このBlogに下掲の書入れがあった。失礼だが、あの事件後60年経ってアメリカで日本の方からこのようなお便りを戴くほど世の中が変わるとは夢想だにしなかった。書き入れてくださったヨザクラさんとは勿論面識がない。

僕にとってあまりにも重要な投書なので、勝手ながら再録さして戴く。 (下註参照。)

拙い僕のBlogを読み続けてくださることを有難く思う。厚くお礼申し上げる。

                                  ★

■書き込み。売られた兄妹の面影#1

トーマスさま

 此処で何度も引用されている逸話は、本ブログ2007年06月29日号にて、貴方が初めて紹介した目撃談:「1946年の秋、木枯らしが吹き出した大連の街で----常盤橋を横切ろうとしていた。----少年の首から薄汚いダンボールの札に『売ります』と日本語で書かれたあった。----数日後に僕は大連を脱出した。」
のことですね?



 敗戦時の混沌騒然たる状況に加え、しかも貴方は統治側の人間ではなかったのですから、「何もしませんでした」などと責任を感じる必要も義務も無いにも拘らず、哀れな兄妹のために、繰り返し何回も涙を注いで下さる。その心優しさ、実に忝いことであります。
 これこそが、私がこのブログを読み始めるようになった動機です。日本人の敗戦難民に一掬の涙を流して頂き、有難い話です。

  ただ、責任が無かったにも拘らず、当該兄妹の力になってやれなかった無念さが、何時まで経っても悪夢の様に貴方の心にこびり付き、心の平静さも乱されがち のように推測されます。そのような悲惨な体験は、決して貴方一人に限定されたものではなく、同様の経験を積んだ人もいらした模様です。

★ (実に大きなお世話ながら、類似体験が綴られた随筆の一部を以下に勝手に紹介します。ご不用であれば、削除なさって下さい。

 以下は、《大連----昭和二十二年元旦/大西功氏・筆》の一部です。なお、この体験記は、《されど、我が「満洲」》(文芸春秋、1984年発行)より抜粋するものです。
 字数制限を突破する可能性があるので、体験記の原文は、別枠にて投稿します。Yozakura 2008-09-27 16:58:28 )



★ 書き込み、売られた兄妹の面影#2

《大連----昭和二十二年元旦》

 夜明け前、私はいつものように坂下の家まで水汲みに行った。井戸には、もう幾日も前から氷が張りつめていて、石を落とすと暗い底は、十一歳の私を威嚇するように吠え立てた。

 夏の終わりごろから、大連市桜花台の住宅街では、しばしば断水状態が続き、毎朝の水汲みが長男である私の日課になっていた。

 凍てついて棒のように硬直した綱をたぐると、たちまち指先は感覚を失っていく。

 突然、背後から「いつもいつも盗みに来て。明日からは料金をもらうよ」と、この家の主婦の険のある声が飛んできた。逃げるように坂の途中までくると、呼吸(いき)が切れ、いっそこの場にバケツの水をぶちあけてしまいたい衝動に駆られるのだった。

 ひと息ついていると、初日の出を背にして喘ぎながら登ってくる少年に気付いた。細い肩に石炭籠をぶら下げた天秤棒が弓なりになって喰い込んでいる。

  昨春から学校に姿をみせなくなったK君だった。運動が得意で、読書が好きな快活で聡明な級友だった。噂では両親を失くし、弟や妹たちと離ればなれになって 中国人にもらわれていったという。骨がきしむような寒気のなか、彼は素足のまま、目を一点に見据えて私の横を通りすぎた。湯気が立ち上る坊主頭に、大きな 瘤があお黒く盛り上がっている。

 頬はこけ、口もとにわずか面影が残っていた。私はなぜか声を掛けることも出来ず、金縛りにあったように突っ立ったまま、彼を見送った。坂の上で足を滑らせたのか、彼の身体は大きく籠に振り回されて消えていった。

  家に帰り、お屠蘇も雑煮もない食卓で、落花生の絞りかすをかじっていると、衝立越しに隣家の老人が「今度こそ、引揚の話は本当らしいですな」と病床の父に 話しかけてきた。-----私はふと「K君はどうなるのだろう」と思った。彼が日本に帰れるのは、全く絶望的なことのように思えた。
 私は数日 前、中国人街の豆腐屋で見た光景を忘れることが出来なかった。襤褸(ぼろ)をまとった邦人の子供たちが、驢馬のように石臼をひいていた。濡れた土間にしゃ がみこんで、高粱飯をかき込んでいるものもいた。そして彼らは全員、声を殺して泣きじゃくっていた。(長いので、後半部縮小。)

■ 書き込み、 売られた兄妹の面影#3

 私は家を飛びだし、日僑初等学校第七校、以前の春日国民学校に向って走り出していた。----学校に行けば、元旦でも誰か先生が登校しているはずだ。K君のことで相談できる。
  赤レンガの校舎には、つららが装飾物のように連なって光っていた。窓には木切れと麻袋が打ち付けられてガラスはほとんど見当たらない。----うす暗い廊 下に荒縄が張りめぐらされ、洗濯物が小動物の骸(むくろ)のように垂れ下がっていた。生活が窮乏するにつれ、生徒の数は日毎に減り、空いた教室に開拓団か らの避難民が入り込んで来ていた。
 私は足元に点在している糞便に気を配りながら職員室に向った。階段の踊り場を四つん這いになってうごめいてい る老婆がいた。職員室は荒れ果て、ストーブ代わりに使っていたドラム缶が放置されていた。----学校がすでに閉鎖され、いつ終わるとも知れない長い冬休 みに入っていることを、(私は)知らなかった。

 しばらくして、私はもはや先生たちも何の頼りにもならないのではないかと感じはじめてい た。----一ヶ月ほど前、私は弟たちと電車通りでカンコロ餅を売っていた。売り喰い生活も底をついたのか、通行人たちに外套を着ていない連中が目につく ようになっていた。ただ立っているだけでは、誰も買ってくれない。
 私たちは通行人にまといつき、泣きついてせがんだ。そのうち私は、向陽国民学 校で担任だった先生を見つけた。「先生」と飛びついていくと、彼は私の手を荒々しく払いのけ、押し黙ったまま、振り向きもせずに歩いていった。私は呆然と その後姿を見送った。-----この記憶が、私を職員室から立ち去らせた。

 私は人気(ひとけ)のない春日池から、かつて要塞地帯として立入禁止だった中央公園裏の小山に登っていった。-----目の下に大連市街がすすけた色で横たわっていた。あの洗練された色どりの街並みは、どこかへ消え去っていた。-----

(長いので、全体の10-15%くらいを、省略しております。悪しからず。)

★★註。

桜花台(確かな記憶でないが、桃源台だったかもしれない)、を1946年の春に僕は訪れている。桜花台は落ち着いた住宅区でもあり、大連都心の常盤橋から南に電車で下り、終点の老虎灘につく手前に降りる地点だった。

仲良しだったPaul Maruyama君が母堂とあそこに避難していた。父上が日本に去ったあとだった。(戦後、Paulと僕は友だちになった。そして、僕たちは英語クラスに居たから、お互いにクリスチャン・ネームで呼び合っていた。)Paulの日本名を僕は知らない。

彼はたしか大連第一中学校の学生で、父上は鞍山製鋼所の職員でカトリック教徒だった。春だったかに、伏見台教会に至られたレイモンド・レイン司教の指導下にソヴィエト軍占領下に、大連地区に包囲されてしまった日本居留民の窮状を東京に報告する密使が派遣された。

その密使がPaulの父上だった。その時に、Rose Anne修道女が麻生という吉田茂首相の身内女性に手紙を書いて託したと思う。勿論僕は恩師Schiffer先生の傍に居たから、そのことを垣間見ただけだった。(勿論60年後の今日、僕の記憶は確かではない。)ただ、手紙の宛名麻生だけは記憶に残っている。Paulがその後どうなったか、僕は知らない。

大連常盤橋。1945.


この挿話の兄妹が、この写真手前の鷲像塔の麓で売却されたの見たのはあの春だっただろう。僕は続いた秋に大連を去った。

ふたたび、ヨザクラさん、書き込んでくださってありがとう