※ 6/21 23:00 党員カード、軍務終了証明書、メキシコ支部と世界本部(NYベテル)との手紙のコピーを入手しました。

エホバの証人のあなたへ

 二重基準(ダブル・スタンダード)の実態と悲劇


 「マラウイ」という言葉を聞かれたことがあるでしょう。 ものみの塔協会が、自分たちがいかに信念を持って信仰を守り続けてきた組織であるかを示すために、これまで多くの雑誌で取り上げてきました。 マラウイで起きたことはまさしく悲劇です。信じられないような悲しい出来事です。 しかし、その悲劇と全く同じ時期に、メキシコでは異なる”解釈”で、物事が進んでいました。 これから、その2つの物語を紹介します。 あなた自身の良心でこの2つの物語の違いを比べて下さい。

第1の物語
 マラウイは、アフリカ大陸南東部に位置する共和国です。
 1964年当時はマラウイは一党独裁政権であり、政府は「全国民が党員カードを持つべし」という方針でした。
  党員カードはこちら↓
マラウイの党員カード
 そこで、党員カードを持つことはエホバの証人にとって「政府機構への忠節を示す目に見えるしるし」にあたるのかが問題となりました。
 マラウイのエホバの証人たちは、迫害に耐えて党員カード保持を拒否すべきかどうかを、世界本部へ手紙で問い合わせました。
 世界本部からの回答は以下の通りでした。
 「買えば妥協であり、クリスチャンとしての中立が保てなくなる。従って神に対する不信仰となる」
 マラウイのエホバの証人は世界本部からの回答を忠実に守り、ひどい迫害を受けながらも党員カードの保持を拒否し続けました。その結果多くのエホバの証人たちが、その信仰のために尊い命を落としました。世界本部からの回答を神からの言葉であると信じた末の結果でした。
 もちろん、世界本部ではマラウイで凄惨な迫害が起きていることを知っていました。
 雑誌や書籍にもマラウイでの殉教が報じられました。
 また、同時に統治体を含む多くのメンバーが、これと同じ時期にメキシコでの物語も知っていました。
2013年9月にこの物語に新たな事実が加わりました。
 マラウイを追われたエホバの証人は国境を越えてザンビアへ逃れました。
 しかし、このときザンビアのエホバの証人の多くは上流階級であり政党幹部や政府の要職に就いていました。
 しかも、1972年にはものみの塔の世界本部はこのことをザンビア大使館からの抗議で知っていました。
 その上で、ものみの塔世界本部はその抗議をも無視したのです。
 ソースは、http://jwleaks.files.wordpress.com/2013/09/228559.pdf
 ここに、ザンビア大使館からアメリカ国務省に宛てた文書が公開されています。
 内容は、ものみの塔協会が上記抗議を無視し続けていることへの怒りの告発です。 (迫害についての詳細は、ものみの塔協会の雑誌(jw.orgから参照可)で確認下さい。
 (参考までに、下部にものみの塔誌の抜粋を記載しました)
第2の物語
 メキシコでは1年間軍務に服して「軍務修了証明書」の取得が義務付けられています。
  軍務終了証明書↓
メキシコ軍務修了照明書

 実際には賄賂を払って証明書を発行してもらう者が大多数です。
 1960年メキシコ支部は、軍務修了証明書を賄賂をで買うことに是非について世界本部へ手紙で問い合わせました。

 メキシコ支部からの手紙の写しはこちら↓
メキシコ→本部問合せ1960


 世界本部からの回答は以下の通りでした。(1960年6月2日付け)
 「兄弟たちに、自由を確保するため良心的にこれを受け入れてもよかろうというものがあれば、我々としてはこれに反対するものではありません。関係各位がその正当性につてあえて調査追求しているわけでもないのであれば、得るところもおおきいことですから、そのままにしておけばよかろうと考えます」(後の会長・フレッド・フランズ) 
  世界本部からの回答の写しはこちら↓
本部→メキシコ回答1960

 その後のメキシコ支部からの1964年の報告文書では
 「軍務について、メキシコの伝道者たちに問題はありません。法律は明確ですが、その執行は厳しくなされません、修了証明書を持っていて予備軍リストに載っている者でも召集されたためしがありません。
 修了証明書は身分証明書でもあるのでパスポートを入手するためには必要です。仕事を探す際にも必要です。
 この件について兄弟たちの方針は、何年も前に協会の方で考えて頂いており、ずっとこれに従っています」
 1969年8月27日 メキシコ支部は、予備軍への参加義務について世界本部へ手紙で尋ねました。
 「軍務修了証明書を手に入れた者は、正規軍で間に合わない事態が発生した場合は、まっさきに出動する予備軍に入れられます。以前(1960年6月2日)の方針は変わるでしょうか?」
 メキシコ支部からの手紙の写しはこちら↓
メキシコ→本部問合せ1969

 世界本部からの回答は以下の通りでした。(1969年9月5日付け)
 「今のところ奉仕に携わることができるわけですから、そのままにして差し支えないでしょう」
  世界本部からの回答の写しはこちら↓
本部→メキシコ回答1969

2つの経過
 
メキシコマラウイ
1960メキシコ支部→世界本部問い合わせ「軍務修了証明書を賄賂で買ってもよいか?」
 ↓
世界本部→メキシコ支部「かまわない」
  
  1964マラウイ会衆→世界本部問い合わせ「党員カードを買ってもよいか?」
 ↓
世界本部→マラウイ会衆「ダメ。買えば神に対する不信仰となる」
同年一度目の迫害
・家を焼かれる
・畑を荒らされる
・集団暴行 等
1967二度目の迫害
・集団暴行
・強姦の横行
・隣国逃亡多数 等
1968惨状をものみの塔誌に記載
→ 世界中のJWが知ることに
1969メキシコ支部→世界本部問い合わせ「軍務修了証明書を持つと予備軍に入るが・・・」
 ↓
世界本部→メキシコ支部「奉仕ができるならかまわない」
  
  1972三度目の迫害
・激しい暴力
・隣外逃亡多数 等
同年悲劇の惨状を「ものみの塔誌」に記載
→ 再び、世界中のJWが知ることに
同年ザンビア大使館から世界本部へ抗議
→ザンビアではJWの政党・政府職員が多くいる
上記抗議を世界本部は無視
1975四度目の迫害
・激しい暴力
・隣外逃亡多数 等
同年悲劇の惨状とともに「マラウイのエホバの証人の行いは正しい」と「ものみの塔誌」に記載。
記事担当者の言葉
「記事の中では、初期クリスチャンがローマ皇帝の「守護霊」のために祭壇で焼香を捧げるのを拒否した話と結び付けた。しかし良心が傷んだ。はたして、党員カードを買うことが崇拝行為にあたり、クリスチャンとしての中立が保てなくなり、神との関係が断ち切られてしまうほどの行為であるか? この回答を聖書がはっきりと指示しているという確信はもてなかった」
1978統治体メンバー:レイモンド・フランズがメキシコ訪問
メキシコ支部委員からこう言われた。
「メキシコのエホバの証人の中には、マラウイの迫害の原因が党員カードを買うことを拒否していることだと知って、良心の呵責を感じている人が多い」
 ↓
協会本部へ報告しても、統治体会議で取り上げても一様にみな無関心であった。
  


ものみの塔誌 2000年4月1日号
 マラウイのエホバの証人は,1967年以来,残忍な迫害にさらされました。真のクリスチャンとしての中立の立場ゆえに,その国のわたしたちの仲間の信者は,政党の党員カードを買おうとしませんでした。(ヨハネ 17:16)1972年のマラウイ会議党の集会のあと,残酷な行為が再び始まりました。兄弟たちは家を追われ,職を失いました。何千人もの人が,殺されないよう国外へ逃げました。では,神とその民に対して戦う者たちが勝ったのでしょうか。いいえ,決してそうではありません。状況は一転し,1999年にマラウイで報告された王国伝道者の数は4万3,767人という最高数に達し,地域大会に12万人以上が出席しました。また,首都には新しい支部事務所が建設されました。

マラウイの悲劇 ものみの塔誌 2003年9月1日 23-28ページ
 1967年9月,エホバの証人を一斉に検挙する運動が嵐のように国中に吹き荒れました。エホバの証人を見つけるために,なたを手にした青年同盟とマラウイ青年開拓団のメンバーである,残忍で過激な若い男たちが家々を一軒ずつ回り,証人たちを見つけると,党員カードを買うようにと言いました。
 我が家にやってきた男たちは,党員カードを持っているかと尋ねました。「いいえ,買ったことはありません。今も買いませんし,これからも買うつもりはありません」と言うと,男たちは主人とわたしを捕まえ,土地の警察署に連れて行きました。何を持っていくことも許されませんでした。(略)
 1972年10月,政府の布告が暴力的迫害の新たな波を引き起こしました。その布告は,エホバの証人をすべて解雇し,村に住む証人たちをすべて家から追い払うよう命じるものでした。証人たちは動物のように狩り立てられました。(略)
わたしがちょうど家を出ようとした時に,男たちは家に乱入してきました。彼らは,わたしを近くのサトウキビ畑に引きずっていき,蹴飛ばし,サトウキビの茎で打ちたたきました。それから,わたしが死んだものと思って去っていきました。わたしは後ほど意識を取り戻し,はって家に戻りました。(略)
 その夜,わたしがめった打ちにされたことを知ると,エマスと車を持っていた友人は,わたしをそっと車に乗せてくれました。それから,リロングウェに住むある兄弟の家に行きました。その家にいる間に,暴行で受けた傷は徐々に癒え,エマスは国外に脱出する計画を立て始めました。(略)
 それから,マラウイ青年開拓団の制服を着て,荷物を積んだトラックを運転して幾つかの検問所を通過しました。この人は何百人もの証人たちが国境を越えてザンビアに入れるようにするために多大の危険を冒しました。(略)
数か月後,ザンビアの当局者はわたしたちをマラウイに送り返しました。しかし,郷里の村に戻ることはできませんでした。どこに行っても安全ではないので,わたしたちはモザンビークに逃れ,2年半の間,ムランジェニ難民キャンプに滞在しました。しかし,1975年6月になって,モザンビークの新政権は同キャンプを閉鎖し,わたしたちをマラウイに強制送還しました。マラウイにおけるエホバの民の状況は,少しも変わっていませんでした。わたしたちは再びザンビアに逃れざるを得ず,その後チグムキル難民キャンプにたどり着きました。(略)
その2か月後,重装備のザンビア兵が何百人もキャンプに踏み込んできました。お前たちのために良い家を建てたので,そこまで運んでやるという話でした。それが真実でないことは分かっていました。兵士たちが人々を強制的にトラックやバスに乗せ始めると,大騒ぎになりました。兵士たちが空に向かって自動小銃を撃ち始めたので,大勢の兄弟姉妹は恐ろしさのあまりクモの子を散らすように逃げ出しました。
(略)大患難の始まりだと思いました。すべての難民がマラウイに向かって走りました。まだザンビア国内にいた間に,わたしたちは川に行き当たりました。兄弟たちは手をつないで向こう岸まで幾つか列を作り,皆が安全に渡れるようにしました。しかし,対岸でザンビアの兵士たちに一網打尽に取り押さえられ,マラウイに強制的に送り返されました
 またマラウイに戻ることになりましたが,どこへ行けばよいのか分かりませんでした。政治集会や新聞は,村に到着する“新顔”に注意するよう人々に呼びかけていました。エホバの証人のことを言っていたのです。それで,首都に行くことにしました。そこだと村にいるほど目立ちません。小さな家を借りることができ,エマスは旅行する監督として諸会衆を秘密裏に訪問する活動を再開しました。(略)


この記事では触れていませんが、党員カードを買ってはいけないということはものみの塔世界本部の指示でした。
そのために、この記事にあるように迫害が起こりマラウイからザンビアへ多くのエホバの証人が逃れました
しかし、このときザンビアのエホバの証人の多くは上流階級であり政党幹部や政府の要職に就いていました。
しかも、1972年にはものみの塔の世界本部はこのことを、ザンビア大使館からの抗議で知っていました。
しかし、ものみの塔世界本部はその抗議を無視したのです。

ソースは、http://jwleaks.files.wordpress.com/2013/09/228559.pdf
ここに、ザンビア大使館からアメリカ国務省に宛てた文書が公開されています。
内容は、ものみの塔協会が上記抗議を無視し続けていることへの怒りの告発です。