(追記:2021年5月31日 アニメに描かれたバスの中の男女)(映画批評)映画『薄暮』を観て | 作家・土居豊の批評 その他の文章

(追記:2021年5月31日 アニメに描かれたバスの中の男女)(映画批評)映画『薄暮』を観て

(追記:2021年5月31日 アニメに描かれたバスの中の男女)

 

【(映画批評)映画『薄暮』を観て】

 

本作については、以前から噂を聞いていたが、わざわざ劇場でみるのはもったいないと感じて、観に行かなかった。しかし、アマゾンプライムで視聴できることになり、一方では2011年の311から10年の節目で、ユーチューブで無料視聴できる機会も作られていた。そうなると、本作を劇場で観なかった不特定多数が、東日本大震災の絡みで視聴することが想定される。

やはりここはあえて視聴し、本当にこの作品が世評に語られているほど酷いものなのか、確認しなければならないと思ったので、今回の批評を試みることにした。

本作は、山本寛監督の「東北3部作」の一つとのことだから、東日本大震災との関連で視聴されることを想定して作られたアニメ作品であることは大前提だ。だが、筆者は今回初めて視聴したので、あえてその前提を外して批評する。

なぜなら、どんなアニメ作品(に限らないが)も「〜〜のために」という前提は早晩、視聴者に共有されなくなるからだ。また、そうでなければ、作品がとても限定的なものになる。

そこで、本作を前提抜きで視聴した上で、いくつか指摘していく。

(1)性的な視点の多さ

本作には、女子高生の肉体描写が異様に多い。制服のスカートのローアングルの多用、部屋着やパジャマを脱ぐ場面、入浴シーン、など、上映時間の尺に対して不必要に多い。

 

※追記

《女子高生のスカートの中が覗けるような無意味なローアングルが何度も描かれる。また、入浴シーンでは乳房の位置が変な位置になっている。》

 

さらに、女子高生が全裸になって自慰するとおぼしき場面が、作品の重要なテーマを示唆するらしき夢の場面と組み合わされる。そのせいで、自慰シーンを不快だから飛ばそうと思っても、作品の要のシーンを見るためにはどうしても無視できなくなっているのだ。

 

※追記

《なぜか全裸になった女子高生が自慰をするとおぼしき場面の後、夢の中のシーンで、福島原発と思われる光景が挿入される。翌朝、彼女は目覚めた時もまだ性的妄想を引きずっているような雰囲気に描かれる。》

 

この自慰と夢の組み合わせが意図的なのだとすると、本作はR指定が必要だと思う。また、この構成が無自覚にされたのなら、山本監督の雑な仕事ぶりが視聴者にとってかなり迷惑だ。

また、女子高生の性的な描写をリアルと感じるか嘘くさいと感じるかは、視聴者の性別や年齢、世代にも左右される。ちなみに筆者は50代男性だが、こんな女子高生はいないと断言したくなる。なぜなら筆者は長年、高校で教員をしていた経験上、世間一般の女子高生の生態を、他の人よりある程度よく見聞している。こんな女子高生はまずいない。

もう一つ、ラストシーンのキスだが、告白後すぐにキスする男子高校生もおそらくいない。特に、それまで女性と交際した経験がない高校生男子の場合は、絶対こんなことはできない。もし、告白即キスする男子高校生がいたとしたら、それは確信犯的で、性的経験豊富な危険な人物だろう。

(2)人間味の感じられないキャラクターの謎

本作の主な人物二人、女子高生と男子高校生は、身動きも話し方もなぜだか普通の10代の子に見えず、極めて不自然だ。作画ミスと思われる首の90°回転も、まるでアンドロイドのように見えてしまう。

この二人の主役は、二人とも東日本大震災からのPTSDを抱えているらしい。だが、たとえそのための設定として不自然な言動をさせてあるとしても、作品中でただ単にその設定が放置されケアも何もされない。心的外傷を抱えたらしき二人の10代の男女が、お付き合いを始める告白場面で映画は終わるが、この両者ともPTSDと向き合う様子が見られない。だから、このカップルの破綻はほぼ確実に思える。なぜなら、告白場面で女子高生が怒鳴るように言う「浮気したら許さないんだから!」のセリフは、この後すぐに男子高校生にとって重圧となるはずだからだ。精神的に不安定な彼は、いずれ過去の初恋の人に逃避しようとするだろう。女子高生の方も、心をさらけ出していけばいくほど彼を手酷く傷つける。しかも彼女は自分の攻撃性に無自覚だ。

それというのも、本作の大半を占める彼女のモノローグは、内面を糊塗してごまかし続けている。彼女は内面の直視を恐れて無意識に心的外傷を押し込め、わざと体験や思考を改変したモノローグを絶え間なく続けて、自分を騙し続けている。

また、彼女はなぜか宮本輝の『優駿』を読んでおり、なかなか読み進められないことを独白する。彼女は文学作品が理解できないのか、あるいは文章読解力が乏しいということなのか不明だが、どうやら精神的に問題を抱えていることはわかる。

こういった彼女と彼の内面の歪みを、不自然な人物描写によって意図的に描こうとしたのだろうか? そうでないとすれば、単なる非人間的なキャラクター描写が、脚本かコンテか演出の失敗の連続として放置されただけだと考えられる。

(3)風景の描きこみの多さと、人物の希薄さのコントラスト

本作は、いわき市の自然描写が重要なモチーフとされている。確かに風景描写は丁寧に描きこまれ、色彩美も工夫されている。作品の上映時間の中で自然描写、光景の描写が人物描写より多く感じられるのだが、実際の時間としては人物描写の方が当然長い。けれど観終わったあと、人物描写は主役二人以外はほとんど記憶に残らない。この映画の重要場面のほとんどは自然や光景の描写であり、人物描写が逆に背景と化しているのだ。

わざとそうしたのならそれはそれでいい。だがもし、上映時間に比して多めの登場人物を、わざと印象の希薄な描き方にしたのなら、その目的は意味不明だ。人物の印象を希薄にする目的だというのなら、主役二人以外の人物はいなくても成り立つ。物語の本筋はこの二人に集中しており、他の多数の人物はほぼ本筋に無関係だからだ。それがもし意図的だとしたら、作品としては無意味すぎると思うのだが。

(4)物語がほぼ存在せず、全編、日常の点描のコラージュの連続

本作には、物語はない。日常の光景の連続しかない。それが意図的だというなら、視点人物である主人公の女子高生の心象風景は、あまりにも貧しいと思えてしまう。彼女の異様に乏しい心象風景を観客に提示するのが目的ならば、それはそれで仕方がない。しかし、本作のほぼ全てが彼女の無味乾燥な心象風景の連続なら、観ていて心が寒々としてくる。観終わった後、絶望感が残る。

(5)キスの意味、尻切れとんぼな結末の意味

主役二人の唐突なキスシーンは、10代の子同士のぎこちない性的行動ということなら仕方がないが、高校生の行動には思えない。この二人の言動は、中学生ぐらいの年齢設定にふさわしいのではないか? それも何らかの心的外傷によるものだというなら、それはそれで仕方がない。だが、この映画を広く公開して子どもにも観てもらうためには、あのラストの描写には問題がある。

つまり、こういうことだ。思春期の男子が女子に「好きだ」と気持ちを告白し、承諾されると即座にキスする。女子はそれを受け入れる。こういう場面を映画作品で見せられると、子どもに見せていいのかなあと不安を覚える。特に問題なのが、唐突なキスを女子に許容させていることだ。これは、現実にはセクハラ、下手すると暴行になりかねない。

また、あの場面で映画が幕切れとなることにより、実は作品構成が無意味化されてしまっている。そのことに監督自身は自覚的なのか、それとも無意識なのだろうか? 物語としては、愛の自覚と成就、という古典的なおとぎ話のパターンだが、それを現代の映画作品としてあえて作ることにどんな意味があるのだろう? 道徳の授業の教材としてなら、使えるかもしれないが。

この映画のラストシーンは、男子による女子へのセクハラ行為とその忍従なのか、相思相愛のハッピーエンドなのか? 少なくとも21世紀の倫理観、平均的なジェンダー意識を持つ視聴者にとっては、かなりショックを与えるエンディングだ。

(6)音楽描写の稚拙さと、音響面での充実のギャップ

本作は、基本的に音楽映画だ。女子高生の弦楽四重奏が、やたらと上手な演奏をするシーンが、最大の山場とされているのだから、クラシック音楽を重要なモチーフとする映画であることは間違いない。だが立派な演奏と音響に比して、肝心の音楽への理解と作中での描きこみが表層的、テンプレートすぎて、クラシック音楽好きの視聴者としては正直、つまらない。

なぜベートーヴェンなのか? なぜあの14番のカルテットなのか? なぜディーリアスなのか? 作中で人物たちが音楽作品に対峙する思考や、作品理解の掘り下げが全くないため、せっかくの見事な演奏録音が、無意味に聴き流されていくだけに終わってしまう。

(7)主役二人、女子の音楽性の過剰と、男子の美術的能力の稚拙さのギャップ

そうはいってもこの主役の女子高生は、音楽性においていささか不自然なほど進化している。ヴァイオリンを幼少期から習っている設定だが、家でほとんど練習しないのに、なぜか高校の弦楽四重奏では達者な演奏ぶりだ。ということは、この女子の音楽的才能はかなり高いということになる。しかも、日常的にスマホでディーリアスを聴くという、渋い音楽の好みが設定されている。

一方、主役の男子の方は、異様に稚拙な絵を描いている。彼が描く絵はひどく下手なのだが、美術的な知識は豊富であるように思える。

絵が下手なくせに口だけは達者なこの男子は、ヒロインの音楽性豊富な女子と付き合うことになるが、すぐにひどい劣等感に苛まれるだろう。彼は口先で美術論を語るが、絵の才能は、彼女の持つ音楽の才能と比較すると全く釣り合わない。

もちろん、カップルとしてはいろんな可能性がある。彼が彼女にすっかり惚れ込んでいて、自分の才能の不足を棚上げできる性質なら問題ないだろう。だが、作中に描写された彼の言動を見る限りでは、やたらとプライドばかりが高い人物だ。しかも自分勝手で、他人の迷惑を顧みない性質がむき出しになっている。このカップルは、すぐに破綻するだろう。

(8)他作品のキャラをあえて登場させる意味

本作で、もっともうなづけないのは、他社の作品の無断?借用だ。それも、京都アニメーションの作品からの借用だ。本作のように短い映画の中で、あえて他社の作品から借用する意味はどこにあるのか?

 

※追記

《京都アニメーション作品からの借用として、文化祭の模擬店で「涼宮ハルヒの憂鬱」のキャラクターが多数、ほぼそのまま描かれている。その登場は唐突で驚かされるし、果たして京都アニメーションに許諾を得て登場させたのか?が、エンドクレジットでは不明だ。》

 

(9)なぜキャラクターたちは方言で喋らないのか?(作品の目的との不整合)

本作は東北を舞台として、震災後の高校生を主役に描いている。だがセリフはほぼ標準語喋りだ。それはそれでいいが、この作品がある地方の風景、ある地方の人間を描き出すものならば、セリフにはもっと注意をはらうべきだろう。標準語喋りにした時点で、地方に根ざした作品としては一歩後退だからだ。

標準語のセリフは、より多数の人に理解されやすい利点がある。だがこの短い尺の映画で、とりたてて複雑な物語もないことから、方言喋りにした方が作品テーマにはふさわしかったのではあるまいか?

以上、映画『薄暮』を9つのポイントに分けて考察したが、最後に一つ追加する。この映画は本当に完成品なのか? 作画が混乱している部分が多く見受けられることと、もっとも山場であるはずの演奏シーンで止め絵を多用すること、それにラストシーンが尻切れとんぼだったことを考えると、この映画は未完成なのではないか、と思えてしまう。本当は、倍ぐらいの尺を予定していたのではないのか? もしそうだとすれば、未完成品で公開するのではなく、時間はかかっても完成させてから公開するべきだったと、残念に思う。

 

 

※追記

 

参考までに、以下の作品での、バスの中での男女高校生の描写を記事にまとめてみた。比較すると、興味深い

 

『SSSS.DYNAZENON』第8話をみて、バスの中での男女高校生二人の描き方にいたく感心した。以下、その描写の秀逸さをまとめてみた

アニメに描かれた、バスの中の男女高校生のやりとり、その距離感

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12677845719.html

 

 

※以下、画像引用(『SSSS.DYNAZENON』第8話より)

 

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