【ああ朝鮮通信使】その4、「街の繁栄、女性の美しさ」に驚愕!悔しがる朝鮮通信使 | funkaのブログ 

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怒れるおばさんたちは時々噴火します!


「おい、もうその辺でよせ。」と、夫が私を制する。
相手の顔色が青ざめ
必死で怒りを抑えているのが私にも分かる。
でも、
止める訳にはいかないのよ。
私の日本人としての怒りも爆発寸前なんだもの。

「日本の文化は全て朝鮮に教えてもらった!」
と信じている日本人には
どうしても、読んでもらいたい歴史の本があるのよ。

「当時の朝鮮通信使の記録が残っているの。
 待ってて、コピーを持ってくるから。」
と急いで部屋からコピーを持ってきて渡した。
相手は、怒って帰るところだった。

渡したのは、
金仁謙著「日東壮遊歌」
の一部をコピーしたもの。

もう、ネット社会では、
知らない人がいないほど有名な本。

江戸時代に日本へ来た朝鮮通信使の一人、金仁謙。
彼がその時の体験を当時珍しいハングルで記した旅行記だ。

これを読むと
「朝鮮は先進国で、日本のお師匠」と思い込まされている
日本人の洗脳が解けるのよ。
当時の朝鮮人が書いている感想文だもの。
説得力はスゴイものがあるわ。

怒って帰って行った人とは、どうなったか?
数日後には仲直り。
今では、信頼できる友だと私は思っている。

日本人が”歴史の事実”を知る事が
この国を守り、子供たちを反日国家から守る安全保障となる。


歴史」は、強力な武器
 日本を守る最強の武器
 国民を守る最高の武器

 

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では、最後の項です。

日本の豊かさに驚愕し、
  嫉み、悔しがる通信使



現代のコリアンよりも当時のコリアンの方が正直だった。
朝鮮通信使 金仁謙は、日本の大都市を見て
その凄さを「日東壮遊歌」に書き残している。
どうぞ、ご覧ください。
読みやすいです。 した          

  金仁謙著「日東壮遊歌」

  …日本の繁栄を羨み恨む朝鮮通信使の記録

  http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/ee10cebd4441efe900f466b8f41044f8

一部文字をピンク色に変えました。

………………
一部転載


朝鮮通信使、金仁謙の著書『日東壮遊歌』 より

●1764年1月22日 大阪

100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、
銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」
と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、
この土地にやってきた。 そして2000年の間、平和に繁栄し、
一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。


●1764年1月28日 京都

街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、
肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。悔しい。
 「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。

この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。


●1764年2月3日 名古屋

街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、

家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、
名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、
頭を左右に必死に動かしている。


●1764年2月16日 江戸(東京)

左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、人々の賑わい、男女の華やかさ、

城壁の美しさ、橋や船…。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。

…………………転載終了


大阪は、ソウルの繁華街の10000倍の発展だと言う。
江戸は、大阪の3倍優っていると言うのだから、
文章で表現することは不可能だと告白する。
なんて正直な人なんでしょう

意外だったのが、
名古屋の発展と美人が多かったという記述。
現在の名古屋からは、とうてい想像できない…。

日本人は、
周の時代に日本列島にやってきて2000年の間、
平和に発展したと理解しているようだ。

「周の時代にやってきた」

当時の李朝の知識人は、そのように習っていたらしい。
中国から教えられたのだろうか。

「晋書」倭人伝には、
倭人が「自ら大伯の末という」と書かれている。
太伯王の長子での国を建国した人。
    
日本人(倭人)は、
呉の民ということか。越の民とも言われていたが。

稲作を伝えた民が「呉・越の民」というのは、
 ほぼ全歴史学者が認めている事だが、
 日本人、とりわけ天皇家の祖先をシナや半島に求める説は
 否定している学者も多い。


  邪馬台国の会ブログより
  「中国古伝承の中の倭」
  http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm

…………………一部抜粋

「…そして、倭人は呉の太伯の子孫だとする伝承がある。
たとえば、『翰苑』には、
「(倭人は)文身黥面して、なお太伯の苗(びょう)と称す。」と記され、
又、 『魏略』を引用して
「その俗、男子は皆黥面文身す。
 その旧語を聞くに、みずから太伯の後という。」と記す。 
同じような内容が、『晋書』「倭人伝」、『梁書』「倭伝」
『北史』「倭伝」等にみえる。

宋の末から元の初めごろの歴史家、金仁山(1232~1303)は
『通鑑(つがん)前編』のなかで次のように記す。 
「日本いう。呉の太伯の後なりと。けだし呉亡んで、
 その支庶(ししょ:傍流)、海に入って倭となる。」 

周の王族の姓は姫氏であった。
そのため、周から出た呉も姫姓であった。
『日本書紀』の平安時代の講義筆記ノートである『日本書紀私記』に
「日本の国が、姫氏国と呼ばれるのはなぜなのか」という質問が載っている。
そのころ、日本が、太伯伝説にもとづき、
中国から姫氏国と呼ばれていたことがわかる。  …」


……………………抜粋終了

呉が越に滅ぼされたのがBC.473年。
その前後に呉の人々が列島にやってきて、
水田稲作を日本に伝えたという説と言い伝えは一致する。

日本を瑞穂の国と称するのも、
仏教徒が「呉音」を死守したのも、
民族服として「呉服」(日本の着物です)を
守り通したのも、
生活の基本である数詞が呉音なのも
日本人(倭人)が
呉の太伯の末であるからか?

数詞「いち、に、さん、し…」の読み方は、
 呉音です。中国・韓国とは異なります。

興味が湧いてくる。


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では、
朝鮮通信使シリーズ
「教育出版に反論~」、
【ああ朝鮮通信使】その1~4、と書いてきましたが
これで一応終了いたします。
まとまらない文を辛抱強く読んでくださり、
本当にありがとうございました。


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