今回はちょっと私的なことを書きます。
平成31年3月23日、我が母校、神前(かんざき)小学校が132年の歴史に幕を閉じ、閉校となりました。
卒業生代表として、閉校記念式典に参加させてもらいましたが、こみ上げるものを禁じ得ませんでした。
私は、昭和56年の卒業生ですが、当時から、一学年一クラスしかない、小さな小学校でした。
でも、私は、人生にとって大切なことのほとんどは、神前小学校で教えてもらったと思っています。
私の家は、比較的、学校から離れていたので、子どもの足で歩いて片道30分くらいはかかりました。ただ、その分、毎日の登下校の時間がたっぷりあったので、ぶらぶらしながら、空を眺めたり、川を覗き込んだり、時には星空を見上げたりしながら家に帰っていました。
春にはあのなんとも言えない山の匂い、夏にはくっきりと浮かび上がる入道雲、秋には稲刈り後の焼けた麦わらの香り、冬には凍てつく乾いた北風‥ 今でもはっきり思い出せます。
おかげで、季節の変化をいち早く感じ取る力だけは、人より強くなったように思います。
一学年一クラスしかなかったので、当然、6年間同じメンバーで、今でもみんなの出席番号を覚えています。
その後、中学、高校、大学と進みますが、だいたい私がいつも一番の田舎者で、高松市内にある高校に進学したときにも、天王(てんのう)中学(平成25年にすでに閉校)という名前すら知らない生徒もたくさんいました。
でも、私の原点は、なんといっても6年間を過ごした神前小学校です。
私はこの神前小学校という小さな小さな小学校の卒業生であることに、ささやかな誇りを持って生きてきました。
20代前半にアメリカに留学しとき、同じように留学をしていた世界各国の外国人学生が、それぞれの「お国自慢」をすることがあったのですが、そのとき私が語ったのは、東京や京都のことではなく、生まれ育ったふるさと神前のことでした。
いかに美しい自然の風景があるか、そして、いかに人間が素晴らしいか、20分くらいしゃべったと思いますが、あるギリシャ人の留学生は私の話を聞いて涙を流して感動してくれました。
昨年、母親が実家を整理していた際に一通の手紙を見つけて、渡してくれました。
それは、私が神前小学校6年生の時の担任だった岡崎先生が、卒業後しばらく経って自宅に送ってくれた手紙でした。そんな手紙をもらっていたことは全く忘れていて、母から手渡されてびっくりしたのですが、その中身を見て、さらに驚きました。
そこには、こう書かれていました。
先生は神前小学校で教えた後、高松市内の小学校に赴任するすることになったけど、勉強だけでなく、書道にしても絵画にしても、神前小学校の子は、高松の子に絶対負けていない。だから、神前小学校で学んだことに誇りを持って、自信を持ってがんばってください、と。
30年以上前の手紙であり、先生が手紙をくれたことさえ覚えていませんでしたが、改めて手紙を読んでみて、無意識だけど、先生に言われたことをいつも意識しながらがんばってきたような気がします。
やっぱ、神前小学校いいよね。
改めて誇らしく思えました。
だからこそ、閉校が寂しいのです。
時代は、どんどん地方を置き去りにしているように思います。同じ県の中でも、ある種の格差がつき始めています。
でも、こんな私だからこそ自信を持って言えるのは、田舎の学校でも恥じることはないし、小さな学校でも優れた教育は可能だという確信です。
今は政治の仕事をしていますが、私の政治信条の根っこにあるのは、この田舎者の心意気です。
どんな地域に生まれても、どんな家庭に育っても、等しく優れた教育を受けるチャンスをすべての子どもたちに保証したい、私は心の底からそう思っています。
それは、私自身、大きな成長のチャンスを、小さな神前小学校という公教育に与えてもらったからです。
神前小学校がなければ、今の私はありません。
今、就学前教育の無償化や高等教育の拡充に注目が集まっています。それはそれでいいことなのですが、私は、今一度、公立小中学校など、地方の公教育の充実に光をあてるべきだと考えています。
特に、初等教育が極めて大事だというのが、私の持論です。
ちなみに、神前という名前は、「神様の前」と書くので、とても縁起がいいとされ、昔は、結婚するカップルが国鉄の神前駅を訪れて、記念に切符を買っていくことがあったそうです。
その神前駅も、無人駅になって久しくなりました。
時代は変わっていきます。
しかし、ふるさとで育まれた想いは永遠です。
これかも、私は田舎の応援団長として、がんばっていきたいと思います。
それが神前小学校への恩返しだと思っています。
ありがとう。神前小学校、ありがとう。