矢井田瞳の大きな変革、深みをさらに増した4thアルバムの先行シングルでもあった「一人ジェンガ」
この曲は、矢井田瞳というアーティストの全作品を並べた中でも、きっと一番にヘヴィな唄だと思う。
うつくしく軽やかなメロに乗る歌詞は、せつない・痛いを通りこして、心の奥に、ドンと乗ってしまうようにヘヴィである。
自嘲とすら思えるくらいに相反したメロ・歌詞のこの重みは、秀逸すぎて、息も出来ないくらいにリアルなのだ。
「会いたいけど会えないの
いま会うのはちょっと怖い
いらん言葉の積み木で
次の迷路に呼んでしまう」
というサビのこのことばを是非感じてほしい!
リアルそのものであり、<恋愛>という経験において、この感情をかんじたことがたしかにあるのだ!
会いたいけど会えない。いま会うのはちょっと怖い。
まさしくそれは、現実味を帯びた感情であり、途方もなくリアルである。
そして、うつくしく軽やかな(そして、だからこそ同時にとてつもなく自嘲的に響いている)メロに乗ることによって、
この世界の重みはずしりと重くなっていく。
まるで笑うようにかろやかに唄う矢井田瞳の姿が、あまりにも自嘲的・自傷的で、恋をした息苦しさの重さがリスナーにまでのしかかってくる。
それは、<表現力>としてはきわめて高いものだとわたしは思う。
そういったヘヴィさ・重さは、歌詞のなかの
「笑いたいの信じたいの 胸の底の沼から」ということばが特に象徴的で、
わたしにとって、胸の底にあるものが<沼>だという表現が、リアルで同時に、とてつもなく苦しいことに思える。
胸の底の沼から、笑いたい。信じたい。と矢井田瞳は言うのだ。
けっして、胸の底の沼から <出て行って> ではなく、 胸の底の沼から、 だと明言している。
それは、わたしたちがその<沼>から逃れられないということの象徴のようでとてつもなく苦しい。
笑いたい 信じたい と思うことはたしかに本当のことで、
それでも、胸の底の沼から逃れられないのなら?と思うと
あんまりにも悲しい。
すごく、すごくヘヴィだと思う。
恋をしているはずなのに 苦しく痛い 胸の奥。
迷路に迷い込んでは 沼にまみれていく己。
それはすごくかなしいことだ。
そしてそれは、とんでもなく本当のことだ。
すごくヘヴィな曲だと思う。すでに、「容赦ない」というレベルのものではないと思う。
なぜならば、そう唄うことですでに、矢井田瞳はきわめて自虐的で自嘲的なのだ。
それだけで本当にかなしいと思う。
しかし、この唄のヘヴィさは邦楽シーンにおいてもぜひとも注目してほしい、特殊なヘヴィさだと思う。
これは単純な<ヘヴィ>なんかじゃない。
あまりにも絡まりあった感情と事実でなせる技の<ヘヴィ>だ。
そしてそれを成し遂げてしまった矢井田瞳のスキルの高さには、もう驚愕するしかない。