cat crossing考察 | 北沢志保Pによる北沢志保の為のブログ

北沢志保Pによる北沢志保の為のブログ

タイトル通りただひたすらに北沢志保のかわいらしさを布教していく為のブログ。他のキャラのことも書く。ただ間違うこともあると思うので「自分が思っているのと違うぞ」と思った場合は積極的にコメしてもらえるとうれしいです。

2017/09/20に発売されたTHE IDOLM@STER MILLION LIVE! M@STER SPARKLE 02収録曲

cat crossing!!!!!!!

満を持した北沢志保の3曲目にして個人的最推し曲です!(ライアールージュも絵本も志保の弱さにばかりフォーカスしている印象で余り好きじゃなかった(過去形)なんですよね。
今回の曲はかなり激しめなロックチューンで初期の北沢志保を髣髴とさせる孤高で泥臭い強かさ溢れる楽曲となっています。
今回は初聴き感想、もとい歌詞考察をしていきたいと思います。

獲物くらい自分で見つけるわ 甘く見ないで
飼いならすつもりなら 他を当たってよ

獲物くらい自力で捕まえられるから貴方の助力は必要ないし、構って来ようと貴方になびくつもりはないわ、という志保の『家庭の事も周囲の視線も全てひっくるめて私には関係ないし、貴方にだって関係ない』という想いが見て取れる清々しいまでの拒絶っぷりです。
初めの部分は志保の「私は自分の力でトップアイドルになるつもりなので」という自己紹介時のセリフを髣髴とさせますし、後半部はライアー・ルージュの以前といった趣きですね。
 

暗闇の中 道を滑ってくヘッドライトに
影法師落とし物 探さないでね

暗闇の中滑ってくヘッドライト、これって結構頼りにならないものなんですよね。光源は留まっていてくれないし光量も頼りない、何より来たと思ったらすぐに居なくなってしまう。
こんな頼りないもので探し物をしようとしてもおそらく上手く行くはずはないです。この歌詞内で語られる落し物は「影法師」というワードと間を置かず並置されているのでおそらくこの二者は同一だと考えるとこの志保の探している者はおそらく父親だろうと想像できます(大きな影法師を父親のモチーフとするのは割と童謡とかでも見かけますしね)
そしてラストの「探さないでね」というワードが誰に向けられているのか、というとまぁメタな見方になってしまいますが今後の歌詞内には(飼い慣らそうとした誰か以外は)志保しか出てこないのでおそらく志保が自分に向け
『頼りない希望を追ってもきっと何も見つからず悲しむだけだから探そうとしないで』
という忠告、或いは自戒にも見て取れます(裏を返すとこう言わなければいけないほどの孤独を志保が抱えてるという証左でもあります)

生きていくのは厳しいものよ
いつの時代も そうでしょ

14歳の年端もいかないガキが「いつの時代も」とか歌っちゃうという凄みもありますが、おそらくこの歌詞は父が健在だった頃に対するある種の憧憬にも私には思えます。
いつであっても「生きていくのは厳しいもの」という事は今が苦しいのと同じように志保の父が健在時であっても苦しいはずです。ただその苦しみを庇護下であった志保は知らなかったというだけであって。つまりこの歌詞は父が負っていた筈の苦しみの一端を肩代わりしているに過ぎないし、だからこそこの苦しみと向き合って生きねばいけないという事でしょう(志保どんだけパパの事好きなんだよ・・・)

からだ中もしも傷だらけだって
それは強さのエビデンス
心配しないで 余計なお世話ね
痛みと仲がいいの

 

カッコイイ……もう解説とか要る?(素)この歌詞ではこれまで志保の歌詞によく現れていた『強がりな憂いを帯びた少女』というモチーフからかなり脱却した姿が描かれる事になります。またここでは直前の歌詞を受けてか、傷・苦しみと「仲がいい」とシニカルに受け取る余裕すら見て取れます(そうは言っても『傷付かないように生きる』という気も器用さもないのがまた志保らしい所です)

 

 

小雨すら体温を奪ってく 袋小路で
うずくまりやり過ごす 背を向けたまんま

母子家庭という少々特殊な環境で育った志保は当然ながら非常に容易く傷付きます。授業参観、父の日、ただのマンガヤドラマのワンシーン、時に優しさすら志保を傷付けるのには十分過ぎます。そうした普通の人は気にも留めない程度の、それこそ小雨レベルの些事ですら志保の心から温もりを奪います。そして志保が背を向け袋小路でうずくまっているのも大通りに出てしまえばよりどれだけの無意識・無自覚な暴力に晒されるか分からないからです(この辺はかなり志保の孤立癖の強化因になったでしょう)

 

 

つま先の野生を信じてる


つま先の野生というワードは『爪先』ではなく『つま先』と表記されてる以上、野良猫的な意味での『爪』という意味とつま先立ちしてでも喰らい付く『根性』というダブルミーニングだと捉えるのが自然なように感じます。

また野生という言い方から爪そのものというより『厳しい野生という状況下において生きるための意志、或いは能力』というニュアンスが含まれていそうです。

自分自身すら 未だまるで捕まえられない
本能を追いかけて 虹を越えてく

また意外に思う人が居るかもしれませんが、志保は自己の客観視が非常に苦手です。有名どころで言えば劇場公開記念のボイスドラマで自分そっくりの設定のキャラクターを演じるよう言われた際に「キャラクターが掴めない」と言って挫折したりアイドル女学園では『自分には真面目で気弱な生徒役が合ってると思ったのに周りが認めてくれない』と愚痴ったりしています。これが志保の天然さ由来か何らかの防衛機制かは私には判断できません。
本能『で』追いかけて ではなく 本能『を』追いかけて となっているのはおそらく志保にとって本能(文脈的にはつま先の野生と同義)がまだ自分には欠けているという認識から出てる言葉でしょう。
今更ではありますが今回作詞に携わってくださった中村彼方先生は作詞家であると共に絵本作家でもあります。なので自分は初めてこの「虹を越えてく」という歌詞を見た瞬間やられた!と思いました。というのもこの『虹を越える』というワードは映画版のオズの魔法使いのテーマ曲なのです。またその歌詞内容もまた志保に合致したもので、

『虹の向こうには夢が全て叶う国がある。鳥たちは虹を越えて行けるのにどうして私は出来ないの?  いいえ鳥たちにも出来るのなら私にだってきっと出来るはずよ』

とまぁざっとこんな所です。歌詞に上手い事沿わせながら絵本という要素も組み込んでいく卓越した手腕は脱帽という他ありません。ちなみにこの原題over the rainbowと同じテーマ曲を持つフリップフラッパーズってアニメがあるんですけど、最高に面白いので良かったら見てみてください。アマゾンプライム、hulu、バンダイチャンネルで好評配信中です

 

 

鏡に向かい牙をむいたら
子猫に見えた 私は

鏡に向かって牙をむいてる志保かわいい
前述の通り志保は自己を客観視するのが苦手(というかしない)です。そんな志保が鏡に相対しているのはなぜでしょうか?これは少し持論とは離れるのですが、ライアー・ルージュの歌詞内で志保が口紅を引いた時の描かれていなかった一幕ではないか、という説です(因みに鏡とルージュというと『ルージュテスト』という言葉を思い出します。これは幼児のほほに口紅を塗って鏡の前に立たせほほを拭うかどうかで幼児が鏡の中の自己を自己と認識しているかを見るという実験です)北沢志保というキャラを考えると少々示唆的でもありますね)
「子猫に見えた 私は」が単なる倒置ではないという説も見かけはしましたが生憎と選択肢が多過ぎるのでここでは触れる程度に留めます。

 

 

抗い続ける それがなんなのか
わからなかったとしても

前述した通り志保は非常に傷付きやすく事実『世間』或いは『当たり前』という者に傷付けられてきました。それは時には悪意、時には善意、時にはそのどちらでもない捉え難い曖昧然とした姿で現れます。志保からすれば自分に向けられたあらゆる言動(時には自分に向けられていなかったとしても)は彼女を傷付ける刃に転じるしその転化がいつ如何なるように「それ」が起こるかは志保にはわかりません。故に志保は自分に降りかかるあらゆるに抗うように生きる事を選択します。

 

 

間違いの先に正解があるの
だから大丈夫でしょ
しなやかに生きてくって決めたの

志保自身にすら何もかもに抗うという生き方が間違っているのは知っています(あるいは『知った』のかも知れない)ですが志保は間違いであってもその先に正解があると信じています。因果論、悪因悪果が信じられる現代において当然のようにこのような点に志保の尋常ならざる部分を感じ取らずにはいられません。
続く「だから大丈夫でしょ」という部分が断定ではなく問いかけの形になっているというのも北沢志保という人間の弱さが現れていてとても好きです。
最後に志保の言う所のしなやかさとはなんなのか。これまでの歌詞で傷も間違いも肯定してきた志保の事ですのでおそらく「どんな辛苦に晒されようと決して折れる事ない強さ」ではないかと思います。しなやかってなんだよ。しなやかいうより頑丈なだけじゃねぇか

 

 

決してブレない生き方(後悔はしない)

本当に決してブレない人間ならわざわざブレないなんて言いませんし、それこそ何も後悔はないなら後悔はしないなんて言いません。志保の『決してブレない』『後悔はしない』という言葉は自分に言い聞かせているように私には思えます。

 

 

迷いなく見えるけれど (付きまとってる)
孤独から(孤独から)逃げられないの 二度と

ここで志保は初めて自らの不安を吐露します。志保がこういった自己の弱みを認めさらけ出す事はあまりありません(仕事上で上手くこなせず助力を受けてその事に感謝するといったシーンは多々見受けられますが、その際も明確に自らの弱みついて触れる事はあまりなく感謝というベクトルに徹した言動が多いように思えます)更に言えば「迷いなく見えるけれど」という台詞によって志保が自己を的確に客観視した上で自らの弱さを認めているというかなりレアなケースと言えます。

 

「迷いなく見えるけれど 孤独から」「付きまとってる 孤独から」という2つの歌詞はそれぞれ志保の物理的・精神的孤独を表しているように思えます。

前半の歌詞では「迷いなく見える」つまり外部から見える自分の孤独、後半部では「付きまとってる」つまり志保が常に感じ抱えている孤独という2種類の孤独について語っています。

前半部に関しては非常に分かり易く、単純に友人や心の許せる人間の居ない事について感じている孤独の事だと推察できます。志保は非常に強い娘で孤独にも耐えられると見られがちですが、周囲と馴染めていない事に不安感を抱えている事を吐露するコミュが有ったりと決して強い娘ではありません。志保がこうした面を余り表に出さないのは志保の強さではなく『言葉にしてその事実を再認識したくない弱さ』に思えます。

後半部に於いて描かれる精神的な孤独は物理的・外面的なものではなく精神的・内面的な『他人と居る際に感じられる孤独』だと考えます。

志保はその家庭環境ゆえ自己と周囲との違いにとても敏感で、その事も志保の孤立癖に拍車をかけていたでしょ。ここからは少々ややこしい話になるのですが、昔の志保は『友達の居ない事による孤独』と『自分が他者とは違うという想いに端を発する孤独』の区別がついていなかったのではないでしょうか。

しかし今回の歌詞では外面的な孤独と内面的な孤独を分離して考える事に成功しています。このようにして見てみると歌詞の前半部は志保が最初期から抱えていた不安、後半部はPや友人と呼べる人を見つける事で自認に至った孤独と考える事が出来ます。

つま先の野生は

ここは繰り返しの歌詞ですが、最後の歌詞が「つま先の野生を信じてる」ではなく「つま先の野生は」となっています。
続く言葉がないためかなり解釈の幅が広がりますが、自分としては前の歌詞においてつま先の野生は「信じてる」という在る事を希望しながらも確定的ではないような言い方をされていたので語られるのは『つま先の野生』が「在る」か「無い」になるのではないかと想定して論を進めます。
まずつま先の野生が「在る」という想定に立つとこの後の繰り返しの歌詞である「抗い続ける それがなんなのか 分からなかったとしても」という歌詞は『それ(つま先の野生)がどんなものか分からないけれど手に入れると決めた』という決意の言葉と受け取ることができます。
では逆にないという意味と捉えるとどうなるでしょうか?
そう捉えた場合つま先の野生はない、つまりそんな都合のいい『強さ』という概念などなかったのだという志保の気付きが歌われている事になります。しかし次の歌詞では「抗い続ける」と歌っています。この事から志保の『そんな都合のいい強さなどないという現実にさえあらがってやる』という決意が見て取れます。そしてこの一見矛盾した言葉もこの後の「間違いの先に正解があるの」という歌詞に繋がります。
 
総括
志保はこれまで楽曲において『本当は弱い等身大の女の子』という面がクローズアップされ、彼女の持つ『強さ』に対して触れられませんでした。しかし今回cat crossingという楽曲においてようやく目を向けられたように感じます。
cat crossing最高!!!!!(雑)