桜井好朗先生のこと。 | 斎藤英喜の 「ぶらぶら日記」

桜井好朗先生のこと。

本日、名古屋の某斎場で行われました、故桜井好朗先生の告別式に参列してまいりました。

桜井先生は、5月8日の午前早くに逝去されたとのことでした。
ただ前夜は、奥様とともに夕食を召し上がり、お好きなお酒を楽しまれ、そして午前二時まで読書されていたとのことです。本当に、突然の「死」であったようです。

本日の告別式には、前の職場である椙山女学園大学の関係者が方がたくさん参列されていました。皆さん、先生の突然の死に茫然とされていましたが、先生らしい最期であったという声も聴きました。僕もほんとにそう思いました。

佛大からも、何人かの教員や教え子たちが、先生をお見送りいたしました。先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

にこやかな先生の遺影のお写真は、なんだか今にも語りかけてくるような、そんな雰囲気でした。

あらためて思えば、僕自身、桜井先生には、ほんとうに言葉に尽くせないほど、お世話になりました。学問的な影響は、あらためていうまでもありません(以下、思い出話です。長くなります。

最初に先生に直接お目にかかったのは、先生が1989年に日文協の大会で「中世の王権神話」というタイトルで発表されたときです。
発表のなかで、僕の拙い論文を引用してくださったにもかかわらず、僕は先生の発表内容に質問というか、批判というかをしたのでした。

生意気な若造の発言に、先生は気を悪くすることもなく、というか、このときの僕の先生への「批判」めいた発言をきっかに、それ以来、文字通り公私にわたるお付き合いをさせていただくことになりました。僕が名古屋の椙山や京都の佛大の職場にあるのも、そのときのご縁からなのでした。

椙山女学園大学短期大学部の「国文科」は、ほんとに楽しい職場でした。
短大生のゼミも、大学院クラスでやってほしいと先生にいわれて、
僕もかなり背伸びした授業をしていました。
でもそんなゼミにもついてくる椙山の短大生はすごいと感心したものでした。

椙山に着任した直後に、例の「オウム事件」があって、宗教的なものにたいする世間の「偏見」がすごかったとき、僕がちょっとへこんでいるとがくり、桜井先生から、こういうときこそ宗教についてしっかりと語る必要がある、お互いに頑張ろうといわれたことに、とても感動し、励まされました。

そして、2006年刊行の、先生の最後の著作となった『中世日本の神話と歴史叙述』岩田書院には、本の最後に「付編」として、1961年、30歳のときにに発表された「中世人の思惟と表現」という論考が入っています。
それをあえて著書に入れたことの説明として、「私の「内なるマルクス」が本来のマルクスとは密着しないままに暴れ出すのを、私は善しとしてきた」なんて一節があります。

 
4872944364中世日本の神話と歴史叙述
桜井 好朗
岩田書院 2006-11

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あらためて桜井先生の近年の論考を見ると、たしかにやたらと「マルクス」が登場してくるのでした。最初はなんで今更とも思えましたが、僕自身も、近年の思想動向のなかで、マルクスとの「出会い直し」が必要となっていることに、やっと気が付いてきたところなので、さすが桜井先生は、すごいなぁと、いまさらながら感服して、この論考を読み直しました。

一方で、桜井先生は「花井純一郎」とう筆名をもった詩人でもあります。このへんはあまり知られていないというか、学者の「余技」みたいに思われてきたかもしれませんが、やはり桜井好朗にとっての「詩」や「文学」の問題は不可欠なのだと思います。


先生が佛大を去られたとき、研究室に残された膨大な雑誌類のバックナンバーを、そのまま僕の研究室に移したものがあります。そのなかの一冊に『ユリイカ』1978年の「特集・デカダンス」があります。



生田耕作や田辺貞之助、磯田光一、阿部良雄など「豪華メンバー」によるユイスマンス、ボードレール、ワイルドなどについての、興味深い評論が入っています。
それを見ると、桜井先生の書き込みがあって、詩人としての「花井純一郎」の文学的な資質が「デカダンス」や「象徴主義」みたいなところにあったことが、なんとなく伝わってくるのでした。

またこれは先生から直接いただいたものですが、桃源社刊行の「世界異端の文学」の一冊、澁澤龍彦訳のユイスマンス『さかしま』があります。1966年版のものです。まぁ、「家宝」ですね。

このへんは僕も好きな世界ですが、これらの「文学」については、なんか気恥ずかしかったので、あまり先生と話すことをしていなったのが、今となっては悔やまれますね。

ともあれ「中世神話」「神々の変貌」という、
今まさに焦点となっている研究の先陣を切った「桜井好朗」を、
今後どう研究史のなかで位置付けるかというとき、
先生の「内なるマルクス」とともに「デカダンス」やら「象徴主義」やらの文学の世界は、重要な「鍵」になるのかなぁと、あらためて思ったのでした。