駒澤大学(曹洞宗、道元和尚)の

松本史朗教授は

「禅は、非仏教」と言った。

 

花園大学(臨済宗、白隠禅師)の

沖本克己教授は、

「禅は、中国の土着宗教でいい」と言った。

 

「見性成仏」は「非仏教」である。

「自性」「自己」「たましい」「霊魂」…「真実の自己」の存在を基盤とする。

 

(これは、「頭脳の構造」から、「自己」を「実在」と考え、「自己」にリアリティを実際に感じる。

更に「言語認識機能」によって「自己」が「主語」として現われ、

「自己」と「それの動作」とに二分され、思考の世界に取り込まれ、確実なものとされていく。

つまり、極く「普通の宗教」へとなっていく。「日本人教」であり「中国人教」ともなる。)

 

 

「仏教」は、「無常」「無我」「無記」である。

道元和尚は、この「見性成仏」「仏性」を痛烈に批判した。

 

道元和尚は、「日本天台本覚思想」から抜け出し、

宋代の中国に渡り「宋代・臨済宗」「看話禅」からも抜け出した。

「釈尊の仏教」に到達して、それを「安楽の法門」とした。

それは「只管打坐」「永久修行論」であった。

 

松本 史朗

1.

チベット語上級, 2019年度, 

チベットで撰述された『チャンキャ学説綱要書』『道次第大論』を講読して、中観思想を理解する。

2.インド仏教思想史 

仏教以前のインド思想・原始仏教・部派仏教・初期大乗仏教・中期後期大乗仏教の順で、

インド仏教の思想史的展開を概説することによって、仏教思想の特質を明らかにする。

教科書および配布資料を、受講者に音読してもらい、その内容を説明する。

 

 

「縁起と空

--如来蔵思想批判」

1989/7/1

松本史朗

 

 

誰も星五つ付けていませんが、仏典中の最重要概念(法、縁起、涅槃など)について極めて論理的かつ精密周到な文献学的読解を行い、画期的な業績を上げたものであり、仏教に関心のある人は必読です。

【主な主張】

諸法(dahmma)の顕現における、法=真理

という伝統的解釈に対し、

正しくは

諸法=十二支縁起

(無明によりて行が生ず、行によりて識が生ず等々)

の縁起支(無明、行、識、等)
実在論(永遠の真理)を否定し、仏教の本質を縁起=無我説とする。

涅槃(nirvana):煩悩の炎が吹き消された状態(nir+語根va)

正しくは
覆い(汚れ)を取り除かれた状態(nir+語根vr)

涅槃と解脱

同じもの、

汚れた生から解放され、穢れなき死の世界、

アートマン(永遠に実在する基体)の世界へと没入することであり、

非仏教的なもの

 

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まず、著者の根本的な主張は理解することができる。

真偽が混在する現在の仏教から真実の釈迦仏教を選び出そうとすれば、客観的で明確な基準が必要であろうし、

その基準を“ことば”と“時間的な縁起”に限定するのは一つの見識だと思う。

私も、“本覚思想や如来蔵思想は釈迦仏教ではない”と言う著者の主張に賛成である。

しかし釈迦の「教法」から「法」を捨てるべきだとする著者の主張は受け入れられない。

それは釈迦の仏教ではなくなるからである。

著者は、

「四沙門果修行法」と「三十七菩提分法」を不変の真理である

と言うならば、

「縁起」の定義から逸脱するので、これらの「法」は釈迦仏教ではないと判定する訳である。

 

これは、釈迦の「法」の実体験が不十分なまま、ことばの基準を限定しすぎた為に、そのような過激な主張に導かれたと思わざるを得ない。

 

 

 

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松本博士の綿密なる学問に敬服いたします。
しかしながら、松本博士の信仰には組みすることができません。

○仏教には「無我」「縁起」が必須?
博士は、
「私は『如来蔵思想は仏教ではない』と考えている」
「仏教とは何かについて私の意見を述べよう。

結論よりいえば、私は仏教とは無我説であり、縁起説であると考える」
「私の言う縁起とは、第一に十二支縁起であり、私は、『律蔵』「大品」に説かれるとおり、

釈尊が十二支縁起を順逆に観じて悟られたということを信じたいと思う」(1頁)
とご自身の信仰をお述べになっておられますが、これは

要するに「無我」「縁起」しか認めないという小乗の考え方のみを信ずるという表明でしょう。

大乗においては「諸法無我」を始めとした「三法印」は必ずしも必要ではなく

天台大師の『法華玄義』には、
「釈論に云はく、諸の小乗経は若し無常と、無我と、涅槃との三印有って之を印すれば、

即ち是れ佛説にして、之を修すれば道を得。

三の法印無きは即ち是れ魔説なり。

大乗経は但一の法印有り、諸法実相を謂う。

了義経と名け、能く大道を得。

若し実相印無くんば是れ魔の所説なり。(中略)

実相の故に常寂滅相と言ふ。即ち大涅槃は、但一印を用ふるなり。

此大小の印は、半満の経を印す。

外道も雑(乱)すること能はず、天魔も破すること能はず。世の文符の印を得て信ずべきが如し。

当に知るべし。諸経畢定して実相の印を得れば、乃ち名づけて了義大義と為すことを得べし。」
と云って、大乗は「諸法実相印」のみでよいとしています。

また「如来蔵思想」や「仏性思想」は仏教ではないと云われるが、近代浄土宗の傑僧・

弁栄上人は『宗祖の皮随』において、
「問う、仏教にて仏種子と云うことは、仏性とともに本有なるか、はた新薫なるか。『法華』等にも〈仏種は縁より生ず〉と説けり、いかん。
答えて、唯識等に依れば、種子に本有と新薫とあり。本有種子は仏性にて衆生法爾として具す。新薫は名言薫習すなわち名言の種子が八識中に伏在して、自体果を生ずる能力なり。色心が万法を現象する生産の起源作用の力、例えば植物の種子に生産の起源作用ある如く、生物の原形質が種子の細胞に入りて種子と為り、一切の枝葉根茎等が嵌込式に伏在して縁を待ち、漸々に発展し顕現する如くに、聖種子の名号が衆生の仏性に薫じて、その元形質に一切万徳が嵌込式に伏蔵して、やがて円満に成熟するに及びては、諸仏の果位に至るの徳を具するなり。」
「仏種子とは元照云く、〈問う四字の名号は凡下常に聞く、何の勝能ありてか衆善に超過せるや。
答えて、仏身は相に非ず果徳は深高なり。嘉名を立てずば妙体を彰わすことなし。十方三世の諸仏皆異名あり。況んや我が弥陀は名を以って物を摂す。ここを以て耳に聞き口に誦すれば無辺の聖徳が識心に攬入し、永く仏種と為り、頓に億劫の重罪を除き無上菩提を獲得す〉と、人の本有の性は無定性にて而も一切の種子を薫習する性能あり。」
と云って、「仏性思想」が大乗仏教の本意であると述べています。
したがって、大乗仏教の信仰者は博士が言われるような信仰のあり方とは大いに異なっていると考えます。

○仏語は変更不可なのであれば…
博士は、
「仏教とは仏の教えである。仏の言葉である。決して我々凡夫の言葉なのではない。唯一の実在(理)とか不可説の体験(悟)とかがあって、それを我々が言葉で表現できるか否かなどというチャチな問題ではない。言葉とは仏語である。仏教である。それは仏から我々にすでに与えられているものであり、我々が少しでも勝手に変更できるような代物ではない。たとえば『法華経』に「不惜身命」と説かれていれば、我々はこの仏語、この真実語を、一字一句も変更することはできない。ただ信じる以外にないのだ。宗教において言葉とは、仏の言葉、神の言葉であって、人間の自分勝手の言葉ではない。この点を理解しないと果てしない傲慢、神秘主義に陥る。悟りとか体験とか瞑想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験とか、これら一切は仏教とは何の関りもない。宗教において言葉とは、絶対的に与えられるものだ。十二支縁起は、我々に与えられた仏の言葉、仏語なのであって、その言葉なしに仏教はありえない。」(56頁)
と云って、経典はただ信仰すべしとしておられます。

そうであるならば、『大乗入楞伽経』中の、
「十方の諸の刹土に於ける、衆生の菩薩の中の、有らゆる法報仏も、化身も及び変化も、皆無量寿の極楽界中より出づ。」
と説かれている教説も信仰すべき対象になります。
この一節は博士が否定している「如来蔵」による基体説です。「ただ信じる以外にないのだ」と云われることと矛盾しています。

○仏教には仏陀という本尊が必要不可欠
博士の仰られることに賛同できるところもあります。
「〈縁起〉を普遍的な理法と考えるなら、当然、諸仏が出現しようとしまいと、その真理は存在する。もはや釈尊は必要ではない。仏は必要ではない。ただ、〈縁起〉の理法さえあればよい。釈尊はただたまたま古城を発見した旅人のように、この理法を発見したにすぎない。このように釈尊よりも〈理法〉を重んじる態度を、私は仏教徒として恥ずべきことに思う。〈釈尊が出世しようとしまいと〉とは、何たる暴言であることか。しかもこれが暴言であることに気づかないほど、信仰薄き人々があまりにも多いのだ。」(47頁)
巷に溢れている仏教論は「本尊不在」の教えばかりであるということはいえると思います。
最澄を論じるにしても、法然や親鸞を論じるにしても、その思想や罪悪観に着目はしても本尊がありません。先徳方の思想や罪悪観は仏陀ありきのものです。

村上専精博士も『仏陀論』の中で、
「凡そ哲学の中心は真理ありとすれば、宗教の中心は本尊にありて存するというも、敢えて不可なかるべし。基督教にありて神を本尊となし、佛教にありて佛陀を本尊となせるものは、即ち佛基両教の中心たるべきものにあらずして何ぞや。果たして然りとすれば基督教にありて神の何たるやを攷究することの必須欠くべからざるが如く、佛教にありて佛陀の何たるやを研鑚すること、亦以て頗る重要の問題なること、敢えて喋々を要せざるなり。」
として、仏教は仏陀という本尊ありきの宗教たることを述べておられます。

本書から受ける松本博士の印象は小乗仏教の信仰者ではないかということです。

 

 

禅の思想とその流れ

 (ぼんブックス) 1990/5/1

沖本 克己  (著)

 

禅の歴史を語る中で禅とは何かを解き明かしてゆく。

お釈迦さまによって説かれ始めた仏教が中国にもたらされ、

変容をとげながら、禅宗がかもし出され、日本に伝えられた。

“禅とはわからないものだ”ということがわかる格好の手引書。