[本文中の敬称は省略しております]


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 今の野球ファンに榎本喜八を知っているかといっても大概の方はご存知ないだろう。かつてミスターオリオンズと呼ばれた強打者は1972年に引退して以後、プロ野球界とは一切関わりを持たなかった。
 もう三ヶ月以上も前の話になるが、その榎本喜八が大腸癌のために他界した。享年75歳だった。

 この伝説の強打者は、しかし資格を満たしながら名球会の名簿に名前が載っておらず、また未だに野球殿堂入りも果たしていない。なぜなのか。
 それを考える前に、彼がどれほどの強打者だったのか、ざっと記録を追ってみたい。榎本を知らない人にとっては、返ってその方が分かりやすいだろうと思う。



 榎本喜八 生涯成績

通算安打数:2314本(歴代13位)
通算打点:979打点(歴代36位)
通算得点:1169得点(歴代19位)
通算二塁打:409本(歴代9位)
通算三塁打:47本(歴代43位)
通算本塁打:246本(歴代54位)
通算塁打:3555塁打(歴代17位)
通算四死球:1152四死球(歴代7位)
通算打率:.298(歴代26位)
通算長打率:.458
通算出塁率:.386

獲得タイトル
新人王(1955年)
首位打者2回(1960、1966年)
最多安打4回(1960~62、1966年。当時は表彰なし)
最高出塁率1回(1966年)
ベストナイン9回(1956、1959~64、1966、1968年)



 なるほど、これらは確かに一流選手の通算成績にふさわしいデータではある。しかし“伝説の強打者”と呼ばれる割には今一つインパクトに欠けるデータ群でもある。
 では、幾つか補足をする事により、榎本がいかに凄かったかを浮き彫りにしよう。


 榎本の通算安打数は現在プロ野球歴代13位まで落ちた。しかしながら、通算2000安打に達したのは川上哲治、山内一弘についで榎本が史上3人目だった。
 また、1000安打到達年齢24歳9ヶ月は現在も日本記録。2000安打到達年齢31歳7ヶ月も日本記録である。
(ただし、2000安打の方は、日米通算を可とするならイチローの方が早くなる)

 さらに、5年連続シーズン150安打以上、デビュー以来15年連続シーズン100安打以上、打撃十傑入り10回、シーズン最多四球4回という記録では現在もパ・リーグ歴代2位。173打席連続無三振という記録も持っている。


 特筆しておかねばならないのは、榎本の全盛期が基本的に投手優位の時代であった事だ。
 使用球が統一球に代わったここ一二年は明らかに投高打低の傾向が出てきており、全球団の平均打率は.250程度まで落ち込んでいる。だが、それまでは長いこと打高投低の時代が続いた。
 しかし、榎本の時代は全球団平均打率が.240前後。打率.310.~320程度で首位打者争いが出来たし、本塁打数が30本に到達すれば本塁打王も可能だった。最多勝投手の勝利数はコンスタントに30勝を越えていたのである。
 ほぼそんな時期に記録された2000本安打は、現代のそれとは本質的な重みが違う。


 こと榎本の場合には、さらに付け加えておかねばならない事柄がある。
 後に述べる理由から、彼はテキサスヒットや内野安打の類を極端に嫌った。榎本は“安打製造機”の異名を取った日本最初の選手だといわれるが、のちに同様の呼び名を受けた張本勲やイチローなどとはその辺が根本的に違った。

 長年に渡りチームメイトだった醍醐猛夫の証言によれば、榎本はポテンヒットや内野安打性の当たりだった場合にはしばしば全力疾走せず、そのためにアウトになってしまった打席が幾つもあったそうである。

 また、張本やイチローが、とにかくどんな球でも捉えて左右に打ち分ける、言ってみれば“ヒットをかせぐ打ち方”なのに対し、榎本はグリップを一杯に長く持ち、いかなるコースでもミートしたらフルスイングして引っ張るプルヒッターだった。
 それでいて、この数字は脅威としか言い様がない。


(続く)