昭和初期の満州事変・日中戦争からはじまる軍部の総動員体制はよく知られている。

そのなかであるひとつの政策を文部省が推進した。

それは、兵器開発・増産のための人材養成である。これを受けて、1939年(昭和14年)に官立高等工業学校の大増設が行われた。官立の室蘭高等工業学校(北海道)、盛岡高等工業学校(東北)、多賀高等工業学校(関東)、大阪高等工業学校(近畿)、宇部高等工業学校(中国)、新居浜高等工業学校(四国)、久留米高等工業学校(九州)の7校である。


しかし、戦局の悪化とともに軍部の要求・文部省の圧力は勢いを増し、ついに太平洋戦争中には全国にあった官立の高等商業学校、文系私立大学を工業系の学校に転換せよという乱暴な政策が推し進められた。

軍部が実権を握る政府内部には、「私立大学は早稲田の政治や中央の法といった一部の看板学部だけを残してあとは全部閉めて(兵隊に送って)しまえ」というような意見もあったようである。そういった空気を忖度したのか、1943年(昭和18年)10月に行われた「最後の早慶戦」では、舞台となった早大戸塚球場に開催に前向きな慶応側からは小泉信三塾長を筆頭に多くの教職員が観客席に陣取ったのに対し、文部省を刺激することを嫌った早大側は上からのお達しが徹底していたのか教員の姿はほとんどなく、「これがかつて早慶戦の切符を一枚でも多く寄越せとねだった早大教授陣の姿か」と早大野球部名物監督飛田穂洲をして憤慨させたという。

 

いずれにしても文部省の意向を感じ取って、慶應義塾は王子製紙の藤原銀次郎社長から藤原工業大学の寄贈を受けて工学部を設立した。ほかの私立大学もこぞって理工系の学部の新設に乗り出している。そしてそのいっぽう、当時全国に2校あった官立商大、11校あった官立高商は軍部と文部省の圧力に屈し、大幅に改変を迫られる。
すなわち、一ツ橋こと東京商科大学は東京「産業」大学に、神戸は神戸商業大学から神戸「経済」大学に、全国の高商は比較的文部省に協力的とされた5校(小樽、福島、山口、高松、大分)のみが経済専門学校と看板を架け替えて残され、彦根、高岡、和歌山の3校は工業専門学校へ改組、名古屋、長崎、横浜の3校も商業経済系教授陣を大幅に整理して工業経営専門学校への改組が決まった。
いま富山市の五福キャンパスにある富山大学工学部は、このとき1944年に廃止となった高岡高商が転換してできた高岡工業専門学校(発足時、機械科・化学工業科・電気科・金属工業科を設置)が戦後老朽化したキャンパスから五福に統合移転したものである。

結局、翌年の終戦により高岡を除く5校は工業専門学校化を取りやめて経済専門学校に復帰し、それが現在の国立大学経済学部(小樽商大は商学部)となっている。
振り返って見れば大騒動であったわけだが、何か似たようなことが最近行われているような気がする。

それが、各地方大学における経済学部の改組の動きである。
言い方に語弊があるかもしれないが、すでに自民党と文部科学省は地方国立大学の役割分担を理系人材の養成に舵を切っているように思える。養成にカネのかかる理系は科学技術振興の観点から国立大学が担い、逆に文系については都会の私立大学に担わせる。よって、地方大学の文系学部は必要最小限にとどめ、なるべく国の財政負担を軽くする。

すでに、官立第三高商の名門だった長崎大学経済学部は、1997年(平成9年)にそれまでの経済学科、経営学科、ファイナンス学科を総合経済学科 (7コース制) に改組された。
2014年に多文化社会学部を新設して学部定員を減らし昼間4コース制に改組し、さらに今年からは経済と経営の2コース制に移行するなど、正直まだ模索中の気がする。

香川大学経済学部でも2018年から経済学科の1学科5コース制に移行している。
そして、今春から滋賀大学経済学部も総合経済学科の1学科に改組となる。
筆者も香川大学経済学部の改組にあたって教授陣から聞かされ大いに憤慨したが、今回の滋賀大の件も「やっぱり」という感がする。
あるいは、国立大学初のデータサイエンス学部新設とバーターの取引が文科省側となされていたのだろうか?
本件について述べられている山内太地氏の動画を下にご紹介しておくが、筆者もまったく同感であり、学部改革がこのような方向で行われたことは実に残念な話である。
 

 

「山内太地の大学イノベーション研究所」より