【ああ朝鮮通信使】その2、「交流」ではなく、江戸幕府への「朝貢」だった! | funkaのブログ 

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怒れるおばさんたちは時々噴火します!

前回は、室町時代の朝鮮通信使が
室町幕府から冷たくあしらわれながらも
日本から真摯に学ぼうとする姿勢をが見られた事を書きました。
世宗時代のことです。
http://ameblo.jp/sakurajima-funka/entry-12251535714.html

本日は、その続きで
江戸時代の朝鮮通信使は「日本への朝貢団
であったことを書こうと思います。
…………………………

さて、
江戸時代は、清の属国だった朝鮮。
儒教の朱子学の教えで
「働く」事、「モノを作り出す」事が蔑まれた500年間。
結果、
針一本作れず、中国に買いに行く始末。
国の主要産品は、朝鮮人参。それに頼るだけの貿易。
首都ソウルにさえ
商店一つない、壮麗な宗教建築一つない、
庶民の娯楽である劇場一つない、
貧しく文化の遅れた国になり果てた”李氏朝鮮”。

その国が
「日本に、進んだ文化を伝えました。」 ?
「日本に大きな影響を与えました。」 ?
「有田焼など、高い技術が伝えられました。」 ?
はあ?
どうしてそうなるのでしょう?

…………………
市の図書館にある教科書コーナー。
その歴史教科書の「朝鮮通信使」の項には、

教育出版社小6上
p70
-鎖国のもとでの交流-
……また、朝鮮通信使が日本をおとずれ、
……この交流を通して、朝鮮や中国の文化が伝えられ、
鎖国下の日本に多くの影響をあたえました。
……
p61
●朝鮮から伝えられた焼き物の技術
……また、朝鮮から日本に連れてこられた人々もいました。
こうした人々の中には、すぐれた焼き物をつくる技術をもつ人々がいて、
彼らを通して高い技術が日本に伝えられました。
これ以後有田(佐賀県)や萩(山口県)など、
各地で焼き物の生産が始まり、現在まで受け継がれています。


写真で有田焼の茶器が紹介され、
有田焼…はなやかな色絵が特徴です。

※(李朝時代に色絵の陶磁器があるなら見せて欲しいです。
  朝鮮人陶工がその技術を教えたならば、
  当然、半島に素晴らしい作品群が残っているはずよね)


ちなみに
韓国の「国定韓国中学校歴史教科書」には、
「通信使は、日本の要請を受けて、日本に渡り、手厚い保護を受け、

日本の文化発展に貢献した。彼らが訪れた後には、
日本国内に朝鮮の文化と風俗が広まるほどであった」
と書いてあるそうだ。


  有田焼に関しては、次のブログを参考にしてください。
  柿右衛門が残した言葉に歴史の真実が隠されています。
  参考になさってください。
「有田焼」は、明と日本の陶工により誕生した。
 
  funkaのブログより
  柿右衛門の遺言「有田焼は、明末、明の陶工が…」
  http://ameblo.jp/sakurajima-funka/entry-11557159595.html

 

……………………

 

教科書は、
「交流」と書いています。
本当にそうなのでしょうか?

では、「交流」か「朝貢」か調べてみましょう。


朝鮮通信使は、
 江戸幕府への
朝貢」であり、
 「交流」ではなかった。

  
     参考にした本を紹介しておきます。

       「韓国の妄言」別宮暖朗 

                 (並木書房2006年)

……………………………

 

その1、
日本から朝鮮への使節団はなかった

「…………
朝鮮通信使は、
江戸時代12回、朝鮮から日本へ派遣された。
注意すべきは、この逆がないことである。………」


 

えっ?えーっ!!
朝鮮から日本への
一方的な使節団の派遣であり、この逆がないという。
本当か?
もし、これを”交流”と称するなら
両国が使節団を相手国に送る筈ではないか?

…………………
その2、
日本側記録に
朝貢、献礼などの文字がある
「…………
そして外交を担当していた対州(対馬)藩の
釜山江戸時代の公文書は全て館”である。
館”表記は
1960年以降の日本の歴史本に見られる
からの「将軍の代替わり」などの連絡により、
通信使が派遣されたのである。
そして徳川実記や接待に当たった要人の手記には
朝貢献礼などの文字があり
通信使を「朝貢使節」と見ていたことは明らかである。
……………」

 

えっ?えーっ!!

朝貢献礼の文字?
日本の幕府は、朝鮮通信使を
徳川幕府への朝貢使節」と捉えていた?

うーーーむ、確かに。

……………………

その3、
金仁謙は、この「朝貢」を      
      屈辱と捉えていた

朝鮮側にも記録がある。
朝鮮通信使、金仁謙は「日東壮遊歌」に
屈辱の「拝礼」と書いている。


「……………

さらに慣例として、将軍謁見の儀式を「拝礼」としていた。
すなわち、
朝鮮国王が将軍に臣礼をとる形式としていたのである。

金仁謙の「日東壮遊歌」の記述には次の記述がある。
国書を奉じて行かれる使臣方は恥辱を痛憤されましても
 王命とあれば致し方なく行かれもしましょうが
 一介の文士である私としては行事を見る為に行き
 犬にも等しい倭人拝礼するのは苦痛です。
 どうあっても行けません。

金は三房書記として江戸まで来たのだが、最後の行事である
将軍の謁見について、このように屈辱であるとして拒絶した。
マナーの悪さと誇り高さ が朝鮮通信使の特徴であった。」


●●●●●●●●

つまり、
「朝鮮通信使」とは、日韓両方の記録からわかるように
日本への朝貢使節だった。

 

ん?
別宮暖朗という著者が信用できない?
疑う人は、直接原典に当たってください。
「徳川実記」及び接待係の要人の手記、
金仁謙の「日東壮遊歌」に。

そこまでしなくても、
「朝貢」であった証拠があるの。
「費用全額日本持ち」だったこと。
これが
日本への「朝貢」の動かぬ証拠なの。


費用全額日本持ち」
これが”朝貢”の動かぬ証拠!


かつて、中国の時代の「朝貢」でも
朝貢国の表敬訪問は、全額費用中国負担であった。
朝貢」は、受け入れ国が全額費用負担が当たり前である。

 

江戸幕府も、中国と同じようにしただけだ。

 

 
●●●●●●●●●


「…使節は400人以上に達する大行列だった。
 人数が増えるのは朝鮮側の希望であり、
 一つにはすべての旅費・遊興費などが日本負担で
 路銀などの名目で現銀が全員に配られたためである。」
  

 

        別宮暖朗著 「韓国の妄言」より

 

 
●●●●●●●●●


朝鮮通信使たちの渡航費、遊興費は全て日本持ち。
又、路銀(旅費)として現銀が全員に配られた。
だから、希望者が殺到。漢詩の暗唱などのテストをして
人数を絞っても400人。すごい人気ね。
中でも儒教官僚はこの機会に密輸出もやっていた。
朝鮮人参を日本で売りさばき現銀を得ていたそうだ。
「朝貢」てこんなにおいしかったのね。
一時、「臣下の礼」を取るだけで、
タダで大都市を旅し、旅館や料亭で、
飲み、食い、遊び、そして密輸で稼げるのだもの。
貧しさに喘いでいた朝鮮にとっていい事づくめじゃないの。

屈辱…と怒って見せた金仁謙
日本の旅は満喫していた。

 

怒りは、ただのポーズだったのかしら?

 

………………………

”朝貢”でなければ、
徳川幕府が朝鮮通信使たち全員に
現銀を与える訳ないではないか。
ただの「交流」なら、渡航費用や支度金は自前だ。
費用全額日本持ちということは、
まぎれもなく、
これが「朝貢」であるという証拠
だ。
岡田英弘著「倭国」に中国の朝貢について書かれています。

徳川将軍に朝鮮王が
臣下の礼をとる」からこそ、
渡航費も滞在費も遊興費も全て日本持ちなのだ。
400人分もだぞ。
なぜ、そこまでして?

 「朝貢」とは、国内向け「私は権威あります」宣伝?

日本側としては、かなりの財政負担。
朝鮮側としては、
ただで家臣たちに豪勢な旅をプレゼントしてあげられるチャンス。
貧しい朝鮮にとっては、願ってもないチャンスだったと思う。
「臣下の礼」を一時我慢すれば、後は、お楽しみだらけだもの。
だから、希望者が殺到するのも無理はない。

それに対して日本側は、
全額費用負担。マナーの悪さもただただ我慢。
どう見ても「朝貢」て、受け入れ側が損よね。
それなのに、なぜ受け入れるのかしら?
岡田氏の「倭国」を読んでfunkaなりに解釈すると…
「朝貢」とは、
時の権力者が国内の民衆に向けて
「私は外国からもこんなに慕われています!」
とアピールすること。

ということになるかな。
受け入れ側の必要性から生まれたパフォーマンス。

隣国朝鮮から400人もの使節団が
日本国の将軍に臣下の礼を取る為、
大阪→京都→名古屋→江戸と大行列で
賑やかに大行進するわけだ。
それを日本の民衆が見物するのだから
ものすごいアピールになると思うよ。
豊臣方の生き残りも圧倒されて
政権奪取の気力を失うかも。

中国の漢の時代も、
費用全額中国負担で「朝貢」を受け入れていた。
そこまでして「朝貢」を受け入れる理由は、
出来立て及び弱体化した政権を
盤石なものにする為の手段らしい。

敵は、外から攻めて来る匈奴だけではない。
政権内でもN0.2や3が
大衆(第3者)を味方につけて
いつ皇帝の地位を乗っ取るかもしれない。
周りは敵だらけ!
戦に勝って、国の覇者になっても不安は尽きない。
やっと手に入れた権力を
奪われないためにはどうしたら?
そうだ!
国内の民の圧倒的支持!これだ!

そこで、
第3者で圧倒的多数である大衆に
現政権のトップ(皇帝、日本では将軍)の許へ、
 国外からも、その徳を慕って「臣下の礼」を取りに
 大勢きていますよー!
」と宣伝し
この国の代表にふさわしいお方」と
思い込んでもらおうという作戦。
いつの世も、
最後は多数派の民衆の支持がモノを言うということか。

だから、
政権が盤石になったら「朝貢」は、必要なくなる。
「費用対効果」が悪いから
「朝貢」をやんわりお断りするようになるのよ。

 

●●●●●●●●●●●●

当時、

大阪も、京都名古屋大都市であった。
江戸は、世界最大の都市の一つ
だから、

 

朝鮮が日本に文化を教えることなんて、

 

あり得ないのよ。
 
ん?
朝鮮は、経済的に豊かで、成熟した文化国家だった?
 
いいえ、それはあり得ません!!
 
貧しくて青い染料さえ買えなかった李朝、
首都ソウルでさえ、店一つなく、
道の真ん中には大便・小便の川が流れていた李朝。
民は乞食のような生活を強いられていた李朝…
 
文字だって、中国の漢文しかなく、
それも両班しか書けなかったではないか。
当時、李朝に文学はあったか?大衆文学はあったか?
 
文化国家だったら、その証拠を見せてください!!!
 
●●●●●●●●●●●
 
もし、
李朝が成熟した文化国家だったと言うなら
エリート層である朝鮮通信使らは、
それにふさわしいマナーを身に付けていた筈。
 
日本の旅で
どんなに素晴らしい振る舞いを見せてくれたことか…

と思うでしょ? 文化国家の使節団なら、と。

  
しかし、
記録に残っているのは、まるで

未開の野蛮人のような素行ばかりであった。

      

朝鮮通信使の”振る舞い”に見る

  「朝鮮王朝」のレベル…

 

長くなったので、続きは、
次回のブログで書きます。



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