Siyohです

Siyohです

音楽とスピリチュアルに生きる、冨山詩曜という人間のブログです

共有現実を創る存在の中には惑星や恒星も含まれますね、彼らも生命体だから。その他にも今の地球の状況を見ているエイリアンたちとか、人間を観察しているあらゆる存在の視点が、私達の現実と関わってくるわけです。これだけの相手がいると、一人で特殊な現実を創り出すのが如何に難しいかがわかります。

 

それはさておき、死後の世界はやはり、生まれ変わりの範囲で言えばすべて停点だと思えるようになってきました。ゆんゆんは

死の概念自体この先お前達は覆るからなー

お前達の死とは何を指していうのか
生を連続した意識とした時の、個体と個体の永遠の別れか?
停点の意味をもう一度考えてみろ
これ以上のヒントは今は与えられない

こんな風に言っています。生を連続した意識と考えると、それはいわゆる死後も連続しています。しばしば、その意識を消して地球にまた来る魂もいますが、これはある種の「死」ですね。もしくは、もう生まれ変わらないことを決めて上の階層に行くときも、何らかの「死」と呼べる状態があるようです。ゆんゆんのいう「死」はこのどちらか、もしくは両方なのかと思います。

 

あの世とこの世で停点の性質がだいぶ違いますが、それは、この世には時間があるからでしょう、霊たちは、向こうには時間がない、時間は人間の意識が作り出すものだと言っています。この意味が、停点の性質を考えてわかったような気がしています。

ある瞬間に真ん中のオレンジがかった色の停点にいると思ってください。次にどれに移るかは、あの世の上の階層ではほぼ制限がありません。手を離したボールは浮かび上がっても良いし落ちても良い。ドアを開けたら見たことのないような異世界が広がっていてもよい。しかしこれが地球だと、こんな感じで一定方向の停点に移るように促している風のようなものがあるのです。

だから、手を離したボールは必ず落ちるし、ドアを開けるといつも同じ景色。そしてこの風こそが時間であり、集合無意識の創る流れなのでしょう。それにしても完全に一方向というわけではなく、無限のバリエーションがありますが、この世では次に行くことのできる停点が、あの世よりも極端に制限されていると言えます。