昨年の12月22日に神山清子さんが亡くなられました。

この方は、滋賀県信楽の女性陶芸家で、若かりし当時、女性が歓迎されなかった作陶の世界で

その大きな壁をはねのけ、後進に道を開いた草分け的存在の先生です。

また、息子の賢一さんが29歳で慢性骨髄性白血病を発症し、骨髄バンクの設立に尽力した方でもあります。

 

その神山先生の訃報が昨年末に届き、

晩年はなかなか連絡も取らずにいたことを後悔しています。

関西に行った際にふらっと顔を出すこともできたのに。

 

高橋伴明監督の「火々」という映画があります。

この作品が僕の映画デビューであり、

自分にとってかけがえのない経験と今日までの指針を与えてくれた作品です。

この映画で、田中裕子さん演じる神山清子の息子・賢一役に抜擢してもらいました。

 

もう20年近く前の作品ですが、神山先生との思い出を書いておきたいと思いました。

 

 

撮影までの準備、台本の読み方、役作り、現場での立ち居振る舞い等々、

ほぼ何も分からない素人の僕が最も心を寄せさせてもらった人が神山先生でした。

きっと現場で心細く感じていたであろう僕を察して優しく接してくれたところもあったと思いますが、

亡くなられた賢一さんを重ねて見てくれたのだと思います。

きちっと上手に茶碗を作ろうと練習する僕に「あんたが今大事にやろうとしてるところは大事やない」とか「上手にやろうとしてるうちは下手くそや。下手くそ!」と言葉をぶつけられたりしました。

また、「ああ、賢一はそんなんやったわあ」「賢一はもっとどうしようもなかったけどなあ。あんたの方がええわ」とか「似てきたで似てきたで」と嬉しそうに言ったり、賢一さんの母としての顔も見せてくれて、なぜかホッとした自分がいました。認められた気がしたのでしょうね。

 

一ヶ月半ほどの撮影期間ずっと一緒に居させてもらえて、

本当の母のように感じられる瞬間が何度もあり、

実際の母ではない人に対してこういう気持ちになることと「芝居をする」ということは

とても関係があることなんじゃなかろうかと素人ながらに感じたのを覚えています。

実際、今日まで役者として試行錯誤してきた中で、それは「核」なる部分でした。

当時は、劇中の母がいて、神山先生がいて、もちろん現場にはいませんが自分の母がいるという、

僕には今三人も母親がいるのかと可笑しく思い、映画の世界は面白いぁとそれからの未来にワクワクしました。

 

一生懸命に頑張ること、

自分のできなさを認めること、

自分らしくいること、

楽しんでやること、

自分の知らない世界を学ぶこと、

この映画を通じて、生涯大切にしなくちゃいけないことをたくさん教えてもらいました。

 

撮影の一ヶ月半はあっという間に過ぎ、

伴明監督率いる高橋組のスタッフ・キャストと神山先生の存在によって助けられ、

素晴らしい作品の一員になれたこと、本当に感謝しています。

 

神山先生の作品は、火によって生命が与えられたのだと疑う余地もないほど力強いものでした。

ずっと見ていられる作品たち。

本当に目を奪われたなぁ。

本物の芸術作品に文字通り手を触れたのはこの時が初めてかもしれません。

一点ものの作品はとてもじゃないが買えませんでしたが、

のちの個展の際に頂いた信楽焼の湯飲みで毎日コーヒーを飲んでいます。

賢一さんが作られた、なんとも言えない紫色に輝く天目茶碗も大切に使わせて頂いてます。

天目茶碗の練習で作り、先生と同じ寸越釜で焼いてくれた僕の初めての作品は現在6歳になる息子のご飯茶碗になっています。

 

撮影も終わりしばらく経って、何かの折で電話でお話しした時に、

「ドラマ見たでー。嬉しかったわあ。でもあんたは不良をやっても真面目さが出るから火々の方がええわー」

と言われました。役者として未熟な自分を恥じつつ、見てくれたことが素直に嬉しかった。

でも、なんだかめちゃくちゃ緊張して電話してたのを覚えてます。

 

現在二児の父となり、不十分ながらも親としての務めを果たしていく中で、

神山先生の、仕事に対する向き合い方や子供との関わり方を思うと、一層その凄みを感じます。

 

いろんな辛いこと、悲しいことがあって、

嬉しいこともあって、

歯を食いしばって生きて、

話せば冗談ばかり言って笑ってる。

 

すごいなあ。

 

「火々」が僕の第一作目で本当に幸せでした。

これからも何度も思い出すことになると思います。

こころから尊敬している先生。

ありがとうございました。

 

賢一さんと久しぶりの再会はできたでしょうか。

どうぞ安らかに休んでください。