフを言っている時だけが演技ではなく、

他者のセリフを聞いている間も、心の動かしていく…、

それが大切だと考えています。

ある意味、これは演技の基本と言って良いと思います。

 

次のセリフを言うまでの『間』が短かったり長かったりすることは、

吹替えの現場ではよくあることですが、

そのようなときは、

『間』にどのような心理を作るかで四苦八苦します。

苦し紛れに自分の中の『間』を消して臨むしかないときもあります。

 

作品を観る方々には自然な繋がりと聞こえていて、

作品としてもきちんと出来上がっていたとしても、

私などは、自分の演技をチェックするときに、

「ああ、変なセリフの出方になっている」

「あの間をどうすればよかったのだろうか」

「ああ、間がスカスカになっている」

「前のセリフと気持ちがつながっていない」等々、

自分の演技の粗がはっきりと見えてしまうのです。

私が、これまでの作品の中で一度も達成感を得たことが無い、と言っているのは、

こういった細かな粗を、自分の演技に見てしまうからです。

 

偶に、自分にとても合った『間』で作品が出来上がっていることがあり、

その時は何の疑いもなく、その作品のリズムやテンポに乗って行けますが、

やはり、オンエアーされたり上映されたりした時にチェックすると、

どこかに、「考察の漏れ」を見つけたり、

もっと違う表現にした方が良かったと思うことが多々あります。

 

吹替えの演技には、

演技者の心の流れと、作品(あるいはそのシーン)の流れが一致しないときがありますが、

それでも合わせなければならないのが、

声優皆、苦しむところなのだと思います。

 

Movie2のあのシーンでは、

毅然とした態度で「あなたを逮捕します」と言うには、

私の中で『間』が途中でプツンと切れてしまう、という感覚がありました。

CDではなく、「レコード」を聞いたことのある方には想像がつくと思いますが、

レコード面に小さな傷があり、「針」が飛ぶことがありますね。

聞いていると「あれっ?」という感覚です。

その「針が飛ぶ」というのと同じ感覚と言って良いかもしれません。

 

そしてあと2つの理由があります。

「あなたを逮捕します」と言った後、

南雲しのぶさんが柘植さんに手錠をかけます。

そして、柘植さんの手が動き、南雲さんの指に絡ませてきます。

南雲しのぶさんがそれに呼応するように、自分の指を柘植さんの指に絡ませます。

 

そのシーンに繋がるからこそ、

毅然とした表現が出来なかったのです。

 

作品としては、あのシーンはある意味での「見せ場」。

最大最高のラブシーンになるところです。

ファーザーコンプレックスで、

警察官として有能で、

頭の切れる南雲さんが、

テロ行為と言われる事件を引き起こした過去の愛人に対して、どう反応するか…。

恋人ではありません。「愛人」です。(恋人と愛人とでは、異なった解釈になります。)

 

毅然と「あなたを逮捕します」と言ったのなら、南雲さんはどうするか?

 

これは、私の私的な感覚、『妄想』だと考えていただいても良いのですが…。

 

柘植さんの指が、まるで南雲しのぶさんを求めるかのように

南雲さんの手に絡まってきた瞬間に南雲さんが感じるのは、

「この指は、自分が愛した人の指だっただろうか・・・?

自分の愛した人の指の感触は、こうだっただろうか…?」

と考えます。

これはとても女性的な感覚だと思います。

 

そこには項垂れている南雲さんがいるのではなく、

すべての意識が、

自分の手に触れる柘植さんの「手の感触」に向かっていると思いました。

項垂れません。

過去の柘植さんの“感触の記憶”と、今現在の“柘植さんの感触”の接点を探っています。

探って、探って、そして、接点が見つからない。

そこに、離れていた年月の虚しさ、

共有していたはずのものがすでに失われていることを、感じ取るのではないかと・・・。

 

南雲さんは、指を決して絡ませない。

その厳然とした事実を、感じ取っている。

ファーザーコンプレックスであるが故に男性に完璧を求める南雲さんが、

過去には完璧だと思っていた柘植さんの「今の姿」をどう感じるだろうか…。

 

私には、あの場面で二人が指を絡め合うのは、

二人の間に今でもまったく「隔たり」が無い、というように見えました。

心は変わらないというように…。

あるいは二人とも、ただ、過去の記憶だけを愛でているだけ、のように見えました。

目の前に居るお互いを愛おしんでいるのではなく、

幻影でしかなくなってしまった過去の記憶だけを、

『抱きしめている』

としか見えませんでした。

 

南雲さんが、ファーザーコンプレックスであるとしても、

目の前にいる柘植さんは、彼女の中で、その存在を変えて映っていると思うのです。

もし柘植さんの存在が南雲さんの心の中で昔と変わっていなければ、

南雲さんは、それまでの現実をどう生きて来たのか?

優秀で才能があっても、警察という社会で、果たして高いポジションまでたどり着けただろうか?

多くの男性から、信頼される女性になっていただろうか?

いろいろな疑問が、私の頭の中に飛び交うのです。

 

隔たりは厳然としてあります。

もう元には戻れないという現実があります。

それを南雲さんは感じていると、考えました。

重いですね。虚しさ、切なさ、後悔等々。

 

私は、指を動かすことができないのが「南雲しのぶ」だと思いました。

柘植さんに呼応しない南雲さんであったのなら、

その前のシーンで、「あなたを逮捕します」を

毅然として言えたかもしれません。

 

そして最後にもう一つ。

ヘリコプターに乗っているシーンです。

 

窓際に南雲さんが座っています。

その横に柘植さんが座っています。

南雲さんはやはり、項垂れている。

辛そうな表情になっています。

それを柘植さんが見ている。

柘植さんに南雲さんの顔は見えません。

南雲さんは、柘植さんから顔を背けるようにして、項垂れている。

 

逮捕時に、毅然として「あなたを逮捕します」とは言えません。

 

毅然としてこのセリフを言っていたら、南雲さんはどうしているか?

私の中ではこうなっています。

心の中はグチャグチャです。

が、彼女はプライドの方を選んでいる。

たとえそれが強がりであっても、見栄を張っていても、

彼女は、隣の柘植さんに一度も視線を向けず、

背筋を伸ばし、まっすぐ前を見ています。

その表情には悲しみは見て取れません。

険しい顔にもなっていません。

無表情というよりも、それこそ毅然な態度で座っています。

そしてそれが、「必死」にそうしているように、見えます。

 

社会進出を果たして、人の上に立つことになった女性は、

「これだから女は」という言葉や「所詮、女ということか」という言葉に

とても神経を使います。

特に、優秀であっても過去に「汚点」といわれる出来事を抱えている女性は、

人前で、この言葉を言われないようにと気を付けると思います。

南雲しのぶさんがファーザーコンプレックスであっても、

優秀な人ですから、

ヘリコプターに同乗している松井刑事やパイロット等、

男性陣の目をしっかりと意識していると思いました。

 

心は激しく波立っていても、

そうでないように振る舞わざるを得ない「優秀な女性」は、

人の目に触れないところで、

堰を切ったように、感情を溢れさせるのだと思います。

 

映画にはありませんでしたが、私の想像では、

南雲さんは、柘植さんを引き渡す手続きをした後、

何事もなかったかのように帰路につき、

玄関に出てきた母親にいつものような態度をとるでしょう。

そして自室に入ります。

何事もなかったかのように

次の日の仕事の準備をするためにPCに向かいます。

キーボードをたたく指が見え、少しずつその指が乱れてくるのがわかります。

どんな文字を叩いているのかもわからないほどの乱れた指の動きから、

すこしずつ南雲さんの顔が見えてきます。

 

声を押し殺して、泣いています。

泣きながら、自分に鞭打つように、無理にでも仕事を続けようとしている南雲さんがいます。

涙や鼻水で南雲さんの顔は、ぐちゃぐちゃになっています。

南雲さんは、自室で、母親には分からないように、

声を出さずに“号泣”しています。

キーボードを叩く乱れた指の動きは止まりません。

 

完璧であろうとする南雲さんが、

そこに居ます。

 

Movie2の作品は、後藤さんの一言でエンディングに入りますから、

私の想像したシーンは私の頭の中だけのものですが、

たった一言のセリフでも、

演ずる側は、

「考え」ます。

そのセリフの前後も考慮して、

こうか、ああかと考えて稽古をし、

稽古をしながら、また、異なる考え方に移行したり、

それを取り入れたり手放したりしながら、

また稽古します。

思考と稽古を繰り返しながら、体の中に、一つの流れを作り上げていきます。

その流れが、自分と一体となって、やっとマイクの前に向かうことができるのだと思います。

 

私以外の方に質問をしたことがないので、

声優の一人一人がどのように「役」と向き合っているのかわかりませんが、

私はそうしてマイクの前に立ちます。

 

押井守監督は

「南雲しのぶさんは、権威、つまり、優秀であることを重要視している。

父親はとても立派な人で、彼女はファーザーコンプレックスである。

母親のような生き方を軽視している。

そして、後藤喜一のような人は、選ばない」

と人物設定をしました。

そして、「あなたを逮捕します」という表現で、

押井守監督のダメ出しに、私は異論を唱えました。

それはもしかしたら、押井守監督の目に、

「反抗」に見えたのかもしれませんね。

 

押井監督のダメ出しに異を唱えたのは、この時が初めてだったと記憶しています。

 

Movie2をご覧になった方の中には、

「あなたを逮捕します」というセリフが、

毅然と言い放っているように聞こえた方もいるかもしれませんが、

前述した理由から、押井守監督の求めた通りにはしていなかったと、

私は記憶しています。

押井守監督には申し訳ないのですが、

押井守監督があのセリフに求めた「表現」を“100”とすると、

テストのときに私が表現したのは、「20」。

ダメ出しをされて悩んだ挙句本番に表現したのは、「70」です。

それがそのまま、

皆さんがご覧になった南雲しのぶの「あなたを逮捕します」になっています。

 

それが正しいのか正しくないのか、

効果的なのか効果的でないのか…。

それはご覧になった方々の判断に委ねたいと、私は思います。

 

亡くなった作家の「森瑤子さん」がご自身の著書に書いていました。

私の記憶が正しければですが、

「作家は、作品に、自分自身を露出させている」

という内容だったと思います。

演技者もある意味で、自分を露出させていると考えています。

そしてそれ以上に、

押井守監督はじめ、

映画を作る「監督」の皆さんも、

自分の作品の中で、

ご自身を露出させているのではないでしょうか?

 

「南雲しのぶ」という女性は、

押井守監督が、「オギャー」と産まれた時から現在に至るまでに接してきた

多くの女性たち(お母さまやお姉さまも含めて)の存在から築かれた

監督自身の「女性観」が色濃く影響している“女性”だと思います。

 

随分と長くなりました。

パトレイバーについては、声だけを新たに収録しなおした「Movie1」についても、

すこし触れようと思っています。

 

コロナはまだ続いています。

私は慎重な方なので、油断はしていません。

皆さんも、十分に、ご自身を守ってくださいね。