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今日(記事作成時点)は「昭和の日」、昭和天皇のお誕生日ですが、昨日(同前)は「象の日」でもあります。
つまり日本に初めて象が来て、天皇に謁見したのがこの日ということになります。
 
当ブログでは動物としての「象」の話題ではなく、取り上げるのはこちら↓
 
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飛行機の「ジャンボ」(以前の記事から転載)
 
飛行機の「ジャンボ」ことボーイング747は、日本の航空会社からは退役して久しくなっていますが、この「ジャンボ」のニックネームの由来、実は「象」の名前によるものなのですよ。
 

 

 

↑によると「ジャンボ」なる命名の由来は以下のとおりとされています。

 

 

以下引用開始

ジャンボという名前は、ロンドンでの飼育係マシュー・スコットにより名付けられた。この名前は、スワヒリ語の挨拶である"jambo"と酋長を意味する"Jumbe"を合わせたものといわれる(諸説ある)

以上引用終了

 

つまりスワヒリ語が起源ということなのですな。

そしてこの「ジャンボ」という名称が転じて「巨大な(もの)」という英語の形容詞・名詞になり、現在に至っています。勿論ボーイング747の愛称「ジャンボジェット」もここからきています。もっとも、当のボーイング社は当初、象の「ジャンボ」の鈍重なイメージがあったためか、「ジャンボ」の愛称を公式には使いたがらなかったようです。勿論その後は公式に使用していますが。

 

機材としてのボーイング747は、世界初の「ワイドボディ機(客室に通路が2本以上ある機材)」として登場し、その巨躯から「ジャンボ」の愛称がふさわしいものとされますが、この愛称は747の専売特許。一部には747以外のワイドボディ機、例えばボーイング777などをも「ジャンボ機」と形容する向きがあるのですが、それは厳密にいうと誤りです。「大型旅客機」=「ジャンボ機」ととらえれば、必ずしも間違いではないのですが、愛称としていただいているのは747だけということです。

ボーイング747を一番多く導入した航空会社は、実は日本航空(JAL)。全日空(ANA)も国内線用、その後の国際線就航に伴って多数の747を導入しており、日本は一番の「ジャンボ王国」でもありました。

しかし。

国内においては平成17(2005)年の伊丹空港への3発以上の機材の乗り入れ禁止、国際的にもより燃費のいいボーイング777の台頭などで、「ジャンボ」は徐々に数を減らしてきます。JALからは平成23(2011)年に、その3年後にはANAからも退役、日本国籍の「ジャンボ」が消えました。その後も政府専用機として2機残存しましたが、こちらも平成31(2019)年4月にボーイング777に変更され、これで日本国籍の「ジャンボ」が姿を消したことになります。

その後は海外から飛来する機材が残りましたが、これらも徐々にボーイング777などに置き換えられていき、4年前の「コロナ禍」でとどめを刺されました。この年までに英国ブリティッシュエアウェイズ、豪州カンタスなどからも「ジャンボ」が消えました。世界的には貨物機などでまだ残っていますが、既にボーイング社は747シリーズの製造を取り止めてしまっています。

 

既にエンジン3発のジェット機はほぼ姿を消し(DC10、MD11など)、4発のジェット機もこれから勢力を縮小していくものと思われます。ボーイング747の売りは、大きな収容力と長い航続距離でしたが、それらはもはやボーイング747の専売特許ではなく、ボーイング777で代替し得るものとなっています。そうなれば、燃費に劣る4発機が双発機に取って代わられるのは当たり前です。

 

旅客型が退役して、今年で10年。政府専用機の退役からでも5年が経ちました。

今でも羽田や成田、伊丹など国内の主要空港を訪れると、「鶴丸」あるいはトリトンブルーを纏った、あの巨体でありながら優美な機材が姿を現すのではないかと思ってしまいます。

というわけで今回は、「象」にかこつけた飛行機のお話でした。

 

【おことわり】

当記事は04/28付の投稿とします。

大井町線に続いて導入されたものの、あまり利用は伸びなかったようで、「綱島までお得にキャンペーン」を展開するなど、利用促進に様々な手を打っていた東急東横線の「Q SEAT」。

このたび、東急大本営から「サービス内容の一部変更」がアナウンスされました。

 

東横線 有料座席指定サービス「Q SEAT」 サービス内容の一部変更~2024年5月7日(火)からサービス時間帯の拡大およびサービス両数を変更いたします~

 

対象列車を拡大することと(2本増)、その一方で対象車両を現行の2両から1両にすることがアナウンスされております。

 

以下引用開始

1.サービス変更日
2024年5月7日(火)
2.サービス変更内容
(1)サービス時間帯の拡大
現在の1日5本運行から2本増発し、合計1日7本で運行します。

(該当列車の時刻表画像等は省略)     
(2)サービス両数の変更
10両編成のうち、一部列車の4・5号車でのサービスから、一部列車の5号車のみでのサービスに変更いたします。

以上引用終了

 

東急公式より。赤字は管理人)

 

これはどういうことかというと、やはり「利用の低迷」ということが大きいのではないかと思います。

そしてその「利用の低迷」に関しては様々な要因が指摘されています。

 

料金が高過ぎる…これは、1乗車500円という額が単純に高いというのもそうですが、同時に「サービス内容に見合う額ではない」という意味を含むものと思います。

 

乗車時間が短すぎる…多く聞かれるのが、「直通先の副都心線、例えば池袋とか新宿三丁目くらいからなら利用したいが、東横線内のみでは利用する意味がない」という意見。

 

これらはいちいち正鵠を射ていると言わざるを得ませんが、衝撃的だったのはやはり「2両を1両にすること」でした。つまりこれは、「1両で需要を賄える」と判断されたことに他ならず、利用の低迷を会社側が正面から認め「撤退戦」を仕掛けたといえます。

 

さて、そうなると「Q SEAT」組込み編成の4・5号車は、1両(5号車)がロングシートモードで運用されるようになりますが、その5号車の「Q SEAT」ラッピングがどうなるのかということ。流石に一般車と同じ内装に改造するとは思えませんが。

 

剥がされる?(以前の記事から転載)

 

しかし「Q SEAT」車仕様のままで、一方をクロスシートモードにして着席料金を徴収し、もう一方をロングシートモードにして着席料金を徴収しないというのでは、両者の違いはもはや「座席が確保されること」と「前を向いて座れること」(ただし車端部座席を除く)しかなくなってしまいます。その違いが果たして500円を支払うに値する差なのかという点は、管理人は激しく疑問を覚えるのですが…。

東急のやりそうなことは、5号車の一般車仕様を新造して組み込むこと。あるいは順次一般車仕様に改造するのか。

 

管理人は、「Q SEAT」のような着席サービスは、停車駅の多い急行ではなく、停車駅の少ない特急・通勤特急でこそ実施すべきだと思いますが。そして同時に、乗り入れ先から、少なくとも新宿三丁目くらいからの利用を可能にさせるべきだと思います。

現行のままとするなら、もはや値下げしかないような気がしますが。

 

◇関連記事

 

この話題は東横線沿線住民としては一抹の寂しさを感じざるを得ませんが、それでも今回のブログナンバー6154にふさわしい話題ではあると思います(理由は後述)。

 

西武池袋線から地下鉄有楽町線、また地下鉄副都心線を通して東急東横線及びみなとみらい線に乗り入れてきていた西武6000系。その中でもアルミ車体を持つ編成(車号の下2桁が50番代となっているもの)が、地下鉄直通運用から撤退したということです。

 

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今後6000系アルミ車が東横線を走ることはなくなる

 

実は10年近く前、「黄色い電車の復活」で話題をまいた6000系のリバイバル仕様(ラッピング)ですが、これが施された編成はアルミ車だったのです。ステンレス車と違って車体側面のビードがないので、ラッピングがやりやすかったからかもしれませんが。

 

いうまでもなく、この話題は鉄道趣味界では騒然となっているようで、「鉄道コム」もこの話題を取り上げております。

 

 

上記リンク先から引用します。

 

ここで気になるのが、「サイレント撤退」した車両の今後。地下鉄直通の任を解かれた6000系の今後などについて、西武鉄道の広報に話を聞きました。
まず、6000系アルミ車両などが直通運用から外された理由は、40000系の導入による置き換えであるとのこと。また、40000系には座席転換できる車両とロングシート仕様の車両の2タイプがありますが(現在、前者の直通運用は「S-TRAIN」が中心)、前者を直通の一般列車に投入し、撤退した6000系の穴を埋めるかについては未定だそうです。今後、直通対応車両がいずれ40000系で統一されるのかは、その時期を含めて未定と説明。なお、6000系アルミ車両の新宿線転属については、現時点で予定はない(※)といいます。

 

※=6000系ステンレス車の一部が直通運用の任を解かれ、新宿線へ転属しているということから。

以上引用終了(赤字は管理人)

 

やはり40000系に統一する予定なのか…。

 

地下鉄乗り入れの西武車は全てこれになる

 

やはり車齢の問題があるんでしょうか。しかし、新宿線にいる第01・02編成以外の副都心線乗入れ対応改造車は、機器類を更新しているはずですが…。それか、車種の統一・単純化の要請か。異常時の対応を考えたら、車種は少ない方がいいですから。車種が多いのを喜ぶのは愛好家だけです。

 

「陸に上がった」6000系アルミ車は、恐らく今後は池袋線の地上運用に専従するのでしょう。

 

ちなみに、なぜ当記事のブログナンバーが記事の話題にふさわしいかですが、それは東急に初めて入ってきた(管理人が元住吉で目撃した)西武車が6154Fだったから。もしかしたら6154Fが初めてではないかもしれませんが、管理人が直に東急の線路上で目撃した編成がこれだった、ということでご容赦を。

 

【おことわり】

当記事で使用している写真は、全て以前の記事からの転載です。

今回から全13回(予定)にわたり、「青ガエル」こと東急5000系(初代)を取り上げる連載「The “FROGSHIP”」を開始いたしますので、よろしくお付き合いのほどを。
なお、当連載において東急5000・6000・7000の各系列に言及する際には、いちいち「初代」はつけません。

5000系の登場は、当時の東急車輛製造(現J-TRECこと総合車両製作所。以下『東急車輛』という)の状況が深くかかわっています。
東急車輛は、東急横浜製作所を前身とする鉄道車両メーカーで、「大東急」を構成した東急・京急・小田急・京王の4社が出資し、現在の横浜市金沢区にあった海軍の工廠を譲り受ける形で、戦後に発足しました。発足直後は終戦直後という不安定な世相も相まって多少の混乱もあったものの、昭和20年代半ばの朝鮮戦争特需があったこと、その後次第に世の中が落ち着いてきたことで鉄道車両の受注も増え、旧「大東急」の4社だけではなく、国鉄からも車両の受注が増えていきます。国鉄からはあの「湘南電車」こと80系電車やスハ43系客車、キハ10系気動車などを受注し、東急車輛は鉄道車両メーカーとしての実績を少しずつ積み上げていきました。
しかし、当時の東急車輛はまだ新興メーカーに過ぎず、戦前から稼働している同業他社と比べると、受注実績や技術力などではこれら同業他社の後塵を拝していました。
そこで当時の東急車輛製造の幹部は、なにがしかの技術力を示さなければ同業他社の間に割って入ることはできないと考えるに至ります。
そのような状況下、東急電鉄はある車両の投入を立案します。車両メーカーとしての東急車輛も、新興メーカーとして既存メーカーに割って入るべく、乾坤一擲の大勝負とばかり、この立案に乗ることになりました。

その「ある車両」こそ、「青ガエル」こと5000系。
この車両の最大の特徴は、車体に限らず車両重量を極限まで軽量化したこと。そして在来の車両との混用を一切考えない、全くの新系列として設計されたこと。
当時、昭和20年代後半の時点で、鉄道車輛メーカーと電機品メーカーは、戦時中の沈滞を取り戻すべく新技術の試作と導入に意欲を示していました。
そのひとつが吊掛式からの脱却。
昭和28年には日本初のカルダン駆動を採用した電動車として京阪1700形、営団地下鉄(当時)300形が世に出ていましたが、当然5000系にもカルダン駆動の採用が考えられていました。そして勿論、5000系最大の特徴である「超軽量車体」。これは航空機のボディの構造に範をとり、車体全体で強度を負担する構造を採用したもの(張殻構造)。従来の鉄道車両は、台枠をとにかく頑丈に作って、その上に車体を組み上げる方式でしたから、車体の耐久性は非常に高かった一方、重量が重くなりすぎるきらいがありました。これでは単位重量当たりの出力が小さくなりますが、だからといって吊掛駆動のままでは、電動機を大出力にするとばね下重量が重くなり路盤に与えるダメージも大きくなりますので、従来型の車体構造+吊り掛け駆動方式では、高速化には自ずと限界がありました。そこでカルダン駆動を採用することで、ばね下重量の増加という呪縛から解き放ち、さらに車体を軽量化することで、路盤に与えるダメージを大きくすることなく単位重量当たりの出力を向上させることが可能となります。
さらに、このような「単位重量当たりの出力の向上」は、乗客数あるいは運転上の最高速度が同じであれば、消費電力量は少なく済むので、消費電力量の削減にも寄与することになります。またばね下重量など車両の重量そのものを抑えることで、路盤に与えるダメージも小さくでき、保線などのコストも抑えることができます。
既にこのような車体構造の考え方は、西鉄の313系に端を発し、営団300形などでは部分的に採用されていますが、5000系はそのような考え方をもっと徹底したものとなっています。

5000形の設計思想、今でいうコンセプトについては、当時の東急電鉄の車両部長だった田中勇が東急車輛製造の担当者に言ったとされる「何処のものにも負けない様な超軽量車を作ってくれ。寿命は10年くらいと考えて良い」という発言が、全てを物語っているように思われます。
しかし流石に、当時の東急電鉄の社内では、5000系の開発・投入に懐疑的な見方をする幹部もいたようで、完全なコンセンサスが得られたわけではなかったようです。そのことを示す傍証が、昭和28年に東急がデハ3800を2両だけ投入したこと。この車両は「バス窓」と称される、上部嵌め殺し・下部のみ開閉可能にした側窓を導入するなど、車体の軽量化には一応の配慮を示してはいるものの、車体構造は従来どおりであり、なおかつ駆動方式は旧来の吊掛式と、戦前の技術の延長線上にある車両となっています。一説によると、デハ3800の導入は、5000系の導入がうまくいかなかったときの「保険」としての意味合いもあったとされていますが、それも頷ける話です。
なお、デハ3800は、東急で最後に投入された吊掛駆動の新造車両となっています。
デハ3800の投入の経緯に加えて、当時の東急電鉄の社内の「空気」が何となく読み取れるのが、田中と当時の部下であった白石安之とのやり取りです。白石は、田中に対し「この超軽量電車はあまり画期的過ぎて不明の点も多いので、もう少し在来的な考え方を入れたらどうでしょうか」と進言したのに対し、田中は「脱線や転覆をする電車では困るが、東急車輛が鉄研(国鉄の鉄道技術研究所)の援助を得てやっているのだから、お前があまりとやかく言うな」と返したという話が残っています。以下は管理人の想像ですが、田中以外の幹部から「あの車両は本当に大丈夫か」「あんなものを導入するとは正気か」などという冷ややかな反応が社内にあったのではないか、白石はそれら「懐疑派」の突き上げを食らってこのように田中に進言したのではないかと思われます。
社内でのコンセンサスが得られていない状況は、現車が落成してからも続いていました。当時の車両課員であった金澤秀雄氏の記述によれば「この革新的な車輛新造計画は極秘に進められたため、部内でも、関係者間のコンセンサスがないまま元住吉構内にシートで覆われた姿で搬入されてまいりました」とのことです。

そのような綱渡り的な状況ではあったものの、とにかく5000系は昭和29(1954)年に第一陣の3連が2本落成し、元住吉の車両基地に運び込まれます。
そして5000系は、同年東横線でのデビューを果たし、デビューとほぼ同時に東横線、否東急におけるフラッグシップの座を不動のものとしました。その理由は、従来の車両と全く異なる風貌と、目にも鮮やかなライトグリーン単色のカラーリング。そして従来の車両と全く異なる、世にも静かな走行音。従来の車両とは何から何まで違いすぎる新型車両に、利用者や沿線住民は喝采を送りました。
そして明らかになったのは、東急車輛の技術力の高さ。車両メーカーとしての東急車輛にとっても、5000系の誕生が同社をトップランナーに押し上げる原動力となりました。まさに東急車輛は、乾坤一擲の大勝負に勝ったことになります。

次回は、5000系の構造その他スペックについて詳しく取り上げます。

-その2に続く-

【おことわり】
・ 文中敬称略。
・ 田中と白石の言動及び金澤の発言については、宮田道一・守谷之男・杉山裕治著「東急5000系と伊豆急100形」(アールエムライブラリー98・34復刻版 ネコ・パブリッシング刊)によりました。

前編から続きます。

 

高輪ゲートウェイ駅に到着した後は、バスはそのままその場所で折り返しを待ちます。

管理人は、下神明駅入口のバス停の写真を車内から撮り損なったこと、ここからどうやってR15を品川駅方面へ折り返すのか知りたくなったこと、以上の理由で帰りの便にも乗車することにしました。運転手さんには怪訝そうな顔をされましたが…(滝汗

 

…それはさておき。

 

R15の上り線から発車する

 

帰りも「ヲタ席」に座り、どうやって折り返すのか観察することにしました。

すると車は、R15上り線をするすると右へ寄り、泉岳寺交差点へ。ここは高輪ゲートウェイ駅開業前は三叉路となっていた場所。その右折レーンへ。

 

もしかしてここでUターン?

 

もしかして往年の関東バスの中野駅~小茂根間の路線のように、交差点でそのまま転回するのかと思ったのですが、右横を見るとバスの体躯から転回は無理そう。

 

そのまま右折

 

結局、Uターンではなく右折し、高輪ゲートウェイ駅近くまで入っていくことになります。

 

絶賛工事中

 

そして本来の駅入口付近は、バス停がなくなっていました。

 

渋43で乗ってきたときはこの写真の手前あたりにあった

 

ここを通り抜け、R15の下り線へ。つまり、周囲の道路をぐるりと大回りして折り返したということになります。

 

ここを左折してR15の下り線へ出る

 

R15の下り線へ出た後は、往路の巻き戻しなので車窓は省略。ただし、品川駅からまとまった乗車があったのには驚きました。北品川でも数人の乗車があり、「井50」「井51」の両系統、本数は少ないながらも定着しているようです。

 

そして問題の(?)下神明駅入口バス停で下車。運よく停車中の写真を撮影できました。しかも行先表示のLEDが「キレテナーイ!」(某剃刀のCM調)。

 

見覚えのある場所へ

 

この場所、やはり以前の記事で取り上げた「バス路線のないバスベイ」でした。早晩バス路線の開設はあると思っていましたが、やはり東急バスだったか。

こちらはバスが去った後に撮影した停留所の写真と、一昨年1月に視察した際に撮影した写真です。比較の意味であえてノーキャプションで。

 

 

 

手前側のバリケード(2枚目写真の右側に写っているやつ)が取り払われ、バス停ポールも建てられ、バス停として機能するようになっています。

 

こちらは往路に撮影し損なった、大井町駅・高輪ゲートウェイ駅方面の乗場。こちらも2枚目を昨年1月の写真とし、同様にノーキャプションとします。

 

 

 

こちらもめでたくバス停となりました。

ただし、歩道部分は未整備のところが残っているようで、工事用バリケードが残っていました。奥に見える二葉トンネルは手前にある豊トンネルとは違い、歩道部分がありません。追って整備されることになるのでしょう。

 

このあと、管理人は大井町線の下神明駅まで歩いたのですが、距離の割には道が分かりにくく閉口しました。バス停の奥、二葉トンネル寄りの歩道が整備されれば、もう少しわかりやすくなるのでしょうか。

 

さて、総括。

本数は少ないながらも、両方向とも乗車率は決して悪くなく、定着している印象を受けました。

そしてこの路線が品川区役所へのアクセスを担っているというのであれば、平塚橋~下神明駅入口間に全く停留所がないのは改善の余地があると思います。具体的には、荏原中延駅近く、戸越三丁目交差点と戸越公園駅近くの3か所に停留所を設けること。地元からの要望がないわけはないと思うのですが、調整に難航したのでしょうか。

この路線が学芸大学駅付近まで伸びれば…というのは、管理人の我儘ですね、はい(^_^;)


【取材日 令和6年4月18日】

 

◇関連記事

 

 

【おことわり】

当記事は04/21付の投稿とします。